郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

ぶらりふるさと地名考「戸原」

2024-03-05 11:29:26 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)

  今回は宍粟市(しそうし)山崎町の最南端にある戸原(とはら)地区を取り上げました。前回の城下地区の南側に位置しています。戸原地区を構成する三つの自治会の川戸、宇原、下宇原を中心に探っていきます。 
 明治22年(1889)に町村制が施行され、川戸、宇原、下宇原の三ケ村が戸原村となりました。村名は旧村名の合成地名です。城下地区で取りあげた宍禾郡(しさわのこおり)を構成する七つの里の一つで比地の里に属します。比地の里は現在の上比地、中比地、下比地と宇波良村(宇原・下宇原)・比良美(新宮町平見)・川音村(川戸)・庭音村(現在地不明)とあります「播磨国風土記」。この宇原には16基の古墳が確認されています。古墳時代後期になり、農業開発が進み、台地や揖保川の氾濫原が耕地化され生産力が向上したことで、それぞれの村に経済力を蓄積した有力者が現れたと考えられます。この宇原の古墳は最も整った古墳であり、付近には条里遺跡もあります。揖保郡に最も近いこの地域は、早くから進んだ農業地域で、それだけ文化の先進地であったと考えられています。

▲戸原村図(明治後期)

1,川戸 古くは河戸とも書いた。揖保川中流東岸。平野部に条里遺跡が見られる。、風土記には川音村とあり、村名は天日槍命(あめのひぼこ)がこの村に宿泊したとき、川の音がたいへん高いといったことに由来するという。現在の川戸が遺称地とされている。播磨公弁円の墓と伝える五輪塔があり、目の病気に霊験があるという。村内の揖保川には山崎藩の堰立て工事は当村の庄屋が担当していました。蟹籠漁(かにかごりょう)も盛んに行われました。高瀬舟舟運も盛んで安政から嘉永年間には、船が10艘あったという。明治22年に戸原村役場が置かれた。

宇原の地名由来「宇原、下宇原」共通 
 地名は、河畔に茂っていた茨(いばら)から生じたものという。奈良期には、宇波良村と表記され、読みは、うはら、うわらとも。この地名は、葦原志許乎命(あしはらしこおのみこと)が国土を占拠した時、この地は小さく室の戸のようだと言ったので、表戸と名付けられ、これが転訛したものと言います。

2,宇原
揖保川中流域東岸。水田には条里の遺構があり、門ケ坪、蔵ケ坪の小字が残る。地内の井ノ口には藩の米蔵が置かれていました。安政年間当村には高瀬舟25艘あったという。

3,下宇原 揖保川中流域東岸の平野部。宇原村から下宇原が分村、なお分村の年代は不詳。村名は宇原の南(下流)に位置することによります。水田中に条里遺構がみられます。



▲平見山より南東方面を望む 写真左下、山麓に戸原小学校が見える。その近くは宇原、右側は下宇原の集落である。(昭和59年)

岩にまつわる二つの実話
一、元禄年間(1688~1704)川戸村と宇原村が、揖保川対岸香山村との間に入会地をめぐる争論があり、魔手岩(真手岩)と称する巨岩を村境に決定したという(播州宍粟郡誌)。現在岩は取り壊されていますが、宍粟市とたつの市の市境あたりにありました。 
二、昭和48年(1973)川戸には盗人岩(ぬすっといわ)という名勝地が川べりにあり、道路拡張のために村人に惜しまれながら取り壊されました。

住民の足として活躍した橋替わりの宇原の渡し場
 江戸時代以降揖保川は筏流しや高瀬舟による物資の運搬が盛んでした。戸原村は揖保川沿いにあり、多くの高瀬舟を所有し、船大工小屋を持つなど、舟運の一役を担っていました。ただ住民の町への移動には橋が必要でした。しかし明治以降は木橋で何度も洪水で流され、宇原においては昭和37年(1967)になってやっと頑丈な橋、今も使われている宇原橋ができました。その日は宇原の渡し場がその役目を終えた日でもあります。それは近隣地域で最も長く住民の足として使われたものでした。「宇原渡場跡」の石柱が宇原橋の北(100m余り)の東の土手上に地元宇原老人会の手により立てられ、地域住民共有の記憶を伝えています。

終わりに 
 初めて戸原方面に行ったとき目にしたのは、真新しい戸原小学校の校舎で、少ない集落の数にしては立派な校舎という印象を受けました。二宮金次郎の像があったのを覚えています。小学校の南の畑には細い布のようなものが一面干してあった。それは干瓢(カンピョウ)だとわかるまでかなりの時間を要しました。昭和の初めの「宍粟の繒圖」には戸原の特産物として西瓜と胡瓜が書かれ、それを物語る胡瓜の箱付め作業(川戸)の写真もあります。日当たりがよく米のほかこのような野菜が栽培されていたことを知りました。つい先日、戸原小学校が来年廃校となることを聞きました。時代の流れとはいえ寂しいものです。

