第1章 小豆にみるケガレ
小豆の餡
さきに『散歩の手帖』27号の「餅なし正月の意味と起源」の中で、「赤色の儀礼食」に使われる小豆について考えてきた((1))。今回は小豆についてさらに追究していこう。坪井洋文は『イモと日本人 民俗文化論の課題』において「餅なし正月」にともなう神話・伝説をその内容によって7つに分類した。「赤色の儀礼食」はそのうちのひとつである((2))。それは小豆で色をつけた餅、小豆の餡(あん)を塗りつけた餅、赤飯、さらに小豆を用いた雑煮、粥、汁の類を供物、儀礼食としたものである。そこで述べた私の結論というのは、小豆が主体となっている赤色の儀礼食はケガレの象徴であるということであった。その理由として、坪井の7分類はすべてケガレを出発点としたものであり、その中に「赤色の儀礼食」も含まれているからである。さらに、坪井の分類中の事例29、福島県相馬地方に伝わるアカアカモチの例は糯(もち)米(ごめ)に小豆をまぜて搗いて赤色をつけた餅で、白い餅をエエモチ(良い餅)というのに対してアカアカモチといわれている。ということは、それはケガレのある餅の意であると考えられること、そして『日本民俗大辞典』「せきはん 赤飯」の項によると、凶事の赤飯の例が全国各地にあることなどを上げておいた。
また烏勧請はケガレを除去するのが目的であり、しかもその事例の半数で白い餅ではなく焼餅、小豆餅、赤飯、混ぜ飯、焼米などが使われていること。つまり白い餅も本来ケガレをそれに受けて運び去る役割があるが、さらに、こげ色や赤色もケガレを象徴しており、そのために餅を小豆でよごしたりするのであると考えられるのである。それらの例は次の一覧表にみるとおりである。
烏勧請にみる、ケガレと考えられる餅や米の分布
この一覧表は大林太良の『稲作の神話』から抽出し、新谷尚紀の『ケガレからカミへ』から補ったものである。ひとつの県に同じ言葉が並ぶのは、事例の件数をそのまま出しているためである。烏勧請が行なわれる青森県から鹿児島県までのほぼ全域に分布していたと考えて差し支えないであろう。ところでその内訳をみると東に焼餅、西に焼米という傾向がみられる。それが何を意味しているのかは不明。
さらに坪井洋文の抽出した餅なし正月の由来を語る全53事例も『散歩の手帖』27号で述べたように、半数以上の28例で糯米や米に小豆やヨモギを入れ、あるいは里芋やうどんが使われている((3))。
これらの事例から小豆がケガレの象徴であるというのは明らかであろう。しかし、あるいは読者はまだ受け入れがたいかもしれない。なにしろ小豆がケガレの象徴であることは、27号で餅がケガレの象徴であることを展開したのと同様、誰にも気づかれずにきたし、文献の上にも現われなかった。ならば一度ここで小豆に焦点をあてて、小豆もケガレの象徴として使われていたということを検証していくことにしよう。
そこでまず、問題提起として、小豆がケガレであるという私の主張が突飛ではなく、充分検討に値する問いかけであることを明らかにしよう。それには柳田国男の提示した小豆についての疑問を引き合いに出すことでこと足りるであろう。
柳田は小豆を昭和17年「小豆の話」、昭和24年「小豆を食べる日」、そして最晩年の『海上の道』に収録した昭和26年の「知りたいと思ふこと二、三」、昭和28年の「稲の産屋」でも小豆を取り上げている。そして民俗における小豆の不可解な扱われ方の奥には重要な秘密が、柳田の言によれば「何かまだ隠れている根拠」があるのではないかと憶測している。柳田の抱いた疑問は未解決のままで終っているのである。しかし、小豆をたんなる食物ではないと柳田はとらえている。そこに柳田の問題意識、さまざまな民俗事象に向ける関心の鋭さがある。
というわけで今回はまず、柳田が抱いた小豆をめぐる民俗への疑問を抽出していく。それによって民俗における小豆の不可思議性が浮かびあがり、再認識されるであろう。さらに各地の民俗行事から事例1~19を拾いだした。これらを検討することによって、小豆や赤飯などの儀礼食、五目飯、混ぜ飯などもケガレを象徴したものであることが理解されるであろう。その結果、小豆をケガレの象徴とみることで、柳田が抱いた小豆への疑問が解き明かされることであろう。すなわち小豆の持つ民俗上の性格は餅と一体のもの、餅と連動するものであることが確認できるのである。
小豆、柳田の疑問
柳田は「小豆の話((4))」(昭和17年)の中で小豆について次の疑問を提示している。(1)から(6)として抜き書きにした。
(1) どうして又此一種の食物が目出たい日には賞翫せられ、不吉の際にはわざと用ゐられぬ習はしになつて居るか。
(2) 附近の諸民族の中には同じ習慣が((1)のように)果して有るか。但しは又是が日本人独特のものであるか。
(3) 近頃始まつたか、はた古い昔からずつと此通りであつたか。
(4) 本来は之(小豆)を用ゐる時が定つて居たのかと思ふ。それは不吉の際に、わざと之をさし控へる仕来りのあるのを見てもわかるが、更に一方には常の日にも之を禁じて居る例が残つて居る。岩手県の幾つかの村里では、今でも正月は15日より前に、小豆を食つてはならぬと謂つて其戒めを守つて居る。
(5) 一ばんよく知られて居るのは所謂お稲荷さんの祭であるが、其以外にも、疱瘡神送り、即ちこの病を運んであるく神を退散させる祭にも、やはり小豆飯を供へたといふ話は普通である。中国地方の人ならば、誰でも知つて居るゲドウとトウビヨウ、又は四国で殊に有名な犬神の如く、之を飼つて居る家を富貴にし、その相手の家を苦しめるといふ想像上の動物なども評判ばかりで実地を見た者は無いのだが、やはり定まつた日にこの小豆飯を供へて、祭つて居るといふ人が多い。
