郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「大畠・末包・中山」

2020-01-23 09:37:10 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「大畠・末包・中山」  佐用町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■大畠(おおばたけ)
 豊福村の北、江川川上流のやや開けた谷間に立地する。川沿いに大畠・王子の二集落があり、両側の山地の標高は350m台である。因幡街道が北の中山村に抜ける。地名の由来は、昔1枚8反(80a)もある大きな畑があったことによる。現在は小区画されて田・畑・宅地になっている。字半田には、古代の人が信仰したと思われる伊勢岩が水田の中にある。末包(すえかね)の観音寺の寺領があったと思われる寺田や、同寺の山門があったと考えられる大門の字名がある。

 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。因幡道の平福宿から道程約一里、小原宿(現岡山県大原町)との中間の立場であった。

 氏神は江川神社で、当村のほかに豊福・淀・平谷の各村も同社の氏子である。本殿は文安4年(1447)若一王子を勧請したと記されている。県指定文化財。

 明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治24年大畠尋常高等小学校開校。当時の校舎は、現在江川神社の拝殿として使用。明治30年頃から畜産・養蚕が盛んになり、農家の大きな収入源になり、昭和25年頃まで続いた。


▼大畠の小字図






■末包(すえかね)
 大畠村の北西、江川川上流右岸の谷を深く入った標高300m~400mの山間地に立地する。末包・谷・小中山の3集落がある。北と西は美作国吉野郡宮本村(現美作市大原町)。地名の由来は、大職冠藤原鎌足の末子藤童が誕生し、末包氏を名乗り住居を構えたので、地名を末包としたという。古い因幡街道が通った所で、現岡山県境付近に観音寺が建っていた。仁王門は明治39年頃焼失、古墳や宝篋印塔があり、先祖末兼藤童の墳墓は古墳で、墳頂には天応宮があった。佐用町随一の磨崖仏2体が谷にある。

 神社は畝神社。明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕が盛んになり、農家の大きな収入源になり、昭和25年頃まで続いた。昭和54年観音寺に乳業牧場ができ、5戸21人が入植。


▼末包の小字図





■中山(なかやま)
 美作国吉野郡に属し、佐用郡大畠村の北、江川川源流域の谷間に位置する。周囲は標高400m台の山地である。地名の由来は、山と山に挟まれた狭い集落であることによる。赤松円心の墓といわれる五輪塔と、巨大なシイの大木がある。宮本武蔵は峠を越えた宮本(現岡山県)の地に生まれ、乳母は当地の人であったという。

 氏神は瑞籬(みずがき)神社。当地は因幡街道筋にあたる。峠の頂上近くに泣きの清水といわれる清水の湧く井戸があり、そこの集落を釜坂という。釜谷峠にある立場から宮本村境までの距離は11町35間。国広殿(くにひろどの)屋敷と称する宅地があった。

 明治9年岡山県に所属。同22年讃甘(さのも)村の大字となり、明治29年江川村、昭和30年からは佐用町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕に従事する家が多くなり、農家の大きな収入源になる。



▼中山の小字図






◇今回の発見
・大畠、末包、中山も美作国に隣接する。宮本武蔵の乳母は中山村の人だっとという。
・佐用の読みの難解地名の一つ末包を「すえかね」と読むのは、藤原鎌足の末子の名から来たと言う。鎌足ゆかりの地だとは驚き。