参考 『山崎町史』、『角川日本地名大辞典』、『ふるさと戸原』
※この記事は山崎郷土会報 NO.142 令和6.2.23 より転載

【関連】
●水運物語「宇原の渡し」

1、ぶらりふるさと地名考「宍粟」
2,ぶらりふるさと地名考「山崎」
3,ぶらりふるさと地名考「城下」
4,ぶらりふるさと地名考「蔦澤」

◆宍粟・播磨周辺の城郭 アドレス一覧


ぶらりふるさと地名考「城下」

2023-09-08 09:51:57 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
                                
    ここに一枚の写真があります。これは明治から大正・昭和と山崎町が一望できる名所として多くの人々が訪れた最上山のお寺「最上稲荷山経王院」から城下方面を撮ったものです。中央下の山崎小学校の向こうには広い田園が広がっています。この田園は山崎町の穀倉地帯ともいうべき城下平野で、そこに点在した村々が城下村です。東側(写真の左)には揖保川が流れ、西から合流する黒い帯筋が見えます。これは、揖保川に流れ込む菅野川の両岸に繁茂する竹藪です。古写真の撮られた明治後期から現在までの約120年に及ぶ町の移り変わりは、広々とした平野部の田畑や竹藪が大きく減少したことです。今回は、城下村(城下地区)の成り立ちやそれを構成する村々(現在の自治会)を地名由来や遺跡をもとに探ってみたいと思います。


▲古写真1 明治37年の城下平野
 この写真は最上山のお寺から南に向かって撮られています。中央下にみえるのが山崎小学校の運動場です。中ほどに左右に延びる黒い帯筋は、主に菅野川両岸に繁茂する竹藪です。菅野川は西から東に向かって揖保川に合流しています。


城下村の地名由来
 城下村は明治22年(1889)から昭和30年(1955)の宍粟郡の自治体名で、中井・鶴木・段・春安・下広瀬・船元・野・千本屋・御名・金谷・上比地・中比地・下比地の13か村が合併して生まれました。地名は、江戸期に北隣の山崎地区の南端に領主の居城(陣屋)が置かれ、当地がその城の下にあたることによります。
 明治7年(1874)全国に「廃城令」が発布されたのを機に、旧山崎藩士遠藤亘(わたる)氏が山崎町の発展のためにと、城下村への新道路の建設を計画しました。その敷設の中心者の遠藤氏の名をとり、「遠藤坂」と呼ばれました。明治以降は、江戸期の揖保川高瀬舟による舟運に替わって、道路と車の時代に入り、この新道路は山崎の町場と龍野(現たつの市)を結ぶ唯一の産業道路となりました。



▲城下地区図(中央の道が明治の新道路)


地名と遺跡で探る村々の歴史
1,中井(なかい)
 場所は、城下平野の北端に位置し、県道山崎・新宮線と東西には中国自動車道によって四分されています。地内の田中神社を基点に条里制を示す泉ケ坪、柳ケ坪、子牛ケ坪の小字が残され、これらは「中井条里遺構」と呼ばれています。平成15年(2003)の山崎町教育委員会の埋蔵文化財調査では、2千年前の弥生中期の田んぼの証の赤土が確認されています。ちなみに平成8年(1996)の調査で西鹿沢の総合病院の建っている場所に弥生の住居跡地が発見されています。(※下記写真)高台に住居を構え、一段低い城下地域で揖保川から水を引き、水路を作り稲作を行っていたようです。中井の地名は今宿辺りに井堰を作り、途中で水路を枝分かれのように二股にしていて、水路の中ほどに井堰があったことにからと思われます。

2.鶴木(つるぎ)
 揖保川支流菅野川の下流域にある。伝承によると、里人の井上左衛門が土中から剣を掘り出したことで、剣村と言われるようになったという。鶴木神社(金毘羅神社)には、それに関わる故事来歴を書いた古文書が残されています。里人は、剣は神の霊刀だとして大きな樹木の下に立て置くと、ある日鶴が飛来し立ち去らず、そこに仙人のような蒼い顔の白髪の老翁が訪れ、「私は剣の霊なり、今よりこの地に神殿を祀るべし」、と言い残して立ち去った。そうして、村人は霊剣を神としてお祀りし、それより村を鶴木と改めて、その社を鶴木神社と称するようになったとあります。

3.段(だん)
 菅野川の下流域。地名の由来は、古い集落が段丘面に発達していることから一段高いところの村といわれる。天保11年(1840)に松井氏が鋳物師の権利を得て、仕事場を開設し、安政2年(1855)大砲を鋳造している。地内の北東部に犬ノ馬場の小字が残る。観音堂には伝説を物語る絵馬があります。

4.春安(はるやす)
 菅野川の中流域に位置し、集落は国見山の北麓周辺に集散。元和元年(1615)池田輝澄が宍粟藩主となり、池田家の祈願所の天台宗中寺円明院「円明寺」を建立し、延宝7年(1679)本多忠英が山崎藩主となり、吉祥山願行寺を建立しました。城の西にあたり、朝日を最初に受ける春安を藩主の菩提や祈願に相応しい聖地としたのでしょう。天神神社はふるくから春安の天神さんと親しまれ賑わいを見せています。

