郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

因幡 鹿野城を行く

2020-05-15 09:10:55 | 名城をゆく
【閲覧数】2,549 (2013.3.23~2019.10.31)
 
 
 
                                  
 閑静な温泉地というイメージのある鹿野に因幡の城跡探索のために十数年ぶりに訪れた。水をたたえた堀と静かな町のたたずまいの中に因幡・伯耆と呼ばれた頃の歴史を感じることができた。
 








▲江戸期の因幡 鹿野往来 





鹿野城跡のこと   気高(けたか)郡鹿野町(現鳥取市鹿野町)
 

  鹿野は古くから山陰道の交通の要衝にあり、因伯(因幡国・伯耆国)の支配をめざした諸軍勢による争いの中心地となっている。
  
 鹿野城(別名王舎城)跡は、お城山(標高152m)に築かれた。築城年代は明らかではないが、山名氏の配下であった国人領主志加奴(しかぬ)氏の居城であったという。明徳2年(1391)山名氏清・満幸が足利氏率いる幕府軍と戦った時、討死した武将の中に志加奴八郎が見える。

 次いで、天文13年(1544)出雲の尼子晴久が因幡に乱入したとき、この城は攻撃を受け、城主志加奴入道は激戦の末自刃している。
 永禄年間(1558〜70)には因幡守護山名誠通の子山名豊成(とよなり)が布施の天神山よりここに移った。
 天正初年(1582)には山名氏に変わって毛利氏の勢力が伸び、この城は毛利氏の手に落ちる。
 
 天正9年羽柴秀吉の鳥取の制圧により、鳥取城攻めに功のあった尼子の遺臣亀井茲矩(これのり)が鹿野城主となり気多郡(けたごおり)が与えられ、関ヶ原の戦いでは東軍に属してさらに高草郡(たかくさごおり)を加増され3万8千石領している。領内の干拓、用水路の開発、銀の採掘に尽くし、朱印船による東南アジア諸国の貿易などを手がけている。嫡男政矩(まさのり)のとき元和3年(1617)石見国津和野に移封した。
 
 寛永17年(1640)播磨国宍粟藩6万3千石の池田輝澄がお家騒動による改易を受け、甥の鳥取藩主池田光政の預かりにより、妻子共々捨扶持(すてぶち)1万石で鹿野に配流された。寛文2年(1662)には、輝澄の遺領を継いだ政直が播磨国福本に1万石で移封した。 
 
 


 
アクセス
 
 
 
城山の麓にある鹿野中学校を目指す。山城周辺は鹿野城跡公園として整備されている



 



外堀から内堀へと進むと、城山神社の鳥居前に至り、駐車場がある。山城跡へは、城山神社鳥居をくぐることから始まる。
 

 

 ▲城山神社前に駐車場がある 




▲まっすぐに伸びる石段 
 


 
▲城址の由来




▲整備された城址公園
 


さらに進んでいくと、右手に曲輪跡がある。西の丸といい山城部分の曲輪として最も広く、礎石が残り城主亀井茲矩の隠居所跡と伝える。
 



 ▲西の丸(城主初代藩主の隠居所)
 


次になだらかな石段を進むと、右奥に城山神社が祀られている。
 


 
 
▲なだらかな石段            ▲城山神社 
                                    

 
この先がいよいよ山頂部の天守台跡だ。虎口の階段を進むと14~15mの四方の広さがあり、周囲には真四角に敷き詰めた礎石列が残る。
 
 

 ▲天守台の前の虎口          ▲14m四角の天守台跡
 
 
       ▲天守台礎石             ▲天守台跡の図面 説明版より

 

天守台跡の周辺は樹木に覆われているが、北部の1箇所から眼下の町並みとその向うの山々が望める。


 
▲天守台からの展望                                



▲外堀と城下


 天守台跡の後部(南)には小さな曲輪跡と南に降りる搦め手道と思われる道がある。
 


 
    
