郷土の歴史と古城巡り

ぶらりふるさと地名考「蔦沢」

はじめに
 播磨西北部の宍粟市(しそうし)山崎町蔦沢(つたざわ)地区の地名の由来を探ってみました。幸いこの播磨には『播磨国風土記』が残されていること、そして蔦沢地区は、山科(やましな)家と万里小路(までのこうじ)家の二つの公家領主の荘園の地であり、その荘園が戦国時代まで存在した関係で、年貢(金銭、物品)の記録や領主の日記には、荘園を管理する代官宇野氏との関連記録が長期にわたって残されています。そこから知られざる宇野氏の実像が浮かび上がりました。一読いただければ幸甚です。




ぶらりふるさと地名考「蔦沢」
                

「蔦沢」の地名由来
 蔦沢地区は揖保川の中流域の山崎町庄能から北西に延びる伊沢(いそう)川の流域の集落である。生谷(いぎだに)から始まり、下町(しもまち)に入ると山の端に権現さんとも呼ばれる巌石神社前を通る。次は宇野(うの)に至る。宇野は長水城跡の大手にあり、宇野構遺跡地に蔦沢小学校がある。宇野より左の川向うが下牧谷(しもまきだに)で諸守(もろす)神社がある。そして片山(かたやま)をぬけ、上牧谷(かみまきだに)に至る。これより右の谷を進めば大谷(おおたに)がある。次に東下野(ひがししもの)、中野(なかの)へと進む。中野には廃校になった都多(つた)小学校がある。上ノ下(かみのしも)から左にすに進み、白口(しらくち)峠越えに小茅野(こがいの)の集落がある。いよいよ上ノ上(かみのかみ)の最上部、伊沢川源流域近くに岩上神社がある。

 この蔦沢という地名は、明治22年(1889)に生谷、下町、宇野、片山、上牧谷、下牧谷、大谷、東下野、中野、上ノ、小茅野の11か村が合併して名付けたのが始まりで、都多谷と伊沢谷の「つた」と「さわ」を取り、「蔦沢村」と命名された。そして、村役場が上牧谷に置かれ、昭和30年(1955)まで、続いたのである。
 このほど伊水小学校と都多小学校が廃校となり、今年(令和4年)4月、伊水小学校の場所に蔦沢小学校が新設された。伊水小は明治6年(1873)に開校し、これまでに約4千人が卒業。都多小は同20年(1987)年に設立され、約3,500人もの多くの児童が巣立っている。








地区に二つの古社「岩上神社」、「大倭物代主神社」が生まれた背景
 蔦沢地区には、上ノ上の岩上神社と下牧谷の大倭物代主(おおやまとものしろぬし)神社(通称諸守神社)の古社が鎮座する。この地域は高家里(たかやのさと)といって、『播磨国風土記(奈良時代初期編纂)』に記された宍粟郡の七つの里の一つであった。その高家の里のほとんどが万里小路(までのこうじ)領であったが、伊沢川上流域都多谷の都多村(後の上ノ村、中野村・下野村)だけが、山科(やましな)家領であった。そのため、二つの領主の荘園領内に村の鎮守として建立された神社で、その村々の氏子により守られてきたという。




▲岩上神社(上ノ上)




▲大倭物代主神社(下牧谷)


 「高家の里」とは 記録にのみ残る里名・郷名
 風土記に記された「高家の里」には都太川と塩の村の二つの地名があげられている。都太川は都多谷に流れる川で、現在の伊沢川のことである。塩の村は、牛馬が好む鹽(しお)を湧出する地で、庄能(しょうのう)村(現在の庄能北及び庄能南自治会)が遺称地とされる。庄能は揖保川と伊沢川の合流点付近で伊沢川全流域の広がりをもつエリアを高家の里といった。ついで、平安時代に編纂された『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』にも宍粟郡八郷の一つとして高家郷があり、高山寺本には『多以恵』と訓じている。里から郷に、そして読みも変化しながら、播磨国風土記の高家の里が継承されてきた。