5.下広瀬(しもびろせ)
 揖保川中流右岸の平野部で、北方に中広瀬があります。広瀬の地名は、揖保川の瀬の広い流れによるものと考えられます。水田中に条里の遺構が見られますが、揖保川の氾濫により大きく攪乱されています。広瀬は篠ノ丸城主の宇野氏の館跡があった場所と考えられ、北の中広瀬を含むあたりを広瀬郷といい、山崎の旧名です。

6.船元(ふなもと)
 揖保川中流域西岸の平野部。近世は船本村と記されていました。慶安年間(1648~1652)には揖保川の渡し場が置かれ、藩主の参勤交代に利用され、家臣が控える下座場がありました。一雲寺(大雲寺の末寺)と長谷川孫兵衛銘の梵鐘が残されています。

7.野(の)
 揖保川中流域西岸。『山崎町史』によると中世の野村郷があったことが記されています。

8.千本屋(せんぼんや)
 揖保川と菅野川の合流する地点付近。城下村の役場が置かれました。水田には条里制の遺構が認められます。地内北東部には雨乞神社(貴船神社)があり、その北隣に奈良期の創建と考えられる千本屋廃寺跡があります。千本は何を意味するのか不詳です。古代寺院や古社の仏具や神具に関わるものでしょうか。

9.御名(ごみょう)
 揖保川と菅野川の合流点付近。古くは五明、中世には五ミやうとの記述があります。名田の呼び名によるものと思われます。明治になり、西部を南北に走る新道が建設され、主要交通路となりました。

10.金谷(かなや)
 古くは金屋とあります。国見山麓の段丘面と段丘下の河川灌漑地に分かれています。城下平野を一望できる高台に金谷山部古墳(県指定)があり、また金谷群集墳として五基の後期古墳が確認されています。。当地には古くから鋳物を作る技術をもった長谷川姓を名乗る鋳物師がいて、記銘入りの梵鐘が数多く残されています。

比地村(ひじむら)
 江戸期の村名。延宝7年(1679)に上・中・下の三か村に分けられ、庄屋・年寄りが各村に置かれました。比治は、播磨国風土記に播磨国宍粟郡(しさわのこおり)の七里の一つとして「比治里」と見え、7世紀中ごろ揖保郡より分けて宍禾郡(しさわのこおり)が出来たときに、山部比治が里長に任じられ、この人の名をとって比治の里と名付けたという。現在の上比地、中比地、下比地、川戸、宇原、平見、金谷を含む地域に比定されています。土地柄は中の上とあります。比地は泥や湿原地を意味するもので、県内では朝来市和田山町比治も同じ意味で比治の地名が残されています。

11.上比地(かみひじ)
 比地三か村の上手に位置します。国見の森公園周辺。比地の滝は古くから行者の修行場で播磨の名所として知られていました。ここから峠を越して新宮町奥小屋、牧に通ずる生活道が三本ありました。

12.中比地(なかひじ)
 比地三か村の中央に位置しています。圃場整備で消滅しましたが、低平地には条里制の遺構の市ノ坪という遺称が残っています。

13,下比地(しもひじ)
 比地三か村のうち南(下)方にあります。地内南部の郡境(市境)に「比地保キ(ひじがほき)」という小字が残り揖保川の蛇行で生じたヘアピンカーブの交通の難所があります。



古写真2 中井付近の田園
 この写真は現在の咲ランド(イオン山崎店)の西入口あたりから西に向かって撮られています。小学校の南下の田んぼと段方面の山並みが見えます。田んぼには今では目にすることがない「つぼき」(脱穀した後のわらを積み上げたもの)が写っています。


移りゆく地域の中で、大切に伝えたい地名という小さな文化財
 城下地区に想いを馳せると、山崎小学校の南のがけ下には広い田んぼがあり、そこには一面にピンク色のレンゲソウが咲いていたこと、その田んぼの畦で田鮒や鯰を沢山捕まえてバケツに入れて持ち帰ったこと、遠藤坂でバスが転倒しているのを目撃したこと。小学のクラス全員で国見山に登ったこと、遠足で比地の滝に行き、滝に打たれている白装束の人を見たこと、比地保キで「ぎぎ」という魚が入れ食い状態で日が暮れるのも忘れて、親に心配をかけ叱られたこと等々を思い出しました。
 今や昭和の原風景は追憶でしか見られませんが、山河や地名は変わらず残っています。特に土地の小区間に名付けられた小字から土地の様子や成り立ちを読み取れるものが数多くあります。城下には条里制を意味する坪という小字がしばしば出てきました。また、比地保キという地名のホキは、崖を意味します。川の流水が衝突してできる川崖に多く名付けられています。このように地名は、土地の成り立ちや、災害・危険地名として残されてきました。地名は小さな文化財といえるゆえんです。地名から先人達がどのような場所に住んでいたのか、未来の居住者へのメッセージと感じ取ることができます。常日頃から住んでいる地域の地名に関心を持つことが地域の歴史を知る近道かと感じています。そうして地名を大切に後世に伝えていきたいものです。