▲天守台の後部(曲輪跡)        ▲後部の石段
 


 
雑 感
 
 亀井氏の代に城や河川改修などの大改修がなされたとあるが、中世の頃の山城部分には天守周辺と居館跡以外はあまり手が加えられていない印象をもった。 

 近世の平城の多くは、堀がつぶされ道や宅地になり、その形跡が失われていくなかにあって、この鹿野の城跡は、外堀・内堀が今なお水を湛えて、美しい景観が残されてきた。城下には殿町・立町・上町・下町・大工町・鍛冶町‥の地名が残り、その中に京格子の町屋が点在し昔の面影をとどめている。家々の門先に添えられた四季折々の花が目に優しい。
 
 

◆ 鹿野の町かど
 


▲点在する町家


▲家々に添えられた四季折々の花
 


◆ 町中にある幸盛寺で山中鹿助の墓を発見!
 
 
▲幸盛寺                                       



▲山中鹿助の墓
 
 


【関連】
・石見 津和野城をいく

・山崎城(鹿沢城) 宍粟藩初代藩主池田輝澄の足跡を訪ねて

・上月城落城と山中鹿助幸盛





丹後 田辺城をゆく

2020-05-13 12:08:44 | 名城をゆく

~ 細川の古今伝授の田辺城 ~



▲城門 二階が資料館




▲模擬二層櫓
 



▲本丸内 左城門・正面櫓
  



▲天守台 この上には天守は建てられなかったという
 



▲本丸北側の石垣                  
 



▲明倫小学校正門(田辺藩の藩校の面影を残す)




 舞鶴引揚記念館を見るために舞鶴市に訪れたとき、街中で、大手通という地名標識を見かけ後日調べて見ると、そこが城跡であることを知った。そのことがあり、今度は城跡巡りにやってきた。
 今は舞鶴若狭自動車道が開通して、中国自動車道の吉川ジャンクションから丹後の舞鶴や若狭方面へのアクセスが容易になり、播磨と丹波・丹後が身近になっている。



 





田辺城のこと  京都府舞鶴市南田辺 
 

 舞鶴湾(西港)の南岸の平野部にある。田辺城は、別名舞鶴(ぶがく)城ともいう。城郭が鶴が舞う姿からそう呼ばれていたという。

 戦国時代に織田信長の命により丹後の一色義道を滅ぼした細川藤孝(幽斎)が丹後一国を得て、最初宮津城を本拠としたが、天正8年(1580)より加佐郡八田村に3年かけ城を築き,城名を田辺城と名付けた。

 東西に伊佐津川と高野川に挟まれ、南東は深い沼地で西北には舞鶴湾を臨む要害の城であった。
 
 
 
▲細川藤孝の築城当時の田辺城図 (丹後郷土資料集より)
(大手が南にあり、京口ともいい京都方面に続く。)
 


 細川忠興が関ヶ原の戦功により豊前小倉(33万9,000石)へ移ったあと、信濃飯田から京極氏が入部し、大掛かりな城郭の拡張をした。京極氏が但馬豊岡に移封したあと、京都所司代であった牧野氏が入封し、城郭の再普請をし西側に町割りが行われ商人・職人を招き入れ城下町が形成された。牧野氏は幕末まで藩主を勤めた。


 





▲田辺城古城絵図 国立国会図書館蔵 
※牧野氏時代の城図 大手は西に変わっている
 


 現在城跡は舞鶴公園として整備され、模擬の二層櫓「彰古館」が昭和15年(1540)に復興され、城門は平成4年(1992)に建設された。本丸を取り巻いていた水堀はすべて埋められたが、城下の町割りなどはよく残っている。
 
 


▲舞鶴湾古写真 (日本史蹟大系より)
 
 
 ▲昭和23年(1948)航空写真 (国土交通省) 


▲現在  by Google Earth



田辺城の攻防戦(関ヶ原の前哨戦)

 