(6) 小豆がさほどめでたい食物ならば、どうして疱瘡神や人に憑く野狐の如き、隔離を必要とする別世界のものの、之を饗応して返そうとするのかといふことである。
小豆をめぐる民俗について柳田は日本周辺の諸民族ではどうなのかと(2)と次にあげる(7)(8)のように取り上げ、これを比較したいと望んでいた。この時代ではほとんど不明だったらしいし、現在でもあまり情報はないのかもしれない。『東アジアにみる食とこころ』に若干の記述がみられる。それによると、中国では北方漢族の場合として正月15日、新年が始まって最初の満月に、もち米の粉で作った餡入り団子を食べるという。これを「元宵」といい、「元宵」は砂糖をベースにゴマ・小豆・クルミやピーナッツなどを入れる甘い味が基本的であり、茹でて食べるものという((5))。
韓国ではうるち米で餅を作り、それを蒸器で蒸したものをシルトック(甑餅)という。うるち米の粉と小豆を交互に重ねて蒸したものが一般的であるとされる。小豆は悪鬼や雑鬼を追い払う意味があるという((6))。
また中国江南地方の年中行事を記した『荊楚歳時記』では小豆は疫病よけ、殊に疫神よけに用いられ、冬至には赤豆粥を作るとされている。同書は日本には10世紀までに伝来したといわれているので、小豆の呪術性もそれによりわが国に伝えられた可能性を指摘している((7))。
以上のように中国や韓国でも日本の民俗にみる小豆の使われ方や役割とよく似ている。共通している点は、餡にするかどうかはともかく、米といっしょに使われること、悪鬼・雑鬼を追い払ったり、疫病よけ疫神よけになったりというように、呪術性があるということである。新年が始まって最初の満月である正月15日に食べる、あるいは冬至に使うというふうに、用いる日が決っている場合もあるなども、日本の民俗との共通点である。ということは柳田の疑問(2)の答えとして、日本人独特のものではなく、そうした民俗的性質を保ったまま日本列島へ伝播した、しかも米といっしょに使われることから、おそらくは稲作文化の中の一要素として稲作とともに伝播したと考えられる。そうであるならば、小豆の民俗的性質についても『荊楚歳時記』の伝来した10世紀よりもはるかに早く、弥生時代に遡るだろう。小豆の伝来は弥生時代とみられている((8))。つまりは作物としての小豆と民俗としての小豆は日本列島にもたらされた当初からともにあったと考えられるのである。
次に「小豆を食べる日((9))」(昭和24年)から柳田の提示した疑問を(7)から(15)に示す。
(7)ビルマの国から可なり多量に入ると聴いて、珍しく感じた記憶がある。さういふ方面の小豆栽培も古いかどうか。又其用途なり是に伴なふ感覚なり約束なりに、日本とどの程度までの共通があるか。
(8)(小豆が)古代はどうあつたかを尋ぬべき機会でもあると思ふ。小豆を稗粟麦のやうに、又近世の都会の米の飯のやうに毎日食ひ、又は乾菜や芋大根と同じにカテ飯のカテとし、腹のたそくにして居た時代は、日本ばかりか他民族の中でも、曽て無かつたやうに私には推測せられる。
(9)小豆を常の日には食べないといふこと。
(10)正月15日を粥始めとも称し、この日以前には粥はこしらへぬといふ土地があるかと思ふと、一方には7日を七草の粥とする慣例も、可なり広い区域に認められて居る。それと同様に、小豆も15日より前には食べてはならぬといふ処が東北ばかりか関東の農村にもあるのに、他には又元日2日、7日や11日に、必ず小豆を食べることになって居る例も相応に多いのは、何か共通の理由からではないかと考へられる。
(11)小豆を餅に付けて元日から、食べることにして居る風習であった。
(12)雑煮といふ言葉はどう見ても正月らしくないが、是は或は新しい一つの食べ方が、始まつたことを意味するものかもしれない。
(13)この餅には身の上餅、めいめい餅といふ類の名があつて、最初から之を各人に分配するのを例として居た。
(14)小豆が其機会に限つて用ゐられたのは、簡単に理由を見出し難いだけに、何かまだ隠れて居る根拠があるものと見てよいのである。
(15)どうして此様に根強く、殊に改まつた式日に用ゐられるかは、やはり考へて見なければならぬのである。
(1)(4)(9)(10)(14)にみるように小豆の使い方には制限がある。式日以前には粥をこしらえてはならぬとか、決った日に必ず小豆を食べるなど、餅の制限と似ている。「餅なし正月」と共通した要素がみられるのである。
「7 小豆を食べる日のこと((10))」(昭和26年)からも1点。
(16)(小豆が)物忌と常の日との境目を明かにする為の食物だつたことが、証明し得られることを期してゐる。
そして「稲の産屋((11))」(昭和28年)から1点をあげる。
(17)始めはあの色相から、作物の中に加へられたかと考へられる。或は今一歩を進めて、米の飯や粥の色を花やかにして、食べる人の心を改まらしめる為に、用ゐられ始めたかとさへ想像せられる。延喜式の中などにも可なりの量、数多くの機会に用度として列記せられ、一々はまだ当つて見ぬが、目途はすべて式典の為であり、(以下略)
ここでは飯や粥の色を花やかにして人の心を改まらしめることから使われ出して、色の花やかさを式典の花やぎに利用するようになった、というのが柳田の小豆の解釈ということになる。小豆についての柳田の関心は次第に式日と常の日を分けるために小豆が使われているという点に集中してきている。以前よりも小豆に対する疑問、問題意識が鈍くなっているようにもみえる。