参考文書 『山崎町史』、『日本地名大辞典』、『門徒の地名』西川博敏氏著、『兵庫県小字名集 西播磨編』

山崎郷土会報 No.141 令和5年8月26日発行より転載、一部字句修正有り

※弥生時代の住居跡   鹿沢城(山崎城)跡六軒町遺跡

▲山崎歴史郷土館展示





【関連】
ぶらりふるさと地名考「宍粟」
ぶらりふるさと地名考「山崎」
ぶらりふるさと地名考「戸原」
ぶらりふるさと地名考「蔦沢」


◆城郭一覧アドレス


地域伝承 山崎町門前「古屋前野家の由緒」

2023-02-22 10:06:22 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
はじめに
    郷土の歴史に興味を持ち始めてこのかた10数年になります。歴史を求めていると不思議と何かしらの手がかりや情報が手に入ることが少なくありません。このほど灯台下暗しそのもので、近くで貴重な情報を入手することができましたので、それを紹介したいと思います。

古屋前野家の由来
   宍粟市山崎町の市街地西端に位置する門前地区に「古屋」という屋号をもつ前野家に伝わる由緒・記録が残されていることがわかりました。明治時代に書かれたと思われる難解な原文ですが、読み下しを加えています。その後、それに関連する由緒、墓碑文、戒名記録を載せています。

【由緒が記された原文】
君諱久三郎 前野氏 宍粟郡門前村人 考曰助右衛門 君其嫡男也
家世業農葢其先奕業 累世至君之時不幸罹回禄舊記焚失其詳不可知也 天正中羽柴氏攻長水城助右衛門為郷導而有功賜賞典焉 君承家為本村里正勤倹率下頗有治績闔村服其化矣 
 元禄十四年五月二十二日歿享年八十有一 有五男長曰彌右衛門分家營農 二曰仁兵衛別起家業 商稱大阪屋 三曰重兵衛承家 四曰五右衛門 五曰治右衛門 亦復分家 各事商賣面曰門前屋 曰五曰佐渡屋皆稱前野氏云 重兵衛以後 為里正至傳四郎 明治維新之際 為副戸長試補 亦有能吏之稱 即當主柳吉之老也 初葬君於 門前村 中世有故 移墓碑於上寺村妙勝寺 及傳四郎 承家恐榮域之荒癈 復於故土 方今前野一族 益滋殖及十有四戸焉 抑欲垂其事歴於後 與同族胥謀 乃鐫貞眠以圖不朽 且係以銘曰
齢踰八旬 五男麟振 或農或商各立其身 宗族繁衍 榮名無垠(限)

【読み下し】
 あなたのいみな(本名)は久三郎という。前野の氏(姓)である。宍粟郡門前村の人である。亡父は助右衛門といい、あなたはその嫡男である。
家は代々農業で、おそらくその前は奕業(えんぎょう・占い業か)であろう。あなたの前の時代に不幸にも火災をこうむり、古記録を失った。そのため詳しい内容は知ることができなくなった。
 天正時代に羽柴(秀吉)氏の長水城攻めに、助右衛門が道案内をして、功を立て、賞を授かった。あなたは家を継ぎ、村長(門前村)となり勤勉で、おおいに成果を残し、村を発展させた。
 元禄十四年五月二十二日、享年八十一である。五男あり、長男は、弥右衛門といい、分家して農業を営む。次男は仁兵衛という。これもまた分家し、商売を仕事とする。商いを大阪屋と称した。三男は重兵衛と言い、家を受け継ぐ。四男は五右衛門という。みな前野氏を称すという。
五男は治右衛門といい、分家を復し、各々商売を家業とする。面(屋号)は門前屋という。
 重兵衛以後、村長となり、傳四郎に至る。明治維新の際、副戸長試補となり、また能吏の称を受けた。それは当主柳吉之老であった。初めあなたを門前村に葬り、中世に故ある墓碑を上寺村の妙勝寺に移した。傳四郎におよび、家を継ぎ栄域の荒廃を恐れ古い土地に復した。今日前野一族 ますます繁栄し十四戸に及んでいる。その事歴を後に残さんと欲して同族互いに貞眠に鐫(こく)し不朽をはかる。かかるに銘をもって曰く、齢(よわい)は八旬をこえ、五男は勢いよく 或るは農業、或るは商業につき、各々其身をたて、宗族繁栄し、榮名は限りがない。


▲由緒が書かれた掛け軸



▲古屋前野家の墓  妙勝寺(上寺)