 
 細川藤孝(幽斎)が入国して20年後の慶長5年(1600)徳川家康が会津上杉討伐に出かけた隙をみて石田三成が会津に向かった豊臣大名の妻子を大阪城に人質をとることにより家康との仲を裂き、味方につける方策をとった。その動きを知った黒田長政や加藤清正らの妻は大阪の屋敷を脱出してことなきをえたが、忠興の大阪屋敷にいた妻ラシャ夫人※は、人質となることを拒否したため、石田方の兵に囲まれ自害した。 
 ※遡ること18年、天正10年(1582年)6月、明智光秀が本能寺で織田信長を討ったため、珠(ガラシャ)を丹後国の味土野(京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉されたとも云われている。

 三成は人質作戦を半ば中止するも、細川忠興が徳川につくことが明らかになったため、福知山城主の石田三成は小野木重勝を中心とした近隣の諸大名に出陣を命じ。約1万5千もの大軍が丹後細川の拠城に向かった。そのころ細川忠興は徳川の会津攻めに加わり、その留守を父の幽斎 (藤孝)が守っていた。宮津城にいた藤孝は三成方の攻撃を知って本拠の宮津と支城を燃やし、籠城を覚悟で堅城な田辺城を選び、わずか500ほどの兵で立て籠もった。大軍に取り囲まれ当初激しい攻撃が繰り返されたが、堀の橋板を外すなど抵抗し、よく持ちこたえ、そのあとこう着状態が続き、50日程たったころ、朝廷側が細川幽斎(藤孝)の死で「古今伝授」の伝道が絶える事を憂慮し、後陽成天皇の勅命により双方兵を引く条件として開城を促し、幽斎はこれを受け入れた。城を明け渡した幽斎は丹波亀山城主前田茂勝に預けられた。




田辺と舞鶴の地名由来

    加佐郡古代の郷 刊本では田辺は田造と表記されている


 
 田辺という地名は、平安期に加佐郡10郷の一つ田辺郷からきている。江戸時代城下町は田辺町と呼ばれた。その田辺が舞鶴と呼ばれるようになったのは、明治2年(1869)版籍奉還の際、明治政府の命により田辺藩が舞鶴藩に改称された。それは紀伊国(和歌山県)の田辺藩と区別するためであった。舞鶴藩は2年後の廃藩置県で藩名は消えることになったが、舞鶴町は、現在舞鶴市となり、田辺の地名は舞鶴市の大字として北田辺、南田辺として継承されている
 



雑 感
 

 田辺城の絵図をみると、堀を厳重にめぐらした縄張りでさぞ名城であったと思われる。しかし明治以降堀が埋められ、天守台と本丸の一部の石垣のみがかろうじて残されたという。そのあと昭和と平成に模擬櫓、城門が整備されている。
『丹後田辺府志』(江戸時代)の中に田辺城の城門(北門・西門)の2枚が細かに描かれているのがわかった。


 
 
▲城西門 侍と職人・商人等が自由に行き来している




▲城北門 船着場、城下への橋が描かれている。
 


 これが古城図のどの部分を描いたものかをみてみると、ほぼ見当がつき、失われた幻の城が確かに存在していたことを感じ取ることができた。
 




 
 しかし、城図の初期のものや最終のものを見てみると、復興された隅櫓の形状や位置は理解できるのだが、本丸に入る立派な城門については、ありえない位置(埋められた堀の上)に建てられており、それは町づくりの拠点のための創作建築物とわかり、復元という観点からいえば少し違和感を覚えた。

参考:『日本城郭体系』、『角川日本地名辞典』



丹波 福知山城をゆく

2020-05-12 10:38:27 | 名城をゆく
(2019.3.24~2019.10.31)


 
 
 今回は丹波の福知山城です。あいにく福知山市は曇り空だったが、城は整然と整備されていて、すぐに登城することができた。復元天守からは、市内が一望できる。丹波の歴史に思いを馳せるのには最適な場所となった。
 
 丹波国は明治に京都府と兵庫県に分けられ、西部が氷上郡(丹波市)と多紀郡(丹波篠山市)が兵庫県に編入され、北・東・南部は京都府側に編入された。京都側の丹波にはあまり足を踏み入れたことがなく、その歴史を探るいい機会となった。



