郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

備前 沼城(亀山城)跡 宇喜多氏ゆかりの城④

2020-05-31 10:51:50 | 城跡巡り

今回は、沼城(亀山城)跡です。二つの名をもつ城です。名称は、沼は地名から、亀山は城山の形状から来ています。




▲沼城(亀山城)全景



▲関係諸城の位置関係 北から   by Google Earth



▲沼城跡の鳥瞰      by Google Earth





沼城(亀山城)跡  岡山県上道郡沼(現岡山市東区沼)


 沼城は砂川の西側に大小の丘(標高40m)に本丸(主郭)、その周りに帯曲輪・腰曲輪、東に二の丸、西に西の丸の曲輪等を丘全体に置いています。二の丸は畑地になり、西の丸は学校の敷地として削られ裏山に残る。
 城東に南北に流れる砂川は典型的な天井川で氾濫が絶えず、沼地の中に浮かぶ島のようであったと思われる。

 城の位置は、南に東西に走る山陽道、砂川は西大寺沖に達し、東に向かって5km先には中世の時代から商都として人・物の流通が盛んな福岡があり、東西南北の流通の重要地点にあった。

 城主は中山信正、宇喜多直家。築城者は、中山信正で天文年間(1532~55)に亀山城を築いている。信正は戦国期に備前国西部の鎌倉期からの国人領主松田氏に従っていたが、のち主君を浦上氏に替える。天文20年(1551)に娘を宇喜多直家に嫁がせ縁戚関係を結んだという。 

 永禄2年(1559)浦上宗景の命により、宇喜多直家が信正を謀殺し、亀山城を奪ったという。以後岡山城に移るまで15年間この城を拠点として備前を制覇し戦国大名の道を歩んだ。


直家が謀殺した中山氏のこと

 この亀山城の周辺から西方にかけて居都荘(こずのしょう)という荘園(鎌倉期から戦国期)があり、山科家の荘園であった。

●明応年間(1492~1501)には守護代浦上基久と細川氏の被官薬師寺氏の二人による代官職の交代が繰り返され、天文年間(1532~1555)になると薬師寺次郎と中山与七が居都荘の代官となっている『言継卿記(ときつぐきょうき )』。

●永禄2年(1559)8月には山科家の家司田口伊賀守が「居都之代官中山備前守書状・百疋等」を持参している『言継卿記』。

●永禄7年(1564)3月、代官浦上与二郎の名で記されるのを最後に山科家関係での居都荘の所見はなくなる。

 この史料から、中山家は居都荘の代官職にかかわり、信正のとき浦上氏から代官職を手に入れている。しかし永禄2年~7年に中山氏の名が消え、浦上与二郎なる人物が代官になっていることから、この間の永禄2年(1559)直家が信正に手を下した『備前軍記』等の伝承と一致する。


尼子氏の備前侵攻と浦上一族の対応

 天文20年(1551年)頃には、尼子晴久が備前国への侵略がはじまった。この動きに対し浦上兄弟政宗・宗景の意見が対立し、備前は大きく二つに分かれた。兄の政宗(室山城主)は尼子に同調したのに対し、弟の宗景(天神山城主)は反尼子側として、毛利氏と備中三村氏の手を結び備前の国人衆を取りまとめ対抗した。そのため、尼子晴久自らも沼城と天神山城に出向き威圧している。

この時期の尼子と浦上の争いに関して、最近の調査や研究で次のようなことがわかった。
●年月不詳8月12日であるが、沼城が攻撃され、宍甘(しじかい)与三左衛門尉が沼城に入って雲州勢相手に戦った功績が浦上宗景感状(池木氏所蔵文書)として残されている。
●弘治初年(1555~)頃、浦上宗景軍は、政宗方の新庄山城(岡山市竹原)を落とした。(山田家文書・明王寺縁起など)。
●弘治三年(1557)春、宗景に味方する宇喜多直家が「奈良部の城」に入り、城普請を行なっている(備前西大寺文書、馬場氏奉公書)。
直家が手に入れたこの「奈良部の城」というのは、従来は新庄山城と云われてきた(『吉備温故秘録』に新庄山城は「奈良部の城」との記述がある。)が、近年砂川の東岸に近い岡山市西平島字楢部に存在した平城と考えられるようになった。(森俊弘氏「岡山藩士馬場家の宇喜多氏関連伝承について」)。