 江戸時代の『播州完粟郡郡誌』(片岡醇徳著)に高家郷としての記述がある。
一 高家郷  高家村 今は庄能村と云う。
今宿村 枝出石 上寺 生谷村 中町村 横須村 上町村 片山 下町村 枝長泉寺 大谷村又竹の内村とも云ふ 下牧谷村
此の十二ケ村生神同。右の内、高家今宿上寺の他は続に伊沢谷と云。
下野村 中野村 上野村
此三ケ村を都多村と云ふ。生神同。
 小茅野村
村数都而拾六村
 
 とあり、郷の構成の村々をあげている。庄能村については、「正保郷帳」に高家村、「元禄郷帳」に「古くは高家村と申し候」と肩書され、江戸時代初期の呼び名を記している。天正8年(1580)長水城の落城後のすぐさま、羽柴秀吉が田恵村に禁制を掲げている。これにより、高家の里・郷を継承する田恵村があったことは確かである。なお、いまでも諸守神社の氏子が山崎地区の庄能、今宿、上寺、横須にあるのは、同じ高家の里・郷に属していたことによるからである。




▲伊沢川と揖保川の合流地点  by Google Earth



都多村の年貢にみる特産物
 荘園は鎌倉期には貴族や大寺院への寄進による集中化がみられ、宍粟郡も荘園が増加している。室町時代に入ると武士による荘園侵略が進行していった。高家庄領主の内大臣万里小路時房の日記『建内記』、そして公家山科家領の都多村の記録『山科家礼記』・山科家当主の日記の『言国卿記(ときくにきょうき』、『言継卿記(ときつぎきょうき)』が残されている。特に、都多村は、高家の里にあったが、万里小路領に含まれない別個のもので、戦国末期まで山科家の荘園として残っていた。このようなケースは全国的には稀であった。山科家領は播磨では都多村以外に揖保荘(たつの市)、隣国の備前居都庄(こずのしょう)(岡山市)があった。山科家は天皇の服飾を司る職務を担い、その技術や有識の知識を保持し、同時に足利将軍にも徴用され支援を得ていた。これらの荘園の存続は天皇家との繋がりと将軍家との結びつきによる権威のためか、さしもの宇野氏は領地そのものの横領(収奪)はできずに、預所代官として領内の年貢の取り立てと領主への納入を続けていた。
 山科家は、納入が怠れば代官宇野氏に対して年貢の督促のため家令や使用人を下向させ折衝させた。年貢の内容については金銭、鹿・狸皮、綿、杉原紙、漆等などが送られている。これらはいずれも都多村の特産物で、公家の山科家には重宝されていたのだろう。特に杉原紙は上質であった。都多の年貢の金銭として千疋と表記が連続的にあり、中世では銭1貫文が百疋(ひき)で10万円以上の価値があるとされ、千疋は100万円以上になる。


記録に残る代官宇野氏のこと
 永享11年(1439)の『建内記』に「高家庄段銭事、今日以便宣仰預所宇野、昨年先延引、今年必催之由、加下知了。此事雖背本意、依計会相点者也、今日六条宰相中将、有定、相語云、柏野庄続目任料、三千疋領状云々」これは、万里小路時房が未進の高家荘段銭(寺社の造営などに必要な臨時税)を代官宇野次郎満貴(守護代)に催促したものである。柏野庄とは高家庄の南に位置した菅野川流域の荘園で、広瀬宇野氏が代官職を勤めていた。

 嘉吉の乱後の嘉吉3年(1443)の『建内記』に「高家庄代官宇野次郎満貴送状云、此庄半分年貢者、満貴可致沙汰、於今半分者、守護山名惣預金吾半分令横領…」宇野氏からの万里小路時房への書状には、高家荘の年貢の半分は掌握したものの、残り半分は新守護山名持豊(宗全)が横妨しているため、これを掌握していないことを報じている。