 




 





▲周辺城郭位置図




福知山城のこと         京都府福知山市字内記
 
 

 福知山盆地の中央、西から東に延びる丘陵の先端にあって展望がきき、周囲は急な断崖となり、山麓には由良川と土師川(はじがわ)が天然の堀となって堅城を成していた。城の建っている丘陵は横山と呼ばれ、天文年間(1532~1555)丹波国天田郡で勢力を伸ばしていた横山・塩見氏の居城横山城があった。

 永禄8年(1565)横山・塩見氏は丹波黒井城主赤井(荻野)直正によって滅ぼされたと伝わる。一説に明智光秀の丹波攻めのときに滅ぼされたという。
 
 天正7年(1579)織田信長の命を受けた明智光秀は八上城(城主波多野秀治)、黒井城(城主萩野直正)を落とし、丹波を平定した。

 明智光秀は、横山城を福智山城と改名し城代に藤木権兵衛と三宅弥平次(明智秀満)を置き城の大改築をした。光秀は、天正10年(1582)本能寺の変で信長を討ったものの、山崎の戦いで秀吉に破れ、敗走中に落武者狩りにより殺された。
 
 その後、羽柴秀吉は丹波を羽柴秀勝(織田信長の四男)を亀山城主として福知山城も預けた。そうして城代として杉原家次が入る。家次病没のあと、小野木重勝(おのぎしげかつ)が城主となる。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、小野木重勝は西軍につき、東軍の細川忠興の田辺城(舞鶴市)を攻めた。城主の細川忠興は関東出陣中で、忠興の父幽斎留守を守っていたがよく防戦し和議を結び城を開城した。関ヶ原の戦いの決着後、細川忠興はただちに田辺城に向かい陥落させた。

 後有馬豊氏が六万石で入り、城郭や城下町の完成をみている。遺構の輪郭はほぼ有馬氏のときのものと考えられている。


 
 



▲城図(国立国会図書館蔵)に大手口から天守への通路書込み
 本丸までは、北側の大手門からいくつもの城門をくぐる必要がある。
 
 


 明治4年(1871)福知山城は廃城となり、建物は払い下げられ、二ノ丸は埋め立てられた。二ノ丸の建物が明治20年(1887)に取り払われ、建物の一部や瓦が寺院や民家に使用された。ただ、本丸に続いていた二ノ丸のあった台地がすべて削り取られた。二ノ丸の登城路付近にあった銅門(あかがねもん)番所が大正5年(1916)に天守台に移築された。昭和61年(1986)に大天守、続櫓、子天守が復元された。そのときに、銅門番所が本丸に再移築された。

 本来本丸・二ノ丸・伯耆丸・内記丸と連郭式城郭で繋がっていたのだが、本丸と二ノ丸以外にも伯耆丸と内記丸の間がJR福知山線の建設に伴い分断されたため、すべてが独立丘陵になっている。

 



アクセス
 
 
南のアーチの橋を渡り、天守に延びる登城路を歩けばすぐだ。


 
              ▲新たに作られた登城路 
 


 天守台の石垣は大小のあまり加工されていない自然石とともに多くの石仏、石塔、五輪塔などが転用されている。隙間が目立ちこれでよく崩れないかと心配になるが、これは野面積みで水はけがよくしっかりしているという。
 
 


▲石仏・石塔等が利用された石垣
 


 天守の東側に大きな井戸がある。深さ50mもあり海抜43mなので海より7m深く掘っており、今だに水をたたえている。
 

 

▲豊盤(とよいわ)の井
 


丹波北部にある福知山城の大天守からの展望は福知山(由良)盆地の隅々まで見える。  
 
 
 
▲北西 二ノ丸越しに由良川(音無川)が見える ▲北部
 


 
▲南西部 中央JR福知山線                         ▲西部
 



▲東部 由良川は綾部市に至る




航空写真で見る福知山城周辺の移り変わり 
 

▲昭和23年の航空写真 (国土交通省)   



▲現在 by Google Earth
 
 