参考 「沼城 落穂ひろい ふーむ:web」、『角川地名辞典』、他






▲沼城縄張り図  説明板より




▲上道郡亀山(沼ノ)城古図  『吉備群書集成』より




アクセス



浮田小学校を目指していけば、わかりやすい。



 
▲亀山城の説明板               ▲弁天神社の石段を上がればすぐ


 
▲主郭(本丸)跡           ▲「直家飛躍の地」、「秀家生誕地」、「亀山城跡」、の碑   




 
▲二の丸に上がる道                       ▲二の丸から本丸への道 




雑  感


 岡山備前の戦国時代の歴史は、江戸時代に書かれた備前軍記を中心に物語や逸話として語り伝えられた感があります。戦国時代の下剋上を成し遂げた戦国武将を梟雄(きょうゆう)といい、その中の一人に宇喜多直家がよく取り上げられます。
 
 今回の沼城の紹介で、宇喜多直家が沼城主中山氏を騙し討ちをした事に関し細かな手口が軍記物類に出ています。

 従来歴史研究では、軍記物等の扱いは一考を要すというのがあって、ほかに検証のできないことは参考程度に留めるというスタンスなので、史実と断定できない物語ということになります。

 この後に扱う岡山の城跡での宇喜多氏の動きや関連の人物などに関しては近年の岡山の歴史研究の成果や情報をできる限り伝えていきたいと思っています。 




【関連】
砥石城
新庄山城
乙子城
天神山城


城郭一覧アドレ

備前 砥石城跡  宇喜多氏ゆかりの城③ 

2020-05-25 13:15:05 | 城跡巡り
   



▲砥石(といし)城跡全景



▲頂上部ズーム



▲宇喜多氏のゆかりの城跡の位置関係    by Google Earth






砥石城跡のこと  岡山県邑久郡邑久町豊原(現岡山県瀬戸内市邑久町豊原)

 瀬戸内市の西部にあり、千町平野がパノラマに見え、北には長船町福岡の商都を一望できる位置にある。

 城主は、宇喜多直家と伝わる。『宇喜多伝』また、島村観阿弥が在城し、宇喜多三代(能家・興家・直家)在城とある。『備前記』

 城跡の形状は主郭の前に幾つかの細工があまりなされていない曲輪跡がいくつか見られる。主郭には金毘羅宮が幕末期に建てられ、それ以降お宮の台座縁の石垣が新しくなり、その周辺が改変されている。

砥石城及び周辺の地での合戦
 応仁・文明の乱後(1467~1468)の文明15年~16年(1483から1484)の福岡合戦があり、山名俊豊と松田元成に備前守浦上紀三郎則国は破れ、赤松政秀の播磨高田城(上郡町)に逃れた。山名俊豊が備前に乱入し射越(いこし)村の余慶寺涅槃像が散失し、修復したときの記録が寺の文書にも残されている。

 文明17年(1486)の守護赤松政則の復活にともない則国は再び山名・松田軍と合戦を交えるも、戸石城(砥石城)にて討ち果たされた。『庶軒日録』なお、松田元成は余勢をかって、浦上の三石城を攻撃したが、逆に敗退し敗死したという。

 天文末年(1555)頃、砥石城の城主で宇喜多直家の同族でもある宇喜多大和守が浦上宗景の兄政宗に味方をしていたため、浦上宗景が乙子城主宇喜多直家に砥石城を攻撃させ、激しい戦いの後、弘治元2年(1556)頃砥石城を陥落させ大和守を滅ぼしている。(『馬場家記』(森俊弘氏「岡山藩士馬場家の関連伝承について」) 


