郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

兵庫県立山崎高等学校 ③ 昭和期(戦後)

2020-04-03 08:42:29 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】2,234  (2013.11.8~2019.1031)                                 





▲昭和54年(1979) 春
 



戦後の沿革(抜粋)
 

昭和23年4月  私立篠陽裁縫女学校を合併し、兵庫県立山崎高等学校と校名変更
昭和23年10月  定時制課程を併設(中心校・神戸・千種・西谷分校)
昭和24年4月  林業科設置
昭和26年4月  定時制高校三方分校開始
昭和29年7月  現在の所在地 山崎町加生に移転
 


▼整備前の山高敷地





昭和36年4月  神戸三方・波賀の三分校を統合し、伊和分校を設置
昭和37年4月  伊和分校・千種分校で全日制に変更
昭和46年8月   野球県大会準優勝






昭和53年3月~昭和54年2月 校舎・設備棟の新築







▼伊和高校・千種高校



▼昭和50年代の通学路の町並み
  
 


 








▲学校生活

▼寮生活(啓明寮)



 



写真 「山高70周年記念誌 70年のあゆみ」より

兵庫県立山崎高等学校 ② 昭和期(戦前)

2020-04-02 08:53:44 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】1,085 (2011.3.7~2019.10.31)                                  




◆昭和期

   昭和に入り大不況になり,市では失業者が増え、農村も疲弊し、政党政治が難局を乗り切れず、軍部の台頭を許すことになり、満州事変(昭和6年1931)に始まる15年戦争の道を歩むことになる。
 
 
 
▲昭和13年 庭球部練習          




▲昭和13年 弓道大会
 


■ 軍事教育への動き

 戦時体制化において、教育は正常さを失い、女学校においても軍事教育が行われた。

・昭和10年5月   賀陽宮親閲のため姫路城北錬兵場におもむく
・昭和12~13年   軍人家族への勤労奉仕や出征家族の慰問
・昭和17年      河東村の炭焼作業
・昭和19~20年   芝浦電気工場・三菱化成工場などの学徒動員
・昭和19年8月     学徒疎開児(40人)を女学校東校舎に分宿
・昭和17年11月     天皇親閲に大阪城東錬兵場におもむく
 

※1年は授業、2年は防空壕堀、3年・4年1組は海軍衣糧学校出勤、4年2
組三菱化成学徒工場に勤務
 


 
▲ 昭和14年 武運長久祈願(山崎八幡神社) 



▲皇軍慰問の後、水害慰問依頼
 


 
▲ 昭和14年 戦地に通う乙女の心・・・ 


▲昭和15年 麦まきの勤労奉仕・ぞうり製作作業
 
 

 




▲昭和13年~20年
 


 写真「山高70周年記念誌 70年のあゆみ」より
 参考「山崎町史」より



⇒つづく 山崎高等学校③ 昭和期(戦後)

兵庫県立山崎高等学校 明治・大正期

2020-04-01 12:49:36 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】2,466(2011.3.4~2019.10.31)



県立山崎高等学校沿革  抜粋
明治40年4月 山崎町立技芸専修女学校創立  校舎は山崎尋常高等小学校の一部
大正2年   宍粟郡立技芸専修女学校に改称
大正3年4月   宍粟郡立実科女学校と改称     校舎 旧郡役所
大正8年4月   宍粟郡立宍粟実業学校と改称   男子部設置
大正11年4月 兵庫県立山崎実業学校と改称
大正12年4月 県立山崎高等女学校
昭和23年4月 私立篠陽裁縫女学校を合併し兵庫県立山崎高等学校(定員750名)発足
 

設立の時代背景

◆明治後期

   明治後期の産業の発達は、産業人の育成・職業人の養成を必要とし、各地に実業学校が創立された。山崎町には技芸専修女学校が創立され、これが兵庫県立山崎高等学校の前身である。以後、女子の上級学校への道は開かれ、30~40人の在学者が続いた。
  一方男子の上級学校は、郡内にはなく、明治30年創立の県立龍野中学校や、同年創立の姫路中学校、その他養蚕学校・農学校へ進んだが、多額の学費を要し、ごく一部の家庭の子弟にしかその道は開かれていなかった。
 
◆大正期

   大正期は大正デモクラシーの影響により、学校教育の中にも自由主義的な教育が芽生え、女子教育や学校スポーツも発達し、社会教育の充実がはかられた。教育懇談会が地域で開かれ、奨学金制度の設立が見られた。
 


 
▲大正3年 養蚕実習            



▲ 大正3年3月 第1回卒業生(郡立技芸専修女学校)
 



▲大正9年 稲刈り(実業学校男子部)  




▲大正10年  庭球風景  
 
 
▲大正12年 南校舎落成式        



▲大正13年 講堂 
 
 

 写真「山高70周年記念誌 70年のあゆみ 昭和54年」より
 参考「山崎町史」より


➡次は 昭和期(戦前)

大火災 

2020-03-30 07:04:39 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】1,126(2011.8.22~2019.10.31)                                   



昭和41年(1966)の宍粟市山崎町大才町・今宿で大火 




 昭和41年12月1日午前零時20分ごろ出火した火事により、35棟が全半焼しました。大才町で発生したものが強風により500mも離れた今宿まで飛び火し、わら屋根が焼失。3、4か所から、一斉に火の手が上がったため、消火に向かうまもなく焼失したものもありました。
 また、揖保川を越えて河東地区の高所までも飛び火し、1棟が全焼しました。


写真:「山崎町 町勢要覧平成3年」より

山津波2

2020-03-28 07:21:37 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】884(2011.9.9~2019.10.31)


昭和51年(1976)9月 一宮町福知の山津波

災害前の福知








西深橋付近 駐在所・電話局・郵便局などが見える。その建物が、一瞬に土砂に押しつぶされました。









写真:「一宮町議会史」より



※昭和51年(1976)9月に起きた山津波の恐ろしさを知る貴重な写真です。