  昭和23年(1948)には、川まで伸びていた丘陵は寸断されている。南にはJR福知山線が敷かれ、南に広がっていた田園がほとんどなくなっているのがわかる。

  この土地は盆地の最低湿地であって、由良川と土師川の合流地点に当たるため氾濫に悩まされてきた。
 
 


雑 感
 
  城の位置を西から東に延びる丘陵の先端と書いたが、現在は丘陵の途中が寸断されその表現は的確ではなく、最初に「かつては」との但し書きを入れるべきかもしれない。都市開発の波が、古き遺跡を飲み込んでいく中で、消えてゆく歴史的文化遺産の再生を願った人たちの思いが天守、続櫓、小天守の復元に繋がったのだろう。失ったものも大きいが、残されたものがそれを補っているようだ。

 天守台の石垣を初めて見たとき、埋め込まれた石仏や石塔の多さに驚いた。これらは近郊の寺院などから利用しているという。
 転用については、当時、信長が安土城大手の石段に埋め込んでいる。また、信長家臣の荒木村重も有岡城の天守の石垣に使っている。

この地域は、石材の調達が難しい土地柄であり、築城を急ぐあまりなりふり構わず利用したのか、それとも何らかの意図があってのことなのか、難解である。
 
 





肥前 島原城をゆく

2020-05-11 09:58:07 | 名城をゆく
(2019.3.30~2019.10.31)



 長崎は今日も雨だった! 今まで城巡りの天候は比較的天候にめぐまれていた。しかし、この時ばかりは違っていた。長崎中心地から天草半島の島原城に向かう途中雲行きが怪しくなり、城跡に着いた途端雨の出迎えとなった。よって天守籠城を余儀なくされた。しかし、その分ゆっくりと城内の歴史資料・展示物を見て回ることになった。

 その中で特に印象的だったのはキリシタン関連の展示物の多さであった。あの「踏み絵」があった。キリシタン弾圧の物証の数々を目の当たりにすることになった。
雨宿りのつもりであったが、1時間半ほどの在城で外に出るや本降りとなってしまった。




▲島原城本丸天守(昭和39年・1964復元) 破風がなく威圧感がある
 





▲巽櫓(たつみやぐら)





島原城跡のこと  長崎県島原市城内


 島原城は、雲仙岳の麓の森岳という丘陵に築かれたため森岳城ともよばれた。元和2年(1616)関ヶ原の戦いで功をなした松倉重政が大和五条から有馬晴信の旧領であった肥前日野江に4万3千石を与えられて移封した。重政はしばらくして日野江城から離れ、森岳に新しい居城と城下の建設を計画した。

 城郭の建造は元和4年(1618)から7年を費やして完成させたのが、島原城(森岳城)である。『肥前有馬古老物語』城郭はほぼ長方形の連郭式平城で、本丸、二の丸、三の丸(花畠の丸)が連なり、総石垣に堀を巡らしている。城の北側に侍屋敷がおかれ、城東から城南に城下町が建設され、商人・職人の誘致が行われた。寛永4年(1627)には南北13町で1,000軒があり、当時の石高に比べて町の規模は大きかったとされている。こうして島原半島の小さな一集落にすぎなかった島原は、以後江戸時代島原藩の政庁として半島の政治・文化の中心地となった。

 明治7年(1874)廃城令により、土地建物などが民間に払い下げとなる。明治9年(1876)5層の天守閣が解体された。
 



▲古写真昭和初期   (島原市蔵)



 その後約1世紀を経て、島原市は昭和35年(1560)西の櫓、同39年天守、同47年巽櫓、同55年丑寅櫓をそれぞれ外観のみ復元した。
 



▲島原市の俯瞰   by Google Earth
 



▲1974 航空写真    (国土交通省 より)         
 



▲島原城図 (江戸中期~後期 国立国会図書館蔵) 





 

    
 天守の入口に家紋があり、その家紋をチェックすると、高力(こうりき)氏の家紋が抜けているのがわかった。高力忠房は天草・島原の乱で荒廃した南目地域の復興に尽力した人物。