参考:「砥石城 落穂ひろい ふーむ氏 web」、『日本城郭体系』、『角川地名辞典』




▲説名板より



▲イメージ図 「高取城 落穂ひろい ふーむ氏)の縄張り図をもとに作成




アクセス


登城口は①、②の2か所ある。 所要時間は10~15分程ですぐに登れる。








▲①の登城口

▲登り始め



▲砥石城の説明板


 
▲登城途中



 
▲主郭前                             ▲主郭





もう一つの②登城口は、左に曲がり谷に入ると、間もなく登山道の石柱が道脇にある。この近くに車一台ほどは止められる。




▲右に砥石城跡登山道、左に笠形神社参道とある



こちらの②登城口前には、「宇喜多直家生誕の地」の石碑が立っている。








 



登りきると、城跡の背後に出る。ここに案内版があり、右に進む。直線的な道がつづき途中から石段が敷かれている。











 









▲説明板 




▲眼下に千町川、とりまく千町平野が一望



▲主郭 北側から



▲本丸東石垣 『日本城郭体系』(昭和55年発行)より



上記写真の主郭東の石垣は見当たらない。




▲お宮の台座の下の新しい石垣とやや古い石垣




雑 感

 3年前(2017年)備前の城で、宇喜多氏ゆかりの城としてはこれが最初でした。今になってやっと「宇喜多氏ゆかりの城跡」として紹介しているところです。

 砥石城跡は小規模の連郭式の城跡で、『日本城郭体系』に写真にある主郭東の石垣を探すも見当たらない。お宮の石垣と並んだ自然石の石垣をみてもちがうようだし、また出丸(出城)跡(実は高取城跡)が鉄塔の辺りだと勝手に思い、見落としていたこと。(^^; 
 これを機会に、高取城跡と従来高取城といわれてきた城「高尾城跡」を行きたいと思っています。

 登城中ハイキングのグループの人達に出あって「おくの細道アルプス」(下掲載)というマップをいただきました。この周辺は高くても200m級の山々が並びつながり散策コースが豊富です。「躑躅の小径」があります。たまたま登城した時がツツジがきれいな時期でした。芭蕉の「奥の細道」ならず「おく(邑久郡※)の細道アルプス」とはしゃれています。この山々を南下すれば瀬戸内方面に出ます。




赤〇は射越(村)と余慶寺、仁生田古戦場跡、大賀島寺に宇喜多一門供養の塔


【関連】
・沼城
・新庄山城
・乙子城
・天神山城

城郭一覧アドレ

備前 新庄山城跡 宇喜多氏ゆかりの城②

2020-05-19 22:56:34 | 城跡巡り




▲新庄山城の全景 上道公園から






▲宇喜多氏関連の城跡の位置図           by Google Earth





▲新庄山城と沼城(亀山城)との位置   明治後期の地図 1/50,000




  ▲関係諸城の位置 北方からの鳥瞰    by Google Earth





新庄山城跡(奈良部山城)  岡山市東区竹原


 新庄山の北峯頂上(標高127m、比高117m)にある。数段の曲輪と堀切が残され、主郭には石鉄神社が建てられている。城主は中山信正の家臣新庄助之進が居城したと伝える。当城は、天文初年(1532)頃亀山城の築城に合わせて造られたものではないかとされ、東西に走る山陽道と東麓に流れる砂川流域を押さえるため支城と考えられる。

 この新庄山城に移ったのは、砥石城の戦いの功労として与えられたとされている。天文末年(1555)頃、砥石城の城主で宇喜多直家の同族でもある宇喜多大和守が浦上宗景の兄政宗に味方をしていたため、浦上宗景が乙子城主宇喜多直家に砥石城を攻撃させ、激しい戦いの後、弘治元2年(1556)頃砥石城を陥落させ大和守を滅ぼしている。(『馬場家記』(森俊弘氏「岡山藩士馬場家の関連伝承について」) こうして新庄山城に移り、尼子や政宗の残党の備えとしている。


浦上兄弟の対立と備前の覇権争い

 天文20年(1551)尼子晴久の再度の備前侵攻を巡って浦上兄弟(政宗と宗景)の対立により、備前内で国衆を巻き込み両者の覇権争いが10年以上繰り広げられた。

 その後、永禄2~5年(1559~62))主君の命により直家は甥の亀山城主中山信正を謀殺し城を奪い亀山城に移った。
 (播磨浦上事、如御存知、兄弟不和に候つるか、・・・就夫渦中之者、一両人生害さセ候由候「大友宗麟書状」『田村文書』)

