【閲覧数】2,967件(2012.1.10~2019.10.31)
▼上月城周辺図
織田・毛利の2大勢力がぶつかり合う戦場となったのが播磨国佐用郡の上月城です。その戦いの動きを記録にそって追ってみます。
上月合戦 ①
天正5年(1577)12月3日上月城を陥れた秀吉は、凱旋の途中龍野で、近江の下村玄蕃充宛てに書状を返しています。そこには上月城攻略の大要が記されてます。
▼秀吉書状 「下村文書」
1) 播磨侵攻
◆天正5年(1577)織田信長は、秀吉に播磨侵攻を命じます。西播磨地域は毛利輝元と織田信長の勢力の境目で、秀吉は次々と播磨の武将を調略させ味方にしました。
◆10月15日、秀吉は御着城主の家臣であった小寺官兵衛(黒田孝高)に対し、七条殿(上月城主赤松七条家)分領や5月の英賀の戦功に対する褒賞を約束しています。官兵衛は、播磨の国人や土豪を説き伏せ、人質をとることに専念します。しかし、西播磨の中の諸豪の一部の備前・美作国に近い上月城周辺の諸城はこれに従わなかった。当時の人質は誓約の保証として一般的であり、官兵衛自身も信長に息子(長政)を人質を出しているからです。
◆11月1日、毛利輝元はに、秀吉の侵攻を事前に察知し、それに備えるよう美作国人等に命じています。西播磨の土豪や国人は、どちらに組みするほうが自分たちの生活が保障されるか厳しい選択を余儀なくされました。
2)福原城落城
◆11月27日 秀吉は、但馬の諸城を落とすと、熊見川(千種川の古名)を渡り佐用郡の中心部に入ります。郡内には敵対する城が3つ(福原城・上月城・利神城)あり、その1つである福原城に、竹中半兵衛と小寺官兵衛を前線に送り込み福原城下で戦闘になり、落城させました。
3)上月の援軍宇喜多軍との戦い
◆11月28日、秀吉書状の「七条と申す城」とある上月城に対して攻撃目標が移ります。秀吉軍が城の周辺を取り囲むと、上月城の援軍の※宇喜多直道の軍勢3千の兵が駆けつけたため、上月城南麓で戦いが始まりました。攻防の結果、宇喜多軍は背走し、ことごとく打ち取られました。この時の戦いの場所が、上月の円光寺前の佐用川近くにあり、戦(たたかい)という地名が今に残っています。
※宇喜多直家は、毛利と協定を結んでいたので、上月城救援を差し向けたが、この戦いを境に秀吉に接近したため、毛利とは敵対関係になりました。
4)上月城落城
◆12月3日、頼みの援軍は打ち取られ、水の手を奪われた城方は、降伏を申し立てたが、受け入れられず、脱出を防ぐ「かえりししかき」という柵を三重に設けたあと、攻め込まれ、ことごとく打ち取られ、女子供二百人のうち子供は串刺しに、女は磔(はりつけ)として、備前・美作・播磨の国の境目に見せしめとされました。秀吉軍は援軍の宇喜多の戦死者と上月城の犠牲者を葬るための塚を2つ築かせました。 (秀吉書状)
敵対していた3つの城の内の最後は、「別所中務(なかつかさ)と申物之城」で、この別所中務は利神城もしくは、麓にある別所構と呼ばれる居館を指すものと考えられています。秀吉は、人質をとり、来年2月までの城を預けることを決めています。
また、美作の竹山城主(岡山県大原町)とされる新免弾正左衛門(しんめんだんじょうざえもん)が人質を召し連れて出頭してきたため、秀吉は、味方とし、居城させています。その吉野郡・佐用郡・八頭郡の所領を安堵する内容が信長の朱印状が新免無二斎(しんめんむにさい)与えられたようです。
5)戦後処理
◆12月には秀吉は、戦後処理を行い、小寺官兵衛に活躍を称える書状を出しました。また、翌年には上月城の水の手を落とす活躍により、生駒親正(いこまちかまさ)に長浜近くの領地を与えました。
◆12月5日、秀吉は、佐用郡を平定したあと、上月城を尼子勝久に守らせ、龍野に移りました。この尼子氏は、山陰の名門でしたが永禄9年(1566)に毛利元就によって、本拠の月山富田城(がっさんとだじょう:島根県安来市)を落とされ、山中鹿助(幸盛)をはじめとする落ち延びた旧臣が尼子氏の再興のために織田の支援を受け、中国攻めの先鋒として働きました。
参考:『上月合戦~織田と毛利の争奪戦』~」、『上月町史』、他
➡次は上月合戦②
【関連】
播磨 上月城跡
◆城郭一覧アドレス