郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「西新宿・大日山」 

2020-01-15 09:48:32 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西新宿・大日山」    上月町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)



■西新宿(にししんじゅく)
 上秋里村の南西、秋里川上流域に位置する。同川沿いを播磨から備前へ至る道が通る。西は備前国和気郡東畑村(現岡山県吉永町)、南は赤穂郡黒石村(現上郡町)。ほぼ標高300mの山地に中才(なかざい)、松尾・奥ケ市・惣ノ田(そうのた)・岡坂(おがさこ)の小集落が散在する。地名の由来は、同郡内東の東新宿に対して西新宿と呼んだが、宿場であったという記録はない。播美国境の村で、山間部に点在するわずかな平地に8集落あった。
慶長国絵図に新宿村と見える。のち三日月町域の新宿村と区別するために西新宿村と改称したが、地元では以降も新宿村ともいった。

 紙漉きが行われており、嘉永元年(1848)には紙屋が45人おり、前年12月から4月までに1,226束の紙を漉出している。天保7年(1836)・同8年の飢饉で当村と大日山村で死者が185人もあった。慶応2年(1866)にも不作で餓死寸前となった住民が大日山村の農民とともに久崎村の酒屋・米屋などを打壊した。
氏神は八幡神社で、合祀前には愛宕社5・荒神社・山の神社4・大避社ほか4社を祀っていた。中才の集落に湧出山宝泉庵がある。寺院はなく、備前国八塔寺(現岡山県吉永町)の檀徒である。明治22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、同33年上月町の大字となる。
 交通不便の山間部で米麦作では生計をたてることが困難となり、明治30年前後から畜産・養蚕を副業とし、晩秋から初夏にわたり、製炭業関係の山林労務に従事。大正10年の木炭生産者46名。同12年電灯架設。昭和21年頃県境の台地大平に入植者2戸あり、開拓が始まり、同24年~28年までに入居者16軒・80人、乳牛を飼育した。昭和36年地内岡坂が全焼し、小学校は廃校、転出者が続出した。かつては100戸あったが、現在は昭和20年代の開拓地である大平の5戸を加えても30余戸である。





■大日山(おおびやま)
 佐用川支流の大日山川流域の山間地。西新宿の北西、小日山村の南西に位置する。標高300m以上の山間地で大日山川の水源地帯。西は備前国和気郡滝谷村(現岡山県吉永町)、北は美作国英田郡白水村(現岡山県作東町)。大日山と向坂(むこうざか)の2集落よりなる。地名は、大日山川上流の日当たりのよい集落で、下流の小日山より戸数が多いところから名付けられたと思われる。城跡がある。

 氏神は八幡神社で、寺院はない。慶応2年(1866)西新宿村の農民とともに百姓一揆を起こし、近郷の参加者とともに久崎村の商家に押しかけた。明治22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、同33年上月町の大字となる。

 嘉永元年(1848)には紙屋12軒が紙322束を漉出している。天正9年(1581)鎌倉鶴岡八幡宮より勧請したと伝える八幡神社がある。寺院はなく、江戸時代以来現在まで備前国八塔寺(現岡山県吉永町)の檀徒である。

 明治30年前後から副業として畜産・養蚕に従事、また男子は初冬から初夏にかけて、製炭関係の山林業務に従事し、婦女子はわら芯きりに励み、副業が農業所得に匹敵するようになり、昭和25年頃まで続いた。大正12年電灯架設。





◇今回の発見
・天保の飢饉で、両村に多くの死者が出た記録が残る。
・両集落とも山間地で、江戸時代以降盛んに紙漉きが行われていた。古くから岡山の八塔寺との結びつきがあり、人的交流もあったのだろう。