※中山信正:亀山城(沼城)城主。天文初年(1532)頃に築城。はじめ金川城(岡山市北区御津金川 )の松田氏に従っていたが、その後浦上宗景に従う。娘が宇喜多直家の正室。



▲浦上兄弟の対立と宇喜多直家の関連図




アクセス


 城山の北側山麓には三徳園(岡山県立青少年農林文化センター )があるので、そこを訪ねていくのがわかりやすい。三徳園の手前に上道公園があり、城山に近づくと小さな橋がある場所が登城口になる。

そこから頂上まで登城時間は約30分ほど。



 
▲上道公園より橋を渡る                         ▲近くに案内板があり、鳥居から登城する



▲ハイキングコースの案内板




 
▲岩場の道を登る                  ▲4月中旬の頃 ツツジが満開




 
▲頂上が見え始めた                    ▲やや平坦になる     




 
▲次の急坂                       ▲主郭近くで岩群が待ち受けている


▲頂上にある鉄石神社




▲神社の後ろの石塚




▲主郭からの眺望(北東部)




▲城の尾根筋の堀切があったと思われる場所 遊歩道のために岩が壊されたか?



▲展望台の休息所




▲城山の背後 展望台から





▲城の北東部





雑 感

 実感としては、新庄山城の遺構が明確ではない。井戸も見当たらないし、監視が目的の砦そのものであり、あまり手を加えていない印象が残っている。
 一族家臣らの屋敷跡が山麓にあっただろう。そして屋敷から山頂の主郭につづく大手道はどこなのか気になる。

 宇喜多氏は数年後に甥の中川信正を殺害して、亀山城(沼城)に移ることになる。中川信正とはどんな人物だったのか、さらに中川氏の前の主君松田氏について知りたいと思っている。松田氏といえば、備前西部を領し、赤松氏や浦上氏に対抗した備中の雄。まずは、松田氏の金山城跡を機会あれば見て見たいと思っている。

 備前内にもたくさんの城跡が残っている。そこで繰り広げられた戦国武将の足跡を辿っていくのが面白くなっている。
 

参考:「砥石城 落穂ひろい ふーむ氏 web」、『角川地名辞典』、他


【関連】
沼城
砥石城
乙子城
天神山城

城郭一覧アドレ

備前 乙子城跡 宇喜多氏ゆかりの城①

2020-05-16 11:32:52 | 城跡巡り


 宇喜多氏ゆかりの城跡を巡って備前を訪れました。はじめに宇喜多直家の最初の城といわれる乙子(おとご)城跡を紹介します。

 戦国期の備前国は、西半を松田氏が支配し、東半を浦上氏が支配していましたが、宇喜多氏は浦上氏に仕えて直家のとき備前を手中にしています。

 戦国の世に最後まで生き延び備前の覇者となった戦国大名宇喜多直家の足跡を城跡から見ていきたいと思います。






▲乙子城跡全景鳥瞰   by Google Earth




▲乙子城の南方面 吉井川河口から




▲関連諸城の位置関係  by Google Earth



 乙子城跡は、岡山市の乙子にあり、位置は、はだか祭りで有名な西大寺の南約5km南で吉井川の河口近くにあります。

 河口とはいうものの、中世のころは、海に突き出した丘陵の先端にありましたが、近世の初めに干拓による新田開発が進み城の周辺地形が大きく変化しています。拡大した新田の灌漑用水に丘陵を掘削して千町川を二つに分流させています。

※宇喜多直家の子、秀家により干拓が始まり江戸時代を通じて、「児島」は陸続きの「児島半島」となり、『児島湾』が大きな変化を遂げています。



その変化は、下図(周辺図)と写真をみるとよくわかります。




▲乙子城跡主郭の説明板より  乙子城跡は中央

※海に破点で書かれた現在の海岸線をみれば、干拓地は児島湾を埋め尽くすほどで広大な事業であったことがわかる。左は沖新田、右は幸島新田




▲昭和23年(1948)航空写真 国土交通省

※中央の吉井川河口の左右の白っぽい部分はすべて干拓地



 現地へはナビをたよりにたどり着くことに気を取られて、広々とした水田を見ても
干拓だとは気が付きませんでした。まして東の神崎緑地は小さな丘陵が削られてできたということも。(・_・;)



