郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「抜位・小赤松・大酒」

2020-01-16 11:10:33 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「抜位・小赤松・大酒」  上月町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)






■抜 位(ぬくい)
 江戸期から明治9年の村名。播磨国赤穂郡のうち。佐用郡上秋里村の南東に位置する。大半は300m~500mの山上に立地し、生業に乏しく交通の便も悪いため近年廃村となった。
 元和元年(1615年)から赤穂藩領、元禄14年(1701)から幕府領、享保元年(1716)安志藩領となり幕末に至る。
 明治9年赤穂郡小皆坂(こかいざか)村・市原村・黒石村(現上郡町)と合併して同郡旭村となる。(現上月町大釜)




■小赤松(こあかまつ)
 江戸期~明治22年に播磨国赤穂郡に属す。佐用郡家内の南西、赤穂郡抜位村の北東に位置する。山に囲まれえた平地。地名の由来は、赤穂郡赤松に類似した地形から、小さい赤松と呼ばれるようになったと思われる。
 明治22年赤松村の大字となり、昭和30年久崎町、同33年からは上月町の大字となる。農業を主体として生計を維持してきた。
 氏神は素盞鳴(すさのお)神社がある。もと産霊(さんれい)神社と称していたが、明治41年抜位(ぬくい)の素盞鳴神社を合祀し改称。山中の緩傾斜地にお経塚3ヶ所が残る。




■大酒(おおざけ)
 江戸期~明治22年に播磨国赤穂郡に属す。小赤松村の南に位置する。千種川が南流し、左岸の沖積地に大酒と相ノ原の2集落がある。集落の後背地は最高点408mの急峻な山地で、また千種川右岸も急峻な山地である。地名の由来は、秦酒公を祀る大避神社にちなむと思われる。
 千種川中流域で水流が穏やかであったから用水の取水に難渋した。天保3年(1832)上流の家内(けない)村に堰を築いたが、この際下櫛田村、赤穂郡赤松村(現上郡町)などの庄屋の仲介で家内村との間に当村が堰溝手の管理を行い、家内村に不都合をかけないようにする、堰地料銀350匁と米2斗を家内村に支払うなどの約定を取り交わした。高瀬船に従事した人たちの信仰があって、佐用町南部と上月町には、秦河勝(はたのかわかつ)を祭神とした大避神社がほかに5社あった。また、集落後方の山上に中世の中ごろに王崎山(おうざきさん)城があったという。「播磨鏡」は跡地不明とし、城主は赤松信濃守範資と記す。郭跡とみられる平坦地がある。
 明治22年赤松村の大字となり、昭和30年久崎町、同33年からは上月町の大字となる。





◇今回の発見
・小赤松は地形が、赤松氏の根拠地赤穂郡(上郡町)赤松に似ていることから小赤松といわれたという。一度確認してみたい。
・赤穂にある大避神社には、秦河勝の祭神が祀られている。かつて聖徳太子のブレーンといわれ、太子亡き後、蘇我入鹿からの迫害をさけ、赤穂の坂越に移り、千種川流域の開拓を進めた人物であると。それが大避神社の名の由来にもなっている。