郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「西本郷・大垣内」 

2020-01-05 16:29:36 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西本郷・大垣内」   上月町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■西本郷(にしほんごう)

 佐用川支流幕山川流域。平尾村の西に位置し、幕山川が東流する。地名の由来は、幕山の中心で一番早くから開けた所であることによる。背後の標高300mの山頂に、本郷城があり、天正5年(1577)上月城とともに落城したという。
 江戸末期までに本郷村と改称した。西を冠するのは同郡内の同名村と区別するためと思われる。
当村と皆田(かいた)村・中山村などで元禄年間(1688~1704)紙漉きが行われていた。
 古くは当村と大垣内村の2か村とあり、貞亨元年(1684)大垣内村を分村。氏神は幕山神社。社殿によれば治暦2年(1066)に山城石清水八幡宮より勧請したという。明治7年郷社となる。寺院は高野山真言宗の正覚寺があり、境内に元禄年間(1688~1704)に大庄屋であった社孫兵衛一家の墓石がある。孫兵衛は元禄14年(1701)赤穂藩主浅野家断絶の時、百姓に責められ切腹、家に火をかけて一家断絶したという。中世の山城の広岡城跡が北部の標高300mの山上にある。頂上および中腹部分を削平し、数段に加工した跡が残る。「赤松家播備作城記」には本郷掃部助直頼と記される。

 明治22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月城の大字となる。明治23年幕山尋常高等小学校となる。明治39年道路改修を開始し、18年かけて終了。
明治30年前後から副業に、畜産・養蚕を営み、冬季は製炭業関係の山林労務に従事、婦女子は冬季わら芯きりに従事、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。昭和50年中国自動車道が南部を縦貫、サービスエリアが設置された。






■大垣内(おおがいち)
佐用川支流幕山川中流域。西本郷の西に位置し、東西に切れている谷間を幕山川が東流、同川沿いを古代・中世の美作道が通る。地名の由来は、大きな谷間に広がった平地であることによると思われる。地内の宮地には広岡城があった。天正5年上月城とともに落城したという。

 享保2年(1717)には紙屋が6件あり、百姓持林8ヶ所。草山・下木山として才元村・皆田村の山へも入会していた。
貞亨元年(1684)西本郷村から分村して成立。氏神は幕山神社。地内椿に愛宕神社がある。寺院はない。明治6年周専小学校を置く。明治22年幕山村の大字と成り、昭和30年上月町の大字と成る。
 明治27年・28年にスギ・ヒノキの植林事業に着手し、佐用郡内公私有林の植林の先駆をなす。同30年ごろからの副業は畜産・表さん、冬季男子は製炭業に、婦女子はわら芯きりに従事して、昭和25年前後に及んだ。大正12年電灯架設。昭和50中国自動車道が南部を通過。





◇今回の発見
西本郷の正覚寺に残る大庄屋社孫兵衛一家の墓。百姓に責められて切腹とあるがその理由が気になる。


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