古屋(宗家 前野家)墓碑文
 先祖ノ墓碑小而 粗加之累代墓碑 各所ニ散在シ為 後代認識ノ難有リ七代宗家前野柳吉 大正十二年正月更ニ此碑ヲ建ツ 久三郎門男子五人 長男禰右衛門出ノ渡辺姓襲ノ後前野姓倶ス新屋是也次男五右ヱ門分家門前屋是也 三男仁兵衛分家大坂屋是也 四男十兵衛宗家を襲フ 五男治右ヱ門分家佐渡屋是也



先祖からの戒名記録

室町時代の寛正元年(1460)から平成十六年(2004)まで88名の戒名記録が過去帳に残されている。(1500年代大火事のため不明)

古屋前野家から生まれた『門前屋』、『大阪屋』、『佐渡屋』
 以上のように、宗家の面々の記録によって一族が地域に根を張っていったことは、まぎれもない事実と認識できます。
 ここで、古屋という屋号は、どこから生まれたのか。古屋宗家は、広い土地を所有していたと聞いています。門前の字限図には、八幡下から西に延びる50mほどの場所が字古屋敷とあり、この古屋の屋号はこの地名からのものではないかと考えられます。古屋前野家の由緒書に羽柴秀吉の播磨攻めで、最後まで抗った宇野攻めのとき、その道案内をして褒美をもらったことを一族の誇りとして残していること。古屋前野家では先祖は尾張(名古屋)ではないかと伝わっています。そして、一族の大阪屋の家紋は円に卍で、蜂須賀家の家紋と同じです。蜂須賀小六正勝は宇野攻めに加わっていいますが、このことと関係があるのか。いずれにせよ、古屋前野家から派生した一族は、江戸時代を通じて門前屋、大阪屋、佐渡屋等が生まれ現在に繋がっています。

終わりに
 古屋前野家の中世・戦国時代から現在までの伝承は、門前を基盤とした古屋前野家から発した一族が今なお地域に根付き地域形成の一端を担ってきた歴史でもあることを知ることができました。

史料提供 古屋前野家 前野考司、前野明夫氏

山崎郷土会報 NO.140 令和5.2.20より転載 写真追加



【関連】
・地名 門前村字古屋敷 → 播磨 篠ノ丸城跡 ~大手口周辺の探索~

・地名由来「加生・門前」

ぶらりふるさと地名考「蔦沢」

2022-09-10 10:37:00 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
はじめに
 播磨西北部の宍粟市(しそうし)山崎町蔦沢(つたざわ)地区の地名の由来を探ってみました。幸いこの播磨には『播磨国風土記』が残されていること、そして蔦沢地区は、山科(やましな)家と万里小路(までのこうじ)家の二つの公家領主の荘園の地であり、その荘園が戦国時代まで存在した関係で、年貢(金銭、物品)の記録や領主の日記には、荘園を管理する代官宇野氏との関連記録が長期にわたって残されています。そこから知られざる宇野氏の実像が浮かび上がりました。一読いただければ幸甚です。




ぶらりふるさと地名考「蔦沢」
                

「蔦沢」の地名由来
 蔦沢地区は揖保川の中流域の山崎町庄能から北西に延びる伊沢(いそう)川の流域の集落である。生谷(いぎだに)から始まり、下町(しもまち)に入ると山の端に権現さんとも呼ばれる巌石神社前を通る。次は宇野(うの)に至る。宇野は長水城跡の大手にあり、宇野構遺跡地に蔦沢小学校がある。宇野より左の川向うが下牧谷(しもまきだに)で諸守(もろす)神社がある。そして片山(かたやま)をぬけ、上牧谷(かみまきだに)に至る。これより右の谷を進めば大谷(おおたに)がある。次に東下野(ひがししもの)、中野(なかの)へと進む。中野には廃校になった都多(つた)小学校がある。上ノ下(かみのしも)から左にすに進み、白口(しらくち)峠越えに小茅野(こがいの)の集落がある。いよいよ上ノ上(かみのかみ)の最上部、伊沢川源流域近くに岩上神社がある。

 この蔦沢という地名は、明治22年(1889)に生谷、下町、宇野、片山、上牧谷、下牧谷、大谷、東下野、中野、上ノ、小茅野の11か村が合併して名付けたのが始まりで、都多谷と伊沢谷の「つた」と「さわ」を取り、「蔦沢村」と命名された。そして、村役場が上牧谷に置かれ、昭和30年(1955)まで、続いたのである。
 このほど伊水小学校と都多小学校が廃校となり、今年(令和4年)4月、伊水小学校の場所に蔦沢小学校が新設された。伊水小は明治6年(1873)に開校し、これまでに約4千人が卒業。都多小は同20年(1987)年に設立され、約3,500人もの多くの児童が巣立っている。








地区に二つの古社「岩上神社」、「大倭物代主神社」が生まれた背景
 蔦沢地区には、上ノ上の岩上神社と下牧谷の大倭物代主(おおやまとものしろぬし)神社(通称諸守神社)の古社が鎮座する。この地域は高家里(たかやのさと)といって、『播磨国風土記(奈良時代初期編纂)』に記された宍粟郡の七つの里の一つであった。その高家の里のほとんどが万里小路(までのこうじ)領であったが、伊沢川上流域都多谷の都多村(後の上ノ村、中野村・下野村)だけが、山科(やましな)家領であった。そのため、二つの領主の荘園領内に村の鎮守として建立された神社で、その村々の氏子により守られてきたという。