以上のように小豆の用い方は独特であり、常の日には食べず、使う日が限定されていたり、解禁日を設けるなど、利用のしかたには制限がある。まためでたい食物でありながら、一方で疱瘡神や人に憑く野狐を饗応して退散させるためなどにも用いられる。小豆はこうした特別の用途をもっていた。これらには(14)に見るごとく何か隠された根拠があったのではないかと柳田は想像している。その柳田の疑問は(16)(17)にみるように、晩年に至っては淡いものになったようであるが、「稲の産屋」「知りたいと思ふ事二三」は『海上の道』に収録されたように、柳田は最晩年まで不可解な小豆にこだわったのである。
餅と小豆の類似
このように小豆について柳田が抱いた疑問を抜き出していくと小豆が餅の扱いと似ていることに気づく。特に小豆の使い方に制限をもうけている点などは餅なし正月における餅と同じようである。
たとえば常の日には食べないで、なんらかの式日に用いる。元日に餅につけて食べる。米の飯に小豆で色をつけたり、粥にして米とともに用いられる。特に食べる日に制限をもうけている点では餅なし正月と同じである。つまり餅と同じ目的で小豆は使われているのではないか。そうであるならば、『散歩の手帖』27号「餅なし正月の意味と起源」で述べたように、餅がケガレの象徴であったり、ケガレをつけて運び去るための器であるように、小豆は運び去られるべきケガレの象徴ではないか。そこで次は民俗資料のなかに小豆がケガレを象徴していると解釈できる事例をさがしてみよう。
民俗にみる小豆のケガレ 事例1~6
『無形の民俗資料 記録 正月行事((12))』全4冊(以下『正月行事』と略記する)のなかには小豆についての民俗事象もみられる。そのなかから、小豆にかつてケガレの意味が込められていた痕跡をさがしてゆく。これらの資料で取り上げた民俗では、すでに小豆が負っていたと考えられるケガレの意味は直接的には現われていない。したがって、それぞれの事例に現われた習俗において、小豆の使われている様子が記述されているだけである。しかし、一歩踏み込んでなぜここに小豆なのか、なぜこういう使い方がされているのかと問うていくと、ケガレとしての小豆が浮かびあがってくるのである。
※ 1―165 1は『正月行事』全4冊の巻数、165はその中のページを示す。
事例1 大分県宇佐郡駅川町1-165
なぜあん入り餅は吹出物ができるといわれるのか。そして正月には乞食が来るものだ、そして乞食に与えるのだということが、あん入り餅を作っておく前提になっている。乞食は『散歩の手帖』27号「餅なし正月の意味と起源」の中で「ホトホトの餅」「ケガレの除去と被差別民」で述べたように小正月の訪問者に相当しケガレを運び去る者である((13))。「あん入りの餅は吹出物ができる」という伝承によってあんには負の価値がそなわっていることが示され、それによって小豆がケガレを象徴している痕跡をとどめていると考えられる。さらにその餡入り餅はケガレを運び去る役目を負った小正月の訪問者である乞食に与えられる。
この報告ではつづいて餅の種類をあげている。鏡餅、小餅、切り餅。切り餅にはカキ餅、アラレがあり、ごま、青海苔、大豆、落花生などを入れる。その他にも、つきたての餅を小さくちぎって酢につけて食べる酢餅、つきたての餅の外側にあんをつけたオヘギなどがある。それら多くの餅のほかに冒頭のあん入り餅が作られるのである。ケガレを運び去る役割としての乞食に、ケガレを象徴するあん入りの餅を与えて運び去ってもらうことが目的だったと考えられる。ところでオヘギは、オハギ、ボタモチのオハギの語源であろう。春は牡丹でボタモチ、秋は萩の花でオハギという説は後の付会と考えられる。いずれ稿を改めて取り上げたい。
事例2 烏朔(からすづい)日(たち) 大分県東国東郡国東町1-122
この行事の元の意味はカラスが起きないうちに飯や小豆飯を供えることにあったと解釈できる。朝暗いうちに起きてそうするということは、もとはこの行事が烏勧請そのものか烏勧請を含むものだったと想像される。粘る食物を食べるようになったのはのちの変遷である。上につづく文面をみると、粘る食物を食べるということに興味が移っているのがわかる。というのは、この日はトシトコ様が唐の国に相撲をとりにいくので、ねばり腰で勝つようにとか、トシトコ様が出雲に村の者の縁結びに行く時の弁当で、良縁があるまでねばってもらうために、といった話がつづく。「カラスヅイタチ」の本来の意味はこの習俗のなかには、未明に起きることと小豆を使うことだけに残っている。「カラスヅイタチ」はカラスにケガレを運び去ってもらうことによって新年を迎えられるという烏勧請の意味だったはずで、小豆飯が運び去られるべきケガレを象徴している。「カラスヅイタチ」という行事の名称にも行事の主旨が痕跡として残っているといえる。
事例3 仏の口あけ 岡山県笠岡市2-125
ここに出てくる餅は白い餅ではなく、団子は不明だが、どれもみなあんこ、黄粉、草(ヨモギか)、くぐ(くぐの葉は筆者には不明)などをまぜた、あるいはつけたものである。それらは『散歩の手帖』27号の「赤色の儀礼食の分析」で述べたように、餡をつけたり混ぜ物を入れて搗いた餅はケガレを表現していると考えられる。
事例4 岡山県笠岡市陸地部2-95