高力氏の後に入った松平忠房は櫨(はぜ)の木の栽培奨励をすすめた。櫨(はぜ)の実を藩が買取り、木蝋(もくろう)を製造して大阪方面に売りさばき、藩の専売事業として藩財政の重要な柱となった。その他島原酒、蜂蜜、わかめ等の特産品が生まれた。


櫨の実から和ロウソクや白ロウをつくる

▲城内に展示




中世の島原半島

 南北朝期(1336~92)は島原半島の一帯は肥後(熊本)の菊池氏の勢力が及んでいたが戦国期に入ると弱体化し、頭角を現したのが有馬氏であった。室町期、有馬貴純は日野江城を根拠に半島の諸豪を支配し、天文年間(1532~55)には晴純が肥前国一帯を支配する戦国大名となった。

▼島原半島周辺の関連諸城位置図@



 しかし、天正年間(1573~1592)に急速に成長した佐賀城主龍造寺隆信が現れたため、有馬晴信は屈服を余儀なくされていた。しかし龍造寺氏から離反し薩摩の島津義久に援助を求め、天正12年(1584)沖田畷の戦いとなった。龍造寺隆信は大軍を率いて海路で半島の神代(こうじろ)に上陸し、三会(みえ)に進出した。軍勢では圧倒的に龍造寺軍が有利であったが、隆信が島津家久軍の急襲によって討ち取られ、龍造寺軍は全軍総退却し、以後没落した。



天草・島原の乱の背景と経過


1.生産力の低い火山灰の畑地と少ない水田

 火山灰で形成された島原の土地は、畑地が中心で米作が可能な地域は海岸の一部か谷田しかなくそれも湿田が多く、赤米の作付けの土地柄であったため生産力が低かった。度重なる天災や飢饉で安定した収穫が得られなく季節的変動が大きかったものと推測される。


2.島原半島南部はキリシタン王国

 キリシタン大名有馬晴信の支配が長く続いた島原半島南部はキリシタンが根付いていた。晴信の父もキリシタンであり、長崎港を開いた大村純忠(すみただ)の勧めもあり、晴信は熱心な信者となり島原南部はキリスト教の一大布教地となった。この時領内にあった多くの神社仏跡が破壊され、かわりにセミナリヨ(有馬・有家)やコレジオ(加津佐)の聖職者養成学校が建てられ、天正派遣欧少年使節(1582~90)ではローマ教皇のもとへ4人の少年が派遣された。しかし8年後その少年使節が帰国したときは豊臣秀吉による伴天連(ばてれん)追放令(1587)が発令されていたため、殉教や国外追放となった。

 さらに徳川の時代に入って元和2年(1616年)に秀忠は最初の鎖国令を出し、キリスト教の禁止を厳格に示した。家光は長崎奉行にキリスト教徒の捜索・逮捕を指示している。



3.松倉重政の城の建設と重税

 慶長19年(1614)有田晴信の子直純が日向に転封されたあと、松倉重政が入封した。松倉氏は島原城と城下町建設に7年に及ぶ年月をかけたが、その建設に伴う使役と重税が重く農民かけられ、キリシタンの取り締まりが行われた。松倉重政は入封当初はキリシタンには比較的穏健であったが、幕府の取り締まりの強化を受けて、きびしい弾圧を行った。2代藩主となった重政の子勝家は、さらなる容赦のない年貢の取立てと税の新設、そしてキリシタンに徹底した弾圧をすすめた。

 寛永11年(1634年)の飢饉にも救済どころか非情な取立てを強要したため、農民の窮乏と藩政への怒りが限界に近づいていったと考えられる。


4.一揆勃発、天草・島原の乱へ


 ついに寛永14年(1637)島原の南目一帯の大半その数3万8、000人に及ぶ農民が一揆に参加し、武器を持ち、代官を襲い、島原城下になだれ込み島原城を攻めた。この動きは南の天草島にも呼応し富岡城が襲撃された。(当時天草地方は肥前唐津藩2代藩主寺沢堅高の領地でキリシタンの弾圧があった。富岡城には城代として三宅重利がいた。)