▲向こうの見えるのが神崎緑地、400年前は陸地つづきだった


 城があった戦国時代には、北は吉井川の河口、西は一面に児島湾、南は瀬戸内の島々が手に取るように見えたと思います。
 つまりこの乙子城は、周りを海で囲まれ、防備にすぐれ、瀬戸内から児島湾内に出入りする船の監視の役目をもった城だということになります。


 天文12年(1543)宇喜多直家は、天神山城主浦上宗景に仕え、同年宗景の軍に従い、赤松晴政の軍勢と播磨の地で戦い、わずか15歳の初陣で殊勲をたてた。この戦功と祖父能家の旧交によって、翌年邑久郡のうち300貫の所領を賜り、30人の足軽を雇って乙子城主となった。『備前軍記』とある。
 そのほか『備前記』、『吉備秘録』等にもあるが、書かれていることが一致しないあるいは、触れられていないなど、史実とは判断できないのが実情のようです。

 さて、直家はその後、浦上政宗に味方していた同族の宇喜多大和守を倒し、その功労によって浦上宗景より上道部奈良部城を与えられ、こちらに移った。だいたいこれが弘治2年、3年(1556~57)頃のことだということが研究により判明しつつある。(森俊弘氏「岡山藩士馬場家の宇喜多氏関連伝承について」)

 その後、この乙子城の動静は全くわかっていない。ただ、直家に滅ぼされた浦上宗景の残党が、天正3年(1575)以降乙子城南方の幸島を根拠に暗躍しており(坪井文書など)、小島海峡を挟んだ向こう岸の小串に毛利方の高畠和泉守が在城していた(萩藩閥閲録など)ことなどを考えると、これらへの備えとして天正10年(1582)ごろまで機能した可能性が高い。(乙子城 落穂ひろいふーむ氏 より引用)





▲乙子城古図 『吉備群書集成』より



▲主郭



 
▲主郭の下の曲輪




 
 乙子城への3つの登り口




▲鳥瞰に登り口を書き込むby Google Earth




 乙子城跡の登り口は、① 右(東)からと、② 集落南東の乙子神社の参道から、③ 西端の神社(大国主が祭られている)の急石段からの三か所から登れます。駐車場所に困らないのは、三つ目の西端からです。



 東の登城口



▲ここには真新しい案内板が設置されている



 
▲すぐに乙子神社に至る             ▲神社前の案内板





② 集落南東の登場口(乙子神社の参道から)



 
▲集落の東側に乙子神社の参道があり、鳥居の左を歩く




 
▲鳥居の左を進んだところ                     ▲墓地の横をとおり抜ける  




③ 西端の登城口(鳥居から)


 
▲西の神社から登る                      ▲このお宮の横を抜ける。
 



▲手すり付きの階段を登る、急坂だが最短で登城できる


【関連】

沼城
砥石城
新庄山城
天神山城

城郭一覧アドレ
















因幡 鹿野城を行く

2020-05-15 09:10:55 | 名城をゆく
【閲覧数】2,549 (2013.3.23~2019.10.31)
 
 
 
                                  
 閑静な温泉地というイメージのある鹿野に因幡の城跡探索のために十数年ぶりに訪れた。水をたたえた堀と静かな町のたたずまいの中に因幡・伯耆と呼ばれた頃の歴史を感じることができた。
 








▲江戸期の因幡 鹿野往来 





鹿野城跡のこと   気高(けたか)郡鹿野町(現鳥取市鹿野町)
 

  鹿野は古くから山陰道の交通の要衝にあり、因伯(因幡国・伯耆国)の支配をめざした諸軍勢による争いの中心地となっている。
  
 鹿野城(別名王舎城)跡は、お城山(標高152m)に築かれた。築城年代は明らかではないが、山名氏の配下であった国人領主志加奴(しかぬ)氏の居城であったという。明徳2年(1391)山名氏清・満幸が足利氏率いる幕府軍と戦った時、討死した武将の中に志加奴八郎が見える。