事例1の大分県宇佐郡と同じく、こちらもあん餅はデモノ腫物である。ここでもデモノ(腫物)ができるという表現にケガレの痕跡を残していると考えられる。旧正月の餅に限っているというのも、古い習俗をより強く残すといわれる旧正月だからであろう。餡はケガレの象徴とする痕跡がわずかに残ったとみられる。
事例5 岡山県赤磐郡赤坂町大屋2-157
牛窓町千手でも煤掃き団子をつくるが、餡はつけずに味噌汁にして食べる。餡をつけるほうが古いと考えられる。オドクウ様にまず供えるというのもケガレ祓いの痕跡と理解できる。オドクウ様はケガレと関連が強く、ケガレを運び去るからである((14))。そのオドクウ様にケガレの象徴としての餡付きの米粉団子を供えることでケガレ祓いを託している。
事例6 岩手県雫石町西山4-11一杯おろしのだんご(12月20日)
朝でもない、昼でもない、夕飯の時にいただくというのがこの行事の要であろう。それは日没から一日が始まるからである((15))。次の新たな太陽が出るまでにケガレとしての余った危険な太陽((16))を象徴する団子を始末する必要があるから、鶏鳴時より前に必ず食べ終わらねばならないとされるのである。だから食べ終わればケガレの太陽を象徴する小豆入りの団子が始末されて厄払いができる。ここには射日・招日神話を背景として最後に烏勧請の痕跡もとどめた、新年の迎え方の古い姿が残っている。
夏正月の新年
さらに、ボタモチと称する麦の粉の団子をカラスに与えて、夏正月の新年を迎えるという事例を紹介しよう。この中には小豆餡やボタモチが登場する。
『『日本民俗学』130号で小野重朗は「夏正月と大隅の民俗」と題して、周知の冬の正月に対して、旧暦6月末から7月初めに夏正月があるとの説を、大隅半島の民俗を例として展開している((17))。これは一年二年説として『図書((18))』に紹介されたブラムセンの仮説を裏付けする内容でもあり、注目されてよい。一年二年説については稿を改めて考える必要がある。
この行事を地元ではショガッドッ(正月ドッ)といっている。ドッというのはトキ(時)であり、節とか折り目といった言葉であるという。しかし、なぜ正月というのかという小野の質問に対して答えてくれた古老は1人も居なかったという。では小野による大隅半島の夏正月についての5つの事例を次に抜粋で紹介する。
① 肝属郡根占町横別府、大久保の正月ドッ 各戸では新しい麦の粉の団子に小豆餡を被せたもの(これをボタモチという)を作り、ムギワラのツトに入れて家の門口のあたりの木などに下げてトッの神に供え、家族で食べる。
② 根占町山本、尾上の正月ドッ 正月ドッをボタモチサゲとも言うのは家々でボタモチを作って、それをツトに入れて戸外に下げるからである。それは烏(からす)に供えるのだという。これを正月ドッというのは、いろいろ災厄のある年を送って早くいい新しい年にする意味があるから行なうのだという。
③ 根占町山本、丸峰の正月ドッ ショガッドッ、この日はの青年が、早朝に森山の上で大声で「正月ドッジャッドー」と呼ぶ。トキノカンサー(トキの神様)をよぶのだという。小麦粉で団子を作り、小豆餡を塗りつけたものを小麦ワラの縦のツトに2つ3つ入れたものを家々の、竹笹の垣などに掛けておくと、の子供たちが、それを無断でもらって回った。
④ 根占町川南、牛牧の正月ドッ どの家も、小麦で作ったダゴ(団子)をツトに入れて戸口のあたりにつり下げ、家人みなでたべる。この日が6月の終りの日になるようにする。
⑤ 根占町川北、浦の正月ドッ の田植えが全戸終ると「田植アガイノシバ」(田植上イノ柴)という一連の行事がはじまる。シバは柴日の意で柴を立てて祭りをする日の意であるらしい。一連の最後が正月ドッでボタモチサゲとも言い、ボタモチを作りツトに入れて木戸口に下げた。
柴祭りについては29号「反閇 音と足踏み」で取り上げる。以上がショガッドッである。上の5事例のなかで小豆餡やボタモチの行方を抜き出してみると、
①以外はいずれもボタモチを戸外の木戸口や木に下げてカラスや子供たちにとらせるとするものである。これらの行為によって小豆餡のついたボタモチを運び去らせるのが目的となっている。ここでもやはり、小豆にはケガレとしての意味は忘失しているが、カラスや子供たちが小正月の訪問者として小豆餡のついたボタモチを運び去る役割を担っている。事例1から6に見たように、やはり小豆餡をつけたボタモチを運び去らせる。これもケガレの象徴としての小豆なのである。つまり27号「小正月の訪問者と餅のゆくえ」で家々から餅が運び去られたように、小豆餡やボタモチを運び去ることが夏正月と称して行なわれたのである。
文献ではわからない小豆のケガレ
ところで、なぜ小豆がケガレであることにこれまで気づかれずにきたのか。この疑問は餅についての疑問と同じものである。餅がケガレであることをなぜ歴史は記さずに経過してきたのか。それは最古の文献が記されるより以前にすでに餅や小豆がケガレを象徴するものであることがわすれられていたからである。しかし民俗の中には事例1~6に示したように、さらに全19事例その他で示すように様々な形で痕跡として残り、現代に伝えられているのである。『散歩の手帖』25、26、27号は餅がケガレであることを検証するために進められてきたともいえる。そして文献からではすでに捕らえられないものが、民俗のなかに潜んでいること、そしてかろうじて検証できるものであることを明らかにしてきた。小豆についてもやはり、民俗をさぐることによって小豆がケガレの象徴である痕跡がみつかるのは事例1~6で明らかであろう。それでは、文献ではすでに小豆がケガレの象徴であることは見出せないことも確認しておこう。