 一揆軍は島原城と富岡城を落とすところまで至らず、廃城になっていた旧有馬氏の古城「原城」に籠城した。九州の諸藩の討伐軍の攻撃を撃退し、さらに幕府から派遣された板倉重昌を戦死させたが、援軍の松平信綱率いる大軍12万による3ヶ月に及ぶ兵糧攻めのあとの総攻撃で、一人残らず討ち取られ落城した。
 
 原城にたてこもった農民を指揮したのが旧有馬氏や小西行長の家臣の浪人、庄屋以下の村役人等と考えられている。そのとき一揆軍の結束の中心人物天草四郎(16歳程度の少年。本名益田、父はキリシタン大名の小西行長の家臣)がカリスマ的シンボルとして生み出されたのではないだろうか。


5.乱後の幕府の処置
 
 幕府はこの乱を農民一揆とはせず、キリシタン一揆と見解を示し、これを契機に鎖国体制、禁教の強化をすすめていった。

 乱の責任を問われた藩主松倉勝家は寛永15年(1638)改易され、斬首に処せられた。そのあと譜代大名の高力忠房が入部し、農民の年貢免除、荒廃した領土への移民奨励などの政策をとり藩政の再建をすすめた。



「島原大変肥後迷惑」(しまばらたいへんひごめいわく)

▼眉山(びざん)崩壊による地形変化  資料館展示より




 平成2年(1990)に普賢岳の噴火による大災害が起き、映像に映し出された生々しい火砕流の光景はまだ記憶に新しい。しかしその200年前に日本最大の火山災害があったのだ。

 それは慶長4年(1792)に雲仙岳が大爆発を起こし、眉山の南半分が亀裂し有明海に崩れ落ちた。そのため大津波が発生し、対岸の肥後国(熊本県)まで押し寄せ、島原と肥後の村人死者推定約1万5千人と多くの住居が失われた。その大災害が「島原大変肥後迷惑」とよばれてきた。




雑 感

 時間の制約と降りしきる雨のため、城の周辺や城下の名残りを見て回ることができなかったのは残念だったが、「天草・島原の乱」を考えさせる多くの資料を見ることができたのはよかった。いつか機会があれば、一揆軍が立てこもった原城跡と有馬氏の日野江城跡等を見てみたいと思っている。

 一揆の起きた南有馬町には日本百選の棚田(白木野谷水地区)があることも知った。耕地面積の少ないこの地ならではの傾斜地を利用した耕作地の確保だったのだろう。今はじゃがいもと米の二期作が行われているという。


参考:『日本城郭大系』『角川地名辞典』『島原城・原城 小学館』『戦国 武家家伝』他



石見 津和野城をゆく

2020-05-10 06:48:33 | 名城をゆく
(2019.3.26~201910.31)
  



    かねてより楽しみにしていた西の小京都津和野にやってきた。津和野は山口との県境近くにあり、山口中心部からバイパスと山陰道の9号線で約1時間ほどで行ける。峠から津和野城と町並みが見え、その姿は兵庫県朝来市の竹田城跡とよく似ていると思った。
 


 
 
▲津和野城跡の全景(東の峠から)   (国指定史跡)
          



▲ズーム
 

 
▲太鼓丸城門に向かって 
  

           

▲太鼓丸の石垣
 



▲太鼓丸の南端から二の丸の南方面
 




▲人質郭跡と青野山




 リフトを使わず歩いて探索をする。津和野城の最上部太鼓丸の広い高台からの展望がすばらしく、北東に秀峰青野山、眼下に津和野川沿いの城下が見通しできる。
 
 

▲太鼓丸からの大パノラマ 





津和野城跡のこと  島根県鹿足(かのあし)郡津和野町後田


    津和野城跡は津和野町の西の城山山脈の南端標高367m(比高200m)の山上に築かれている。
鎌倉幕府は2度の元軍の来襲(元寇)により、九州及び中国・四国の沿岸防御のため、吉見頼行を西石見に派遣させたと伝わっている。