 次いで、天文13年(1544)出雲の尼子晴久が因幡に乱入したとき、この城は攻撃を受け、城主志加奴入道は激戦の末自刃している。
 永禄年間(1558〜70)には因幡守護山名誠通の子山名豊成(とよなり)が布施の天神山よりここに移った。
 天正初年(1582)には山名氏に変わって毛利氏の勢力が伸び、この城は毛利氏の手に落ちる。
 
 天正9年羽柴秀吉の鳥取の制圧により、鳥取城攻めに功のあった尼子の遺臣亀井茲矩(これのり)が鹿野城主となり気多郡(けたごおり)が与えられ、関ヶ原の戦いでは東軍に属してさらに高草郡(たかくさごおり)を加増され3万8千石領している。領内の干拓、用水路の開発、銀の採掘に尽くし、朱印船による東南アジア諸国の貿易などを手がけている。嫡男政矩(まさのり)のとき元和3年(1617)石見国津和野に移封した。
 
 寛永17年(1640)播磨国宍粟藩6万3千石の池田輝澄がお家騒動による改易を受け、甥の鳥取藩主池田光政の預かりにより、妻子共々捨扶持(すてぶち)1万石で鹿野に配流された。寛文2年(1662)には、輝澄の遺領を継いだ政直が播磨国福本に1万石で移封した。 
 
 


 
アクセス
 
 
 
城山の麓にある鹿野中学校を目指す。山城周辺は鹿野城跡公園として整備されている



 



外堀から内堀へと進むと、城山神社の鳥居前に至り、駐車場がある。山城跡へは、城山神社鳥居をくぐることから始まる。
 

 

 ▲城山神社前に駐車場がある 




▲まっすぐに伸びる石段 
 


 
▲城址の由来




▲整備された城址公園
 


さらに進んでいくと、右手に曲輪跡がある。西の丸といい山城部分の曲輪として最も広く、礎石が残り城主亀井茲矩の隠居所跡と伝える。
 



 ▲西の丸(城主初代藩主の隠居所)
 


次になだらかな石段を進むと、右奥に城山神社が祀られている。
 


 
 
▲なだらかな石段            ▲城山神社 
                                    

 
この先がいよいよ山頂部の天守台跡だ。虎口の階段を進むと14~15mの四方の広さがあり、周囲には真四角に敷き詰めた礎石列が残る。
 
 

 ▲天守台の前の虎口          ▲14m四角の天守台跡
 
 
       ▲天守台礎石             ▲天守台跡の図面 説明版より

 

天守台跡の周辺は樹木に覆われているが、北部の1箇所から眼下の町並みとその向うの山々が望める。


 
▲天守台からの展望                                



▲外堀と城下


 天守台跡の後部(南)には小さな曲輪跡と南に降りる搦め手道と思われる道がある。
 


 
    
▲天守台の後部(曲輪跡)        ▲後部の石段
 


 
雑 感
 
 亀井氏の代に城や河川改修などの大改修がなされたとあるが、中世の頃の山城部分には天守周辺と居館跡以外はあまり手が加えられていない印象をもった。 

 近世の平城の多くは、堀がつぶされ道や宅地になり、その形跡が失われていくなかにあって、この鹿野の城跡は、外堀・内堀が今なお水を湛えて、美しい景観が残されてきた。城下には殿町・立町・上町・下町・大工町・鍛冶町‥の地名が残り、その中に京格子の町屋が点在し昔の面影をとどめている。家々の門先に添えられた四季折々の花が目に優しい。
 
 

◆ 鹿野の町かど
 


▲点在する町家


▲家々に添えられた四季折々の花
 


◆ 町中にある幸盛寺で山中鹿助の墓を発見!
 
 
▲幸盛寺                                       



▲山中鹿助の墓
 
 


【関連】
・石見 津和野城をいく

・山崎城(鹿沢城) 宍粟藩初代藩主池田輝澄の足跡を訪ねて

・上月城落城と山中鹿助幸盛