▲岩上神社(上ノ上)




▲大倭物代主神社(下牧谷)


 「高家の里」とは 記録にのみ残る里名・郷名
 風土記に記された「高家の里」には都太川と塩の村の二つの地名があげられている。都太川は都多谷に流れる川で、現在の伊沢川のことである。塩の村は、牛馬が好む鹽(しお)を湧出する地で、庄能(しょうのう)村(現在の庄能北及び庄能南自治会)が遺称地とされる。庄能は揖保川と伊沢川の合流点付近で伊沢川全流域の広がりをもつエリアを高家の里といった。ついで、平安時代に編纂された『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』にも宍粟郡八郷の一つとして高家郷があり、高山寺本には『多以恵』と訓じている。里から郷に、そして読みも変化しながら、播磨国風土記の高家の里が継承されてきた。

 江戸時代の『播州完粟郡郡誌』(片岡醇徳著)に高家郷としての記述がある。
一 高家郷  高家村 今は庄能村と云う。
今宿村 枝出石 上寺 生谷村 中町村 横須村 上町村 片山 下町村 枝長泉寺 大谷村又竹の内村とも云ふ 下牧谷村
此の十二ケ村生神同。右の内、高家今宿上寺の他は続に伊沢谷と云。
下野村 中野村 上野村
此三ケ村を都多村と云ふ。生神同。
 小茅野村
村数都而拾六村
 
 とあり、郷の構成の村々をあげている。庄能村については、「正保郷帳」に高家村、「元禄郷帳」に「古くは高家村と申し候」と肩書され、江戸時代初期の呼び名を記している。天正8年(1580)長水城の落城後のすぐさま、羽柴秀吉が田恵村に禁制を掲げている。これにより、高家の里・郷を継承する田恵村があったことは確かである。なお、いまでも諸守神社の氏子が山崎地区の庄能、今宿、上寺、横須にあるのは、同じ高家の里・郷に属していたことによるからである。




▲伊沢川と揖保川の合流地点  by Google Earth



都多村の年貢にみる特産物
 荘園は鎌倉期には貴族や大寺院への寄進による集中化がみられ、宍粟郡も荘園が増加している。室町時代に入ると武士による荘園侵略が進行していった。高家庄領主の内大臣万里小路時房の日記『建内記』、そして公家山科家領の都多村の記録『山科家礼記』・山科家当主の日記の『言国卿記(ときくにきょうき』、『言継卿記(ときつぎきょうき)』が残されている。特に、都多村は、高家の里にあったが、万里小路領に含まれない別個のもので、戦国末期まで山科家の荘園として残っていた。このようなケースは全国的には稀であった。山科家領は播磨では都多村以外に揖保荘(たつの市)、隣国の備前居都庄(こずのしょう)(岡山市)があった。山科家は天皇の服飾を司る職務を担い、その技術や有識の知識を保持し、同時に足利将軍にも徴用され支援を得ていた。これらの荘園の存続は天皇家との繋がりと将軍家との結びつきによる権威のためか、さしもの宇野氏は領地そのものの横領(収奪)はできずに、預所代官として領内の年貢の取り立てと領主への納入を続けていた。
 山科家は、納入が怠れば代官宇野氏に対して年貢の督促のため家令や使用人を下向させ折衝させた。年貢の内容については金銭、鹿・狸皮、綿、杉原紙、漆等などが送られている。これらはいずれも都多村の特産物で、公家の山科家には重宝されていたのだろう。特に杉原紙は上質であった。都多の年貢の金銭として千疋と表記が連続的にあり、中世では銭1貫文が百疋(ひき)で10万円以上の価値があるとされ、千疋は100万円以上になる。


記録に残る代官宇野氏のこと
 永享11年(1439)の『建内記』に「高家庄段銭事、今日以便宣仰預所宇野、昨年先延引、今年必催之由、加下知了。此事雖背本意、依計会相点者也、今日六条宰相中将、有定、相語云、柏野庄続目任料、三千疋領状云々」これは、万里小路時房が未進の高家荘段銭(寺社の造営などに必要な臨時税)を代官宇野次郎満貴(守護代)に催促したものである。柏野庄とは高家庄の南に位置した菅野川流域の荘園で、広瀬宇野氏が代官職を勤めていた。

 嘉吉の乱後の嘉吉3年(1443)の『建内記』に「高家庄代官宇野次郎満貴送状云、此庄半分年貢者、満貴可致沙汰、於今半分者、守護山名惣預金吾半分令横領…」宇野氏からの万里小路時房への書状には、高家荘の年貢の半分は掌握したものの、残り半分は新守護山名持豊(宗全)が横妨しているため、これを掌握していないことを報じている。