廣野卓の『食の万葉集 古代の食生活を科学する』によると小豆が文献に現われ始めた例を次のように紹介している((19))。
○ 『古事記』上巻には、死んだ大気都比売(おおげつひめ)の鼻にアズキが生える記述があるので、阿(あ)加安(かあ)豆(ず)木(き)(赤小豆)が古くから食用にされたことは理解でき、弥生時代には伝来していたといわれる。
○ 天平勝宝5年(753)には、正月15日の小豆粥を食する行事も勘奏(調べて奏上する)されている(『年中行事抄』)。
○ 『万葉集』にアズキを詠んだ歌はないが、巻11と12に、小豆奈九を「味気なく」と訓んでいる。
○ 奈良時代の史料に頻繁に登場する佐(さ)佐(さ)介(げ)(大角豆)も、弥生時代中期には伝来したといわれている。ササゲも用途のひろい豆で、それをものがたるように、蒸(むし)莢(さや)角(ささ)豆(げ)や生(なま)角(ささ)豆(げ)、青角豆と書かれた木簡が平城京跡から出土している。
○ アズキをもちいて飯を赤く染めることは、『荊楚歳時記』が奈良時代に伝来しているので、その記述から知られていたと考えられる。
○ 『荊楚歳時記』にも「冬至の日に、赤(あ)豆(ずき)粥(がゆ)をつくり、以て疫(えき)を禳(はら)う」とあるように、赤色が邪気をはらうという俗信によるものである。
○ 現在、正月15日(小正月)は「餅入り小豆粥」を炊くが、これは旧暦15日が望月(満月)であり、望月の望が餅に読みかえられたことによる。もちろん、小豆粥を祝う風習も古来からつたえられており、『延喜式』にも、小豆粥の配合が示されている。
以上のように小豆についての記載はあるが、ケガレの象徴と思われる例やケガレに結びつきそうなあつかい、用途などは奈良時代にはすでにない。ただ『荊楚歳時記』に小豆粥で疫を祓うとしているのは8ページでも述べたように小豆の呪術性としてケガレ祓いの行為が痕跡として残ったかと思える。餅と小豆をいっしょに炊くことが「望月の望が餅に読みかえられた」などというシャレで始まったことではないのである。
一方、これも推察ではあるが、混ぜ飯らしいものが『日本書紀』の持統元年にみられるとして廣野は「八月(はつき)の壬(みずのえ)辰(たつ)の朔(ついたち)丙(ひのえ)申(さる)に、殯(もがり)宮(のみや)に嘗(なおらいたてまつ)る。此を御青(あおきお)飯(もの)と曰(い)ふ」というのを紹介している。そして「日本古典文学大系」『日本書紀』の頭注に「一説に青飯を菜飯とする」との記述があることを指摘している((20))。
廣野は「新嘗において祖霊に青飯を供える慣例の検討はべつにして」と述べて、これ以上追究していないが、新嘗とは新年を迎えることと同義であるから、そのおり、青飯である混ぜ飯を供えるということは、ケガレの象徴としての御青(おあきお)飯(もの)を祓えやって新年を迎えるということにならないか。混ぜ飯などについては事例10~19でも扱うように、これもまたケガレの象徴である。
このように小豆、あるいは青飯をケガレの象徴という立場から見ていけば、その痕跡なしとはしないが、これ以上の追究は無理であろう。後の時代には、『土佐日記』『枕草子』にも小正月の小豆粥がみられるが、すでに祝いの食物として認識されている。
『土佐日記』(934~935年)をみると「1月15日。今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、今日二十日あまり経ぬる。」との記述がある。口語訳では「15日。きょう、おきまりのあずきがゆを煮ない。残念でならないが、残念といえば、やはり天候が悪いので、ぐずぐずしているうちに、きょうで20日あまりたってしまった ((21))」。
船旅の途上で天候悪く日和待ちである。何事もままならず、ささやかな年中行事も満足にできないことを嘆いている。
『枕草子』では「15日。節供まゐり据ゑ、粥木ひき隠して、家の御たち・女房などの、うかがふを、「打たれじ」と用意して、常にうしろを心づかひしたるけしきも、いとをかしきに、」と小正月の行事が記されており、傍注、頭注によると、15日の小正月には小豆粥を供する。その粥を煮るのに用いた焚き木が「粥の木」つまり「粥杖」で、これで女性の臀を打つと、男児を懐妊するという俗信があったとされる。この粥の木をかくし持って娘や女房たちのすきをねらうので、打たれてなるかと用心して背後を常に気にしている様子がおもしろいといっている((22))。こうした習俗は民俗のなかにもみられ『日本民俗大辞典』では「ハラメウチ」「よめたたき 嫁叩き」などとして項目を立てて解説している。以上のように小豆がケガレの象徴であることは文献からたどることはできない。
ここまで、民俗事例の中から餡や小豆飯にケガレの痕跡をみてきた。つぎに赤飯に現われているケガレの痕跡をみてみよう。
小豆の餡
さきに『散歩の手帖』27号の「餅なし正月の意味と起源」の中で、「赤色の儀礼食」に使われる小豆について考えてきた((1))。今回は小豆についてさらに追究していこう。坪井洋文は『イモと日本人 民俗文化論の課題』において「餅なし正月」にともなう神話・伝説をその内容によって7つに分類した。「赤色の儀礼食」はそのうちのひとつである((2))。それは小豆で色をつけた餅、小豆の餡(あん)を塗りつけた餅、赤飯、さらに小豆を用いた雑煮、粥、汁の類を供物、儀礼食としたものである。そこで述べた私の結論というのは、小豆が主体となっている赤色の儀礼食はケガレの象徴であるということであった。その理由として、坪井の7分類はすべてケガレを出発点としたものであり、その中に「赤色の儀礼食」も含まれているからである。さらに、坪井の分類中の事例29、福島県相馬地方に伝わるアカアカモチの例は糯(もち)米(ごめ)に小豆をまぜて搗いて赤色をつけた餅で、白い餅をエエモチ(良い餅)というのに対してアカアカモチといわれている。ということは、それはケガレのある餅の意であると考えられること、そして『日本民俗大辞典』「せきはん 赤飯」の項によると、凶事の赤飯の例が全国各地にあることなどを上げておいた。