地名由来「秋里(下秋里・上秋里)」

2020-01-15 09:38:30 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「秋里(下秋里・上秋里)」  上月町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■秋里(あきさと) 
佐用川支流秋里川流域の谷間。江戸期の村名で、正保3年(1646)に上秋里村・下秋里村に分村した。地名は地内にあったという願入庵(寺)の晩鐘の響きが秋暮の静寂を誘うことに由来するという。備前国和気郡に通じる旭街道筋にあたる。



□下秋里(しもあきさと)
円光寺村・久崎村の西、佐用川支流秋里川の狭い谷間に位置する。両側の山地は急峻で標高300mを超え、多くの小谷がある。播磨から備前に至る道が谷底を通る。もとは秋里村1村であったが正保3年(1646)に上・下に分村。
佐用川支流の秋里川下流域に位置する。戦(たたかい)・北条・板垣・仁安(にやす)に集落があり、氏神は円光寺八幡神社。地内に荒神社3・山の神社1があった。寺院はないが、願入寺があったと伝える。

 明和元年(1764)・同5年・同8年・同9年・寛政8年・弘化4年に大洪水があった。文政8年(1825)天命の飢饉、慶応2年(1866)の凶作で百姓一揆を起こし、久崎村に出て富豪を襲った。文政8年(1825)当村と上秋里村・西新宿村・大日山村の紙屋惣代が連署して、三日月藩の指定問屋制により紙価が下落し紙漉きが困窮していると訴え、是正を願出ている。嘉永元年(1848)には当村紙屋7人で147束を生産している。

 明治22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、昭和33年からは上月町の大字となる。明治30年前後から、畜産・養蚕業務に従事するものもあり、婦女子のわら芯切りも盛んで、昭和25年頃まで続いた。明治39年から旭街道の改修に着手、同41年完工。大正12年電灯架設。



□上秋里(かみあきさと)
佐用川支流の秋里川中流域両岸の狭小な平地と後背の急峻な山間地に立地する。播磨から備前に至る道が通る。もとは秋里村1村であったが正保3年(1646)に分村。

 正徳5年(1715)北部の標高350mの高地の梨ケ原池を改修、大日山川下流域の小日山(こびやま)村・大畠村・須安(すやす)村・力万(りきまん)村・上月村の田畑7町5反余に用水を供給した。上記5か村は当村に年間銀400匁を支払っている。冬から春にかけて紙漉きを行い、嘉永元年(1848)には紙屋8人、漉高169束・紙代銀1貫638匁5分で、口銭49匁1分余を納めた。

 氏神は円光寺村八幡神社。古くは秋里の808荒神というほど、荒神社を祀っていたという。地内に寺はなく、村人は赤松村真言宗松雲寺の檀家である。下山・秋里の2集落のほか、秋里の南方約2kmの山上小平地の大釜にも集落がある。ただし、同集落の大釜姓の6戸は西新宿村、福本姓の6戸が当村に属し、明治9年には両姓とも、秋里に属した。久崎へ出るには山中の山道を焼く4km歩いた。明治22年に久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、昭和33年からは上月町の大字となる。

 明治23年の洪水で、秋里川の水かさは1丈2尺(約10m)増し、同年の災害復旧費が2,210円。同30年前後から農業のかたわら、畜産・養蚕を営み、冬季の副業として、製炭関係業に従事する人が増え、婦女子は内職のわら芯切りに精励、米麦に匹敵する所得を得て、昭和25年前後まで続いた。南の山中で生活を営む夏切在所は一時13戸があったが、不便が多く他への移住により次第に減少し、大正7年に無住地になった。大正12年電灯架設。大正7年地内の字大字が大字となる。




◇ 今回の発見
・秋里の地名の由来は、寺の晩鐘の響きからきた。『久崎村誌』とはなんとも奥ゆかしい。
・上秋里の夏切在所は13戸あったが、大正7年に無住地となった。移動手段が徒歩の時代は急峻な谷あいを何キロも移動するのは大変だったに違いない。
・下秋里の小字に「戦」が残るが、地名に残された上月城の戦いは、どのようなものだったのだろう。