郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「桜山」

2020-01-11 10:36:21 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「桜山」  上月町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■桜山(さくらやま)
幕山川支流桜山川の最上流域。才元村・金子村の北に位置する。東は上木谷・大猪伏(いぶし)、北は美作国吉野郡牛飼宮原村(現岡山県作東町)。下桜・上桜・樺坂の三集落よりなり、上桜は最高地点は399mの高位谷地に立地する。地名は、小さい谷の湿地を開拓した地域で、狭間(はざま)、迫(せこ)からきていると思われる。また峠を越えた北の傾斜地にある樺坂の由来は、樺(かんば)は桜のことで、山桜のある坂道沿いに位置することによると思われる。

 寛文元年(1661)に明暦・万治年間(1655~61)における隠田(おんでん)の罪により、豪農井原与右衛門一家(13歳の子どもを含む親子六人)が斬首刑に処せられた。この悲惨を悼み、その怨霊を恐れた村人は霊社と六人塚を立て供養した。元禄13年(1700)領主旗本松井氏は江戸中橋(現東京都中央区)の四人の商人に桜山銅山の開発を請け負わせ、銅256貫を製錬し大阪に送り出している。桜山銅山は昭和初期まで操業したが、経営者は度々交替した。この鉱山より流出する鉱毒の河川汚染、製錬の際の煙害による樹林枯れ、作物の生育被害など、地元の被害も甚大であった。

 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。金子村との境の標高310mの山上に中世末期の山城跡があり、主郭を中心に数段の削平地と堀切跡3か所が残るが詳細は不明。天満神社があり、本殿の元禄14年(1701)造営棟札、宝暦2年(1752)銘の灯篭2基と同年の鳥居の額が残る。
明治20年樺坂分教場を廃し、江川村立小学校組合を組織して今に至る。同22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。
明治30年前後から農家の副業として畜産・養蚕を導入、冬季は製炭関係の労務に従事し、婦女子はわら芯きりで稼ぎ、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。

※樺桜:カバノキ類に木肌が似ている桜の木、ウワミズザクラ、カニワザクラともいう。




◇今回の発見
・ 桜山の六人塚のいわれがわかったが、隠田の罪科による家族全員の処刑とはあまりにも惨い。
・ 桜山の南部にあった才金の金子集落は、桜山銅山の鉱害の被害をもろに受けた。銅山の鉱害は足尾銅山で知られているが、銅を得るために自然を破壊し、南部集落の離散をもたらした要因にもなっている。元はといえば藩の銅山開発に起因している。