また烏勧請はケガレを除去するのが目的であり、しかもその事例の半数で白い餅ではなく焼餅、小豆餅、赤飯、混ぜ飯、焼米などが使われていること。つまり白い餅も本来ケガレをそれに受けて運び去る役割があるが、さらに、こげ色や赤色もケガレを象徴しており、そのために餅を小豆でよごしたりするのであると考えられるのである。それらの例は次の一覧表にみるとおりである。
烏勧請にみる、ケガレと考えられる餅や米の分布
青森県 焼餅、炙り餅
岩手県 小豆餅、焼餅
山形県 ボタモチ、小豆団子
埼玉県 焼餅、焼餅
千葉県 焼餅
新潟県 蕎麦か五目飯
静岡県 玄米餅
愛知県 焼米、焼米、焼米、焼米、社の供物のさがり、御供米をまく、焼米
岐阜県 焼米
長野県 焼米
滋賀県 小豆入り玄米飯
鳥取県 焼米
島根県 焼米
愛媛県 小豆飯、混ぜ飯
長崎県 籾を炒る
宮崎県 赤飯、赤飯、小豆
鹿児島県 赤飯、ぼたもちのような団子
岩手県 小豆餅、焼餅
山形県 ボタモチ、小豆団子
埼玉県 焼餅、焼餅
千葉県 焼餅
新潟県 蕎麦か五目飯
静岡県 玄米餅
愛知県 焼米、焼米、焼米、焼米、社の供物のさがり、御供米をまく、焼米
岐阜県 焼米
長野県 焼米
滋賀県 小豆入り玄米飯
鳥取県 焼米
島根県 焼米
愛媛県 小豆飯、混ぜ飯
長崎県 籾を炒る
宮崎県 赤飯、赤飯、小豆
鹿児島県 赤飯、ぼたもちのような団子
この一覧表は大林太良の『稲作の神話』から抽出し、新谷尚紀の『ケガレからカミへ』から補ったものである。ひとつの県に同じ言葉が並ぶのは、事例の件数をそのまま出しているためである。烏勧請が行なわれる青森県から鹿児島県までのほぼ全域に分布していたと考えて差し支えないであろう。ところでその内訳をみると東に焼餅、西に焼米という傾向がみられる。それが何を意味しているのかは不明。
さらに坪井洋文の抽出した餅なし正月の由来を語る全53事例も『散歩の手帖』27号で述べたように、半数以上の28例で糯米や米に小豆やヨモギを入れ、あるいは里芋やうどんが使われている((3))。
これらの事例から小豆がケガレの象徴であるというのは明らかであろう。しかし、あるいは読者はまだ受け入れがたいかもしれない。なにしろ小豆がケガレの象徴であることは、27号で餅がケガレの象徴であることを展開したのと同様、誰にも気づかれずにきたし、文献の上にも現われなかった。ならば一度ここで小豆に焦点をあてて、小豆もケガレの象徴として使われていたということを検証していくことにしよう。
そこでまず、問題提起として、小豆がケガレであるという私の主張が突飛ではなく、充分検討に値する問いかけであることを明らかにしよう。それには柳田国男の提示した小豆についての疑問を引き合いに出すことでこと足りるであろう。
柳田は小豆を昭和17年「小豆の話」、昭和24年「小豆を食べる日」、そして最晩年の『海上の道』に収録した昭和26年の「知りたいと思ふこと二、三」、昭和28年の「稲の産屋」でも小豆を取り上げている。そして民俗における小豆の不可解な扱われ方の奥には重要な秘密が、柳田の言によれば「何かまだ隠れている根拠」があるのではないかと憶測している。柳田の抱いた疑問は未解決のままで終っているのである。しかし、小豆をたんなる食物ではないと柳田はとらえている。そこに柳田の問題意識、さまざまな民俗事象に向ける関心の鋭さがある。
というわけで今回はまず、柳田が抱いた小豆をめぐる民俗への疑問を抽出していく。それによって民俗における小豆の不可思議性が浮かびあがり、再認識されるであろう。さらに各地の民俗行事から事例1~19を拾いだした。これらを検討することによって、小豆や赤飯などの儀礼食、五目飯、混ぜ飯などもケガレを象徴したものであることが理解されるであろう。その結果、小豆をケガレの象徴とみることで、柳田が抱いた小豆への疑問が解き明かされることであろう。すなわち小豆の持つ民俗上の性格は餅と一体のもの、餅と連動するものであることが確認できるのである。
小豆、柳田の疑問
柳田は「小豆の話((4))」(昭和17年)の中で小豆について次の疑問を提示している。(1)から(6)として抜き書きにした。
(1) どうして又此一種の食物が目出たい日には賞翫せられ、不吉の際にはわざと用ゐられぬ習はしになつて居るか。
(2) 附近の諸民族の中には同じ習慣が((1)のように)果して有るか。但しは又是が日本人独特のものであるか。
(3) 近頃始まつたか、はた古い昔からずつと此通りであつたか。
(4) 本来は之(小豆)を用ゐる時が定つて居たのかと思ふ。それは不吉の際に、わざと之をさし控へる仕来りのあるのを見てもわかるが、更に一方には常の日にも之を禁じて居る例が残つて居る。岩手県の幾つかの村里では、今でも正月は15日より前に、小豆を食つてはならぬと謂つて其戒めを守つて居る。