 嘉吉の乱(1441)とは播磨国守護職である赤松満祐がときの将軍足利義教を殺害した事件で、山名宗全(持豊)を総大将とする幕府軍によって赤松満祐以下残党は討ち果たされ、また囚われの身となった。赤松氏被官の国人衆も討ち果たされたと伝わるが、実際は、播磨の在地の国人衆、宇野氏をはじめ、安積保の安積氏や揖保庄の島津氏、神岡の喜多野氏、姫路の広峰氏など多くは生き抜いている。この乱で赤松氏とともに一掃されたのではなかった。新領主山名氏の播磨支配には、自らの被官人だけで支配する余裕もなく、在地の国人衆の手を借りるのが得策であったのである。宇野氏は赤松氏の被官として佐用町から宍粟郡に移り土着した国人で郡内の柏野庄、高家庄、石作庄が権益地であった。嘉吉の乱後も、山名方の代官と共に一翼を担っていた。とはいえ、山名氏に降参した国人衆は、利権は半減し一族の困窮は免れなかったであろう。
 この後応仁の乱(1467)以後一世紀余り続く戦国時代に突入する。赤松氏は応仁の乱に乗じて播磨から山名氏を駆逐することに成功し播磨の奪還を果たしたのである。
 天文15年(1546)都多村代官宇野上野守は長男右京亮・次男・女房・娘を連れて伊勢参りをし、途上に上洛し山科言継邸に赴き、礼として太刀を持参した。翌日には言継の手配で御所の御庭を見物した『言継卿記』。言継は上野守宛てに年貢の礼状に添えて、勅筆の詩歌一葉を遣わしている。両者はよい関係を築いていたようだ。   
 ちなみに天文6年(1537)宇野村直が播州完粟郡柏野庄の八幡宮(現山崎八幡神社)に三十六歌仙額を奉納している。村直は当主宇野村頼と同じく、惣領家赤松義村から村の偏諱(へんき)を拝したと思われる人物で寺奉行であった。当時の公家の文化を享受しているからこその行為であったと思われる。


荘園の記録がもたらしたもの
 幸い蔦沢地区は、荘園領主の記録が戦国末期まで長期にわたり、年貢の物品や代官宇野氏の動きが記されている。年貢に金銭や割符(さいふ)(為替の元)が利用されるなど西播磨の奥深い山間部の山村にまでも貨幣経済が進み、宇野一族が国文化を享受していたことも知ることができた。これらの記録は、従来軍記物に彩られた宇野氏の虚像から、宇野氏の実像に迫る手がかりを与えてくれる貴重な史料の一つである。永禄12年(1569)山科言継が都多村等の家領を確保するために織田信長に援助を受けようと岐阜へ赴いたことの記述を最後に日記は途絶えた。この後豊臣秀吉の世になり太閤検地によって荘園は消滅したのである。





参考図書 『角川日本地名大辞典 兵庫県』、『播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究』、『播磨の光芒 古代中世史論集1』

「山崎郷土会報 NO.139 令和4.8.27発行」より転載、写真のカラー化と追加。



ぶらりふるさと地名考「蔦沢」

【関連】
高家里、柏野里
➡地名の由来「宍禾(粟)郡に7つの里」 

・山崎八幡神社の三十六歌仙奉納額(宇野村直奉納)
➡播磨 篠ノ丸城跡 ~大手口周辺の探索~

・秀吉の制札 田恵村について
➡ 広瀬宇野氏滅亡後の宍粟

・長水城跡
・宇野氏の最後

【日記】 直近のブログ紹介
健康志向の主食 ~玄米食・胚芽米の効果~


ぶらりふるさと地名考「山崎」 

2020-03-20 10:21:08 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)

地名から探る山崎(町)の歴史
 
 山崎という地名は山端の突き出したところという地形によるものです。全国には多くの同名の地名が存在しています。江戸時代に編さんされた地誌『宍粟郡誌』(片岡醇徳著・宝永五年(1708)によれば「是は一郡の都会なり郡府と云うなるべし」とあり、四方の谷の要で交易の便がよい場所として、山崎は江戸時代を通じ宍粟郡の最も栄えた町となりました。それを感じることができる写真が残されています。それは明治後期最上山から南に向かって撮ったものです。そこには城下町の町屋の屋根が東西に連なり、写真中央の山崎小学校の向こうには城下平野の田園が広がっています。
この山崎町が形成されていった中世・近世の時代を残された地名から探っていきたいと思います。
 



 
▲最上山より南の展望 中央に見えるのが山崎小学校の運動場
 

 

篠ノ丸周辺に残された中世の地名

 山崎町の門前と横須にいくつか目を引く地名があります。それは篠ノ丸(通称一本松)周辺地で、門前の「古屋敷」、横須の「屋敷」、「上屋敷」そして篠ノ丸頂上の「笹(篠)ノ丸」です。篠ノ丸頂上とその麓に残されたこれらの地名こそが、篠ノ丸城を拠点に宍粟郡を治めた宇野氏ゆかりの地名です。

