郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「金屋・中山」

2020-01-07 08:47:40 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「金屋・中山」   上月町(現佐用町)

(2010.10.21~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■金屋(かなや)
 大日山(おおびやま)川支流幕山川下流域両側の平野部に立地する。上土居・中土居・下土居の3集落からなる。北の蔵垣内(くらがいち)村へ出て中世の美作道に通じ、南の上月村へ出て近世の美作道に通じていた。地名の由来は、古代の砂鉄製鉄にちなむと推定される。

 昭和58年ほ場整備事業実施のため、発掘調査をしたところ、たたら跡が3か所発見され、ほかに山麓にも鉄滓が多量にある箇所が2、3か所ある。広岡氏の居城跡があり、広岡郷の中心地が金屋であった。字釜谷には鉄滓が多量に散布している。湯谷に比丘尼(びくに)城と伝える中世山城があるが詳細は不明。上土居西方山麓の中世の寺院跡地に光明寺と称される小堂がある。金屋村文書に「寺の下・とう・とうのもと・とうのまえ・とうのむかい」などの地名がみえる。北部の独立峰上に吾勝(あかつ)神社がある。字古土居(ふるどい)から鎌倉・室町期の中型五輪塔が5基発見された。

 明治22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。明治30年前後から養蚕・畜産を副業とし、婦女子は冬季の副業としてわら芯切りに奨励し、男子は冬季製炭に従事する者が多く、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。





■中山(なかやま)
金屋村の北東に位置し、幕山川支流の中山川が南西流する。古代中世の美作道が通り、塞(さい)の峠を越えて蔵垣内村に通じている。地名の由来は、南北に山があり、東西には峠があって、山の中の村であることによると思われる。
村の南方に標高299mの高雄山があり、山麓の福円寺は百済国の※日羅(にちら)に帰依した僧による建立と伝え、日羅の墓がある。赤松氏が代々帰依した寺で、赤松円心には100町歩の田地を寺領としたという。天正5年(1577年)織田信長に攻められた福原城主則尚が山内で自刃、胴塚がある。
※日羅:6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人

 寺院は真言宗福円寺。住僧大寛が文政12年(1829)より明治29年(1896)の間の見聞を記した大寛一代記(福円寺蔵)は貴重な地域資料である。浄土宗浄福寺が、大永4年(1524)正西の開基と伝え、昭和20年代廃絶。
 明治6年成化小学校創立。同22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。明治30年前後から農家の副業として、畜産・養蚕を取り入れ、冬季男子は製炭業関係の山林労務、婦女子はわら芯切りに従事。明治39年から道路を改修、大正12年電灯架設、昭和50年中国自動車道が東西に開通。





◇今回の発見
・金屋には古代蹈鞴跡が発見され、小字には製鉄に関わる地名が残る。中国自動車道建設の副産物です。地下には多くの歴史が隠されています。
・福円寺蔵の大寛一代記は貴重な地域資料とあるが、見てみたいものです。