(5) 一ばんよく知られて居るのは所謂お稲荷さんの祭であるが、其以外にも、疱瘡神送り、即ちこの病を運んであるく神を退散させる祭にも、やはり小豆飯を供へたといふ話は普通である。中国地方の人ならば、誰でも知つて居るゲドウとトウビヨウ、又は四国で殊に有名な犬神の如く、之を飼つて居る家を富貴にし、その相手の家を苦しめるといふ想像上の動物なども評判ばかりで実地を見た者は無いのだが、やはり定まつた日にこの小豆飯を供へて、祭つて居るといふ人が多い。
(6) 小豆がさほどめでたい食物ならば、どうして疱瘡神や人に憑く野狐の如き、隔離を必要とする別世界のものの、之を饗応して返そうとするのかといふことである。
小豆をめぐる民俗について柳田は日本周辺の諸民族ではどうなのかと(2)と次にあげる(7)(8)のように取り上げ、これを比較したいと望んでいた。この時代ではほとんど不明だったらしいし、現在でもあまり情報はないのかもしれない。『東アジアにみる食とこころ』に若干の記述がみられる。それによると、中国では北方漢族の場合として正月15日、新年が始まって最初の満月に、もち米の粉で作った餡入り団子を食べるという。これを「元宵」といい、「元宵」は砂糖をベースにゴマ・小豆・クルミやピーナッツなどを入れる甘い味が基本的であり、茹でて食べるものという((5))。
韓国ではうるち米で餅を作り、それを蒸器で蒸したものをシルトック(甑餅)という。うるち米の粉と小豆を交互に重ねて蒸したものが一般的であるとされる。小豆は悪鬼や雑鬼を追い払う意味があるという((6))。
また中国江南地方の年中行事を記した『荊楚歳時記』では小豆は疫病よけ、殊に疫神よけに用いられ、冬至には赤豆粥を作るとされている。同書は日本には10世紀までに伝来したといわれているので、小豆の呪術性もそれによりわが国に伝えられた可能性を指摘している((7))。
以上のように中国や韓国でも日本の民俗にみる小豆の使われ方や役割とよく似ている。共通している点は、餡にするかどうかはともかく、米といっしょに使われること、悪鬼・雑鬼を追い払ったり、疫病よけ疫神よけになったりというように、呪術性があるということである。新年が始まって最初の満月である正月15日に食べる、あるいは冬至に使うというふうに、用いる日が決っている場合もあるなども、日本の民俗との共通点である。ということは柳田の疑問(2)の答えとして、日本人独特のものではなく、そうした民俗的性質を保ったまま日本列島へ伝播した、しかも米といっしょに使われることから、おそらくは稲作文化の中の一要素として稲作とともに伝播したと考えられる。そうであるならば、小豆の民俗的性質についても『荊楚歳時記』の伝来した10世紀よりもはるかに早く、弥生時代に遡るだろう。小豆の伝来は弥生時代とみられている((8))。つまりは作物としての小豆と民俗としての小豆は日本列島にもたらされた当初からともにあったと考えられるのである。
次に「小豆を食べる日((9))」(昭和24年)から柳田の提示した疑問を(7)から(15)に示す。
(7)ビルマの国から可なり多量に入ると聴いて、珍しく感じた記憶がある。さういふ方面の小豆栽培も古いかどうか。又其用途なり是に伴なふ感覚なり約束なりに、日本とどの程度までの共通があるか。
(8)(小豆が)古代はどうあつたかを尋ぬべき機会でもあると思ふ。小豆を稗粟麦のやうに、又近世の都会の米の飯のやうに毎日食ひ、又は乾菜や芋大根と同じにカテ飯のカテとし、腹のたそくにして居た時代は、日本ばかりか他民族の中でも、曽て無かつたやうに私には推測せられる。
(9)小豆を常の日には食べないといふこと。
(10)正月15日を粥始めとも称し、この日以前には粥はこしらへぬといふ土地があるかと思ふと、一方には7日を七草の粥とする慣例も、可なり広い区域に認められて居る。それと同様に、小豆も15日より前には食べてはならぬといふ処が東北ばかりか関東の農村にもあるのに、他には又元日2日、7日や11日に、必ず小豆を食べることになって居る例も相応に多いのは、何か共通の理由からではないかと考へられる。
(11)小豆を餅に付けて元日から、食べることにして居る風習であった。
(12)雑煮といふ言葉はどう見ても正月らしくないが、是は或は新しい一つの食べ方が、始まつたことを意味するものかもしれない。
(13)この餅には身の上餅、めいめい餅といふ類の名があつて、最初から之を各人に分配するのを例として居た。
(14)小豆が其機会に限つて用ゐられたのは、簡単に理由を見出し難いだけに、何かまだ隠れて居る根拠があるものと見てよいのである。
(15)どうして此様に根強く、殊に改まつた式日に用ゐられるかは、やはり考へて見なければならぬのである。
(1)(4)(9)(10)(14)にみるように小豆の使い方には制限がある。式日以前には粥をこしらえてはならぬとか、決った日に必ず小豆を食べるなど、餅の制限と似ている。「餅なし正月」と共通した要素がみられるのである。
「7 小豆を食べる日のこと((10))」(昭和26年)からも1点。
(16)(小豆が)物忌と常の日との境目を明かにする為の食物だつたことが、証明し得られることを期してゐる。
そして「稲の産屋((11))」(昭和28年)から1点をあげる。
(17)始めはあの色相から、作物の中に加へられたかと考へられる。或は今一歩を進めて、米の飯や粥の色を花やかにして、食べる人の心を改まらしめる為に、用ゐられ始めたかとさへ想像せられる。延喜式の中などにも可なりの量、数多くの機会に用度として列記せられ、一々はまだ当つて見ぬが、目途はすべて式典の為であり、(以下略)