   これら屋敷を含んだ地名は、篠ノ丸城の大手・搦手を守るための屋敷と考えられます。山崎八幡神社(門前)の場所が「東大王寺」、神社の境内の西の谷筋が「大王寺」という小字が残っています。大王寺という寺は、史料による裏付けはないものの宇野氏の菩提寺ではなかったかと推測されます。嘉吉元年(1441)に起きた嘉吉の乱(赤松満祐による室町幕府第六代将軍足利義教の殺害)の後に宇野氏が退いた場所に八幡神社が移転し建立されたと考えられます。八幡神社社記によると、応仁元年(1467)に遷座したとあり、そのとき境内のモッコク(推定樹齢六百年)がすでに存在し、以来神木とされました。
 


 
▲門前村字切図(書き込みあり)
 



宍粟藩主池田輝澄による山崎城と城下町造営に関わる地名


 天正8年(1580)宇野氏が羽柴秀吉に滅ぼされた後、龍野城主木下勝俊が宍粟郡を治め、「新町申付」により町への転入を促す施策を打ち出し、当時篠ノ丸南麓には「山崎村」と「山田村」の二つの農村があり、この二つの村を結ぶ一筋の新町が生まれました。
関ヶ原の戦いの後播磨は池田輝政が治め、代官を置きました。
 その後輝政の四男輝澄が元和元年(1615に宍粟藩主となり居城を新町の南の河岸段丘上に定めました。この場所は天文年間、出雲の尼子氏が播磨に侵入し、一時支配したとき砦を築いた地と言われています。山崎城は、大手を北に、北東西の三方に武家屋敷を配し、その北方に町屋敷をつくり、商工業者の居住地としました。武家屋敷と町屋敷の間には外堀を設け、土塁、石垣により厳重な境界を敷いています
 


武家屋敷の地名のゆらい

 武家屋敷には、清(志)水口、江戸町、東桜町、本多町、三軒町、西桜町、六軒町、通り町、中ノ町、松原町がありました。城内は郭内と呼ばれ、明治8年より鹿沢と改称されました。

清水口は武家屋敷東端で、清水の出る場所があった。
江戸町は江戸詰の藩士の屋敷があった。
東桜町は武家屋敷を東西に抜ける道の東方をいう。
本多町は藩主本多の屋敷に面する通りにあることによる。
三軒町は大手道の西の通りで三軒の大屋敷があったことよる。
西桜町は武家屋敷を東西に抜ける道の西方をいう。
六軒町は南北の道を挟んで六軒の屋敷があったことによる。
通り町は武家屋敷内の土橋門と鶴木門を結ぶ道で、庶民の通行が許され、城下方面の人々の通行が多く、城下町の入り口にあたる西新町・本町が最も賑わった所と言われている。
中ノ町は「通り町」と「松原町」との間にある町からによる。
松原町は武家屋敷の西端にある。
 


 

▲「天保山崎藩之図」に書き入れ
 


町屋の地名由来

 城下の町屋は、時代とともに発展・整備され、西新町、本町、山田町、福原町、北魚町、寺町、紺屋町、伊沢町、富土野町が生まれ、元禄17年(1704)の大火の後、出水町が加わり、十町になりました。現在の字表示山崎町山崎番地がこの十町にあたります。
 
西新町は宍粟藩主池田輝澄の時代、佐用郡が加増された時にできた町。佐用郡から多く人が移り住んだため一時佐用町(さよまち)と呼ばれた。
本町は町の中心地で始め中ノ町と呼ばれていたが、本町と改称。
山田町は山田村から発展した町で、本町の東隣りの町。
福原町は、当初高野町と呼ばれていたが、藩主池田輝澄の家臣福原小左衛門がこの場所に居住後に、いつしか町の名となる。
北魚町は名の通りの職人町。なお西魚町が西新町内の土橋(どばし)御門前にあることが延宝8年(1678)頃の山崎構図に記載があり、魚町が北・西として区別して存在していた。
寺町は名の通り。大雲寺が建立された当初は大雲寺町と呼ばれた。
紺屋町は染物業の職人町。
伊沢町はこの町の先が伊沢谷に通ずることによる。籠野町(かごのまち)ともいい、一角に茶町(ちゃまち)と呼ばれた一角があった。 
出水町は元禄17年(1704)の大火の後、区画整理されできた町で、防火用水などの対策がなされたものか。
富土野町は一宮の富土野鉱山に通ずる道筋にあたることによるか。
その他の関連地名
上ノ丁は西新町の裏通りにあり、歩行町(かちまち)であった。現在の元山崎。
田町は城下町形成の際に、町内居住の農民を、現在の「山田」の地へ移転させ農人町ができた。地名は田んぼの中にできた町から。



 
 
 


参考:『山崎町史』、『宍粟郡誌』、『角川日本地名大辞典』、『兵庫県小字名集』
 
※この記事は山崎郷土会報NO.133 令和元年8.25付より転載しています。