 嘉吉の乱(1441)とは播磨国守護職である赤松満祐がときの将軍足利義教を殺害した事件で、山名宗全(持豊)を総大将とする幕府軍によって赤松満祐以下残党は討ち果たされ、また囚われの身となった。赤松氏被官の国人衆も討ち果たされたと伝わるが、実際は、播磨の在地の国人衆、宇野氏をはじめ、安積保の安積氏や揖保庄の島津氏、神岡の喜多野氏、姫路の広峰氏など多くは生き抜いている。この乱で赤松氏とともに一掃されたのではなかった。新領主山名氏の播磨支配には、自らの被官人だけで支配する余裕もなく、在地の国人衆の手を借りるのが得策であったのである。宇野氏は赤松氏の被官として佐用町から宍粟郡に移り土着した国人で郡内の柏野庄、高家庄、石作庄が権益地であった。嘉吉の乱後も、山名方の代官と共に一翼を担っていた。とはいえ、山名氏に降参した国人衆は、利権は半減し一族の困窮は免れなかったであろう。
 この後応仁の乱(1467)以後一世紀余り続く戦国時代に突入する。赤松氏は応仁の乱に乗じて播磨から山名氏を駆逐することに成功し播磨の奪還を果たしたのである。
 天文15年(1546)都多村代官宇野上野守は長男右京亮・次男・女房・娘を連れて伊勢参りをし、途上に上洛し山科言継邸に赴き、礼として太刀を持参した。翌日には言継の手配で御所の御庭を見物した『言継卿記』。言継は上野守宛てに年貢の礼状に添えて、勅筆の詩歌一葉を遣わしている。両者はよい関係を築いていたようだ。   
 ちなみに天文6年(1537)宇野村直が播州完粟郡柏野庄の八幡宮(現山崎八幡神社)に三十六歌仙額を奉納している。村直は当主宇野村頼と同じく、惣領家赤松義村から村の偏諱(へんき)を拝したと思われる人物で寺奉行であった。当時の公家の文化を享受しているからこその行為であったと思われる。


荘園の記録がもたらしたもの
 幸い蔦沢地区は、荘園領主の記録が戦国末期まで長期にわたり、年貢の物品や代官宇野氏の動きが記されている。年貢に金銭や割符(さいふ)(為替の元)が利用されるなど西播磨の奥深い山間部の山村にまでも貨幣経済が進み、宇野一族が国文化を享受していたことも知ることができた。これらの記録は、従来軍記物に彩られた宇野氏の虚像から、宇野氏の実像に迫る手がかりを与えてくれる貴重な史料の一つである。永禄12年(1569)山科言継が都多村等の家領を確保するために織田信長に援助を受けようと岐阜へ赴いたことの記述を最後に日記は途絶えた。この後豊臣秀吉の世になり太閤検地によって荘園は消滅したのである。





参考図書 『角川日本地名大辞典 兵庫県』、『播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究』、『播磨の光芒 古代中世史論集1』

「山崎郷土会報 NO.139 令和4.8.27発行」より転載、写真のカラー化と追加。



ぶらりふるさと地名考「蔦沢」

【関連】
高家里、柏野里
➡地名の由来「宍禾(粟)郡に7つの里」 

・山崎八幡神社の三十六歌仙奉納額(宇野村直奉納)
➡播磨 篠ノ丸城跡 ~大手口周辺の探索~

・秀吉の制札 田恵村について
➡ 広瀬宇野氏滅亡後の宍粟

・長水城跡
・宇野氏の最後

【日記】 直近のブログ紹介
健康志向の主食 ~玄米食・胚芽米の効果~

コメント一覧

takenet5177
お役に立ててよかったです。
yutori
この神社の末裔らしく、辿り着きました。
よく調べて頂いて感謝します。
takenet5177
いつもブログを見ていただき、またお褒めの言葉をいただきありがとうございます。
 私は先人の研究の成果をもとに、地名という小さな文化財を切り口に郷土の歴史を観ていくと、そこには深い歴史ときらりとした記録を目にすることがあります。それらをおらが村の誇りとして伝えていってほしいと思っています。 
共に元気で歩みましょう 団塊の元気世代
dankainogenki
よく調べましたね。素晴らしい。
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