郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「円応寺・本位田」 

2020-01-18 23:08:53 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「円応寺・本位田」  佐用町(現佐用町)


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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■本位田(ほんいでん)
 冠(かんむり)ともいう。千種川支流佐用川中流域右岸、佐用平野北部の高台に位置し、高田・塩田・冠の3集落がある。地名の由来は、律令制下の※位田(いでん)であったことによる。「風土記」に見える賛用都比売命を祀った佐用都比売神社は式内社。旧石器時代・縄文時代の本位田池尻遺跡、本位田古墳群、奈良時代の掘立柱建物跡が発見された本位田遺跡など遺跡が多い。
※位田:律令制で、親王以下五位以上の者に位階に応じて支給された田地。

 建長2年(1250)11月の九条道家初度惣処分状に佐用荘内本位田とみえ、道家から嫡孫忠家に譲られている。観応元年(1350)12月5日、赤松円心の遺領の佐用庄内本位田ほかを円心嫡男の赤松範資が相続している。応永18年(1411)10月17日、赤松満弘が本位田郷を700貫文で京都天龍寺南芳(なんほう)院に売却している。満弘は同23年12月13日には「江河郷本位田内公文職」を大徳院へ売却した。

 江戸期には本位田村といい、元禄郷帳には「ほんじん」村と訓む。江戸中期頃までに長尾村を分村。鎮守は佐用都比売(さよつひめ)神社で、池田氏の検地の時、神領地3反余を輝政に与えられたという。古くから、佐用郡中が氏子。鳥居が社殿の北側にある珍しい神社である。寺院は浄土真宗教蓮寺。明治初年までに塩田村・高田村を分村したと思われるが、同9年再び当村に合併。

 明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕業が米麦作とともに、主産業になる。大正13年佐用郡比売神社は県社に昇格。昭和50年中国自動車道開通。


▼本位田の小字







■円応寺(えんのうじ)
 千種川支流佐用川中流左岸。長尾村の東、北端で支流金近川が合流する。集落は河岸段丘にあり、後背は標高200m台の山地である。古くは福地と称したが、南北朝期に円応寺が建立され、のち寺名を村名とした。

 元弘2年(1322)の後醍醐天皇西遷の遺跡や、建武新政の功績者佐用兵庫介範家の墓という宝篋印塔がある。円応寺跡に 後醍醐天皇がさし木をしたというビャクシンの大木があったが、昭和20年の台風で倒れ、幹が現地で保存されている。北山城(円応寺城)もあったという。

 北山円応(禅)寺は、大朴玄宗の開山で諸山の格式を有したが、今は小庵が建っており、丸型造り出しの柱石が残る。

 明治12年以来佐用郡役所が畜産・養蚕を奨励し、米麦作とともに、主産業となった。明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。


▼円応寺の小字










◇今回の発見
・円応寺は、上月の円光寺と同じく、寺名が地名となる。古くは福地といった。
・本位田が通称「冠(かんむり)」というのは佐用都比売命(さよつひめのみこと)の冠が流れついた伝説が残る地である。本位田の地名は、元は位田の地であって、律令制時代、朝廷から位階により与えられた田から来ている。その後は私有化して荘園となったという。




地名由来「山脇・真盛」

2020-01-18 10:10:54 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「山脇・真盛」      佐用町(現佐用町)


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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




◇山脇(やまわき)
 佐用村の南、佐用川中流左岸に位置する。同川は村の南端で大きく屈曲して、西に向きを変える。南境の下櫛田村(上月町)との境に高倉山があり、その北西麓に葉草・カジヤ・下山脇の3集落がある。地名の由来は、高倉山の山際に位置することによる。行基開基の伝承が残る真言宗の慈山寺がある。高倉山には高倉寺があったといい、天正5年(1577)羽柴秀吉が上月城攻めのとき、本陣を置いたという。

 山脇は南北朝期から見える地名で、播磨国佐用郡佐用荘のうち。貞和3年6月24日の刑部守延譲状に「佐用庄内山脇」と見え、広峯神社(姫路市)の御師刑部守延が当地の檀那などを息女童に譲っている。戦国期と推定される年不祥12月25日の後藤則季書状に「山脇当陣被迎合、可被相防之由候」と見え、合戦が行われている。

 氏神は、高倉神社。明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から養蚕・畜産業が米麦作とともに主産業となる。





▲山脇小字







◇真盛(さねもり)
 佐用村の南、山脇村の西、佐用川右岸に位置する。西方山地の山麓平地に本村と道谷集落がある。地名の由来は、民族行事の害虫送り(さねもりおくり)による。慶長4年(1599)2月6日宇喜多秀家は当地のうち10石などを戸川肥後守に宛行っている。
村の西方山腹に金比羅神社がある。文明2年(1470)当地に来住した半兵衛輝通(衣笠氏)が祀ったと伝える左近塚がある。上月左近将監関係の塚と見られる。

 明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から養蚕・畜産業が米麦作とともに主産業となる。



▲真盛小字





◇今回の発見
 真盛の地名は害虫送りに由来するという。この害虫送りは「さねもり送り」といい、農薬のない昔の農村では稲田につく害虫を追い払うための大事な儀礼であった。夜、里人がそろって松明(たいまつ)を焚(た)き鐘を鳴らしてはやし立てながらあぜ道を巡り、川または村境まで虫を送って捨てる。
 ではなぜ「さねもり」といったかというと、調べてみると虫送りの由来は、寿永2年(1183年)篠原の合戦の際、斉藤別当実盛の乗馬が田の稲株につまずいて倒れたため、実盛は木曽義仲に首を打たれてしまった。その実盛の魂が稲を恨むあまり害虫になったという。そこから稲を虫の害から守ろうということから始まったといわれる。
 大事な米を育てるための農村行事が800年前から人名を介して面々と行われ、それが地名として残されているのには興味がある。他の地方では、実盛・実森の地名がある。