 弘安5年(1282)能登より入部した頼行は石見国吉賀(よしか)郡の地頭となり、勢力を拡張し、益田氏と石見国を二分する国人に成長した。
 永仁3年(1295)~正中元年(1324)の間、頼行・頼直父子は津和野に一本松城(後の三本松城)を築き、西麓の喜時雨(きじゅう)を大手口とし居館を置いた。

    吉見政頼が在城のとき、大内氏の家臣※陶晴賢(すえはるかた)と益田藤兼(ますだ ふじかね)と争っている。そのとき城の防備として竪堀などが多く築造されたようである。戦いの結果は政頼が5ヶ月間よく城を守りぬき、和議を結んでいる。この後吉見氏は毛利氏(元就・隆元)に仕えたが、益田氏との所領紛争は続いている。関ヶ原の戦いの後、萩に移り所領も与えられたが主君毛利氏に不穏な動きを見せたため所領を没収され逼塞(ひっそく)した。

※陶晴賢:天文20年(1551)大内義隆の家臣で、主君をクーデターで倒し実権を掌握した。陶氏は三本松城攻撃中の隙をつかれ、毛利氏に安芸・備後の諸城が侵されることになった。この後弘治元年(1555)晴賢は毛利元就と厳島の決戦で大敗している。
 参考:『日本城郭大系』『角川地名辞典』他 


 

▲津和野城図 (江戸中期~後期) 国立国会図書館蔵



 慶長6年(1601)関ヶ原の戦いで東軍で功績をあげた坂崎直盛(元宇喜多姓)が入城し、城下町の建設、城郭の大改修を行なっている。このとき大手口を喜時雨から東山麓の津和野村側に切替えている。

 元和3年(1617)因幡鹿野より亀井政矩(まさのり) が入部し、亀井氏は殿町にあった居館を城の麓に移し、藩邸として整備した。また外堀をひき今に残る城下町の原型を築いた。亀井家は11代にわたって幕末までつとめ廃藩に至った。津和野城は明治7年に民間に払い下げられ惜しまれながら解体されたという。
 


 
 
▲リフト乗り場の上部の登山口   ▲途中リフトの下を抜ける 



 
▲出丸(織部丸)  (ここまで歩いて25分) 
    



▲出丸の石垣 
                 


 
▲本丸に向かう石段                                                                                ▲左の長い石塁に圧倒される                                                



  
▲天守台跡から西(馬立・台所跡)を望む 
 


▲天守台跡から西御門跡を見下ろす
 


 
▲大手登山口の案内板が右端にある                           ▲大手登山口 
 




雑 感

 津和野城域は中世からの砦等を含めるとかなり広範囲になる。砦や竪堀・堀切が尾根筋から枝状に数多く残っている。さらに喜時雨の旧大手口も時間の制約上、見ることができなかったのが残念だった。

 城下に養老館が残っている。これは天明6年(1785)に建てられた藩校で闇斎学・山崎闇斎(1619-1682)を学んだ山口剛斎(1734-1801)が招かれている。以後養老館で明治始めまでに多くの人材を輩出している。山崎闇斎の教えが幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えたことがわかった。


 昭和51年(1976)の航空写真を見ると町の南にあるみごとな棚田が目を見張った。そのいきさつが津和野藩の概要でわかった。藩は財政強化ため新田開発や産業開発をすすめ、山林・原野を開拓し畑や新田を増やしたときのものだ。その推進者が家老多胡主水(もんど)(真武、真益、真陰)の3兄弟で、主水の名にちなんで「主水畑」と呼ばれている。


 ▼津和野町中座の棚田の変遷 昭和51年の航空写真(国土交通省)と現代            by Google Earth


※棚田は江戸時代に新田開発として山林・原野に造られた。現在ほとんどが圃場整備されている。

・青野山の北山麓にある大井谷 の棚田が日本の棚田百選に選ばれている。



 

【関連】
・因幡鹿野城