ここでは飯や粥の色を花やかにして人の心を改まらしめることから使われ出して、色の花やかさを式典の花やぎに利用するようになった、というのが柳田の小豆の解釈ということになる。小豆についての柳田の関心は次第に式日と常の日を分けるために小豆が使われているという点に集中してきている。以前よりも小豆に対する疑問、問題意識が鈍くなっているようにもみえる。
以上のように小豆の用い方は独特であり、常の日には食べず、使う日が限定されていたり、解禁日を設けるなど、利用のしかたには制限がある。まためでたい食物でありながら、一方で疱瘡神や人に憑く野狐を饗応して退散させるためなどにも用いられる。小豆はこうした特別の用途をもっていた。これらには(14)に見るごとく何か隠された根拠があったのではないかと柳田は想像している。その柳田の疑問は(16)(17)にみるように、晩年に至っては淡いものになったようであるが、「稲の産屋」「知りたいと思ふ事二三」は『海上の道』に収録されたように、柳田は最晩年まで不可解な小豆にこだわったのである。
餅と小豆の類似
このように小豆について柳田が抱いた疑問を抜き出していくと小豆が餅の扱いと似ていることに気づく。特に小豆の使い方に制限をもうけている点などは餅なし正月における餅と同じようである。
たとえば常の日には食べないで、なんらかの式日に用いる。元日に餅につけて食べる。米の飯に小豆で色をつけたり、粥にして米とともに用いられる。特に食べる日に制限をもうけている点では餅なし正月と同じである。つまり餅と同じ目的で小豆は使われているのではないか。そうであるならば、『散歩の手帖』27号「餅なし正月の意味と起源」で述べたように、餅がケガレの象徴であったり、ケガレをつけて運び去るための器であるように、小豆は運び去られるべきケガレの象徴ではないか。そこで次は民俗資料のなかに小豆がケガレを象徴していると解釈できる事例をさがしてみよう。
民俗にみる小豆のケガレ 事例1~6
『無形の民俗資料 記録 正月行事((12))』全4冊(以下『正月行事』と略記する)のなかには小豆についての民俗事象もみられる。そのなかから、小豆にかつてケガレの意味が込められていた痕跡をさがしてゆく。これらの資料で取り上げた民俗では、すでに小豆が負っていたと考えられるケガレの意味は直接的には現われていない。したがって、それぞれの事例に現われた習俗において、小豆の使われている様子が記述されているだけである。しかし、一歩踏み込んでなぜここに小豆なのか、なぜこういう使い方がされているのかと問うていくと、ケガレとしての小豆が浮かびあがってくるのである。
※ 1―165 1は『正月行事』全4冊の巻数、165はその中のページを示す。
事例1 大分県宇佐郡駅川町1-165
あん入りの餅は吹出物ができるといってつかない家も多いが、正月中にくる乞食にやるために少しはついておく。
なぜあん入り餅は吹出物ができるといわれるのか。そして正月には乞食が来るものだ、そして乞食に与えるのだということが、あん入り餅を作っておく前提になっている。乞食は『散歩の手帖』27号「餅なし正月の意味と起源」の中で「ホトホトの餅」「ケガレの除去と被差別民」で述べたように小正月の訪問者に相当しケガレを運び去る者である((13))。「あん入りの餅は吹出物ができる」という伝承によってあんには負の価値がそなわっていることが示され、それによって小豆がケガレを象徴している痕跡をとどめていると考えられる。さらにその餡入り餅はケガレを運び去る役目を負った小正月の訪問者である乞食に与えられる。
この報告ではつづいて餅の種類をあげている。鏡餅、小餅、切り餅。切り餅にはカキ餅、アラレがあり、ごま、青海苔、大豆、落花生などを入れる。その他にも、つきたての餅を小さくちぎって酢につけて食べる酢餅、つきたての餅の外側にあんをつけたオヘギなどがある。それら多くの餅のほかに冒頭のあん入り餅が作られるのである。ケガレを運び去る役割としての乞食に、ケガレを象徴するあん入りの餅を与えて運び去ってもらうことが目的だったと考えられる。ところでオヘギは、オハギ、ボタモチのオハギの語源であろう。春は牡丹でボタモチ、秋は萩の花でオハギという説は後の付会と考えられる。いずれ稿を改めて取り上げたい。
事例2 烏朔(からすづい)日(たち) 大分県東国東郡国東町1-122
旧12月1日をカラスヅイタチ(烏朔日)という。この日は烏の起きぬうちに、つまり烏の鳴かない未明に起きて、粘ばる食物を食べる。もち米をウルシ(粳)に混ぜて炊いためしや小豆飯を食べる。
この行事の元の意味はカラスが起きないうちに飯や小豆飯を供えることにあったと解釈できる。朝暗いうちに起きてそうするということは、もとはこの行事が烏勧請そのものか烏勧請を含むものだったと想像される。粘る食物を食べるようになったのはのちの変遷である。上につづく文面をみると、粘る食物を食べるということに興味が移っているのがわかる。というのは、この日はトシトコ様が唐の国に相撲をとりにいくので、ねばり腰で勝つようにとか、トシトコ様が出雲に村の者の縁結びに行く時の弁当で、良縁があるまでねばってもらうために、といった話がつづく。「カラスヅイタチ」の本来の意味はこの習俗のなかには、未明に起きることと小豆を使うことだけに残っている。「カラスヅイタチ」はカラスにケガレを運び去ってもらうことによって新年を迎えられるという烏勧請の意味だったはずで、小豆飯が運び去られるべきケガレを象徴している。「カラスヅイタチ」という行事の名称にも行事の主旨が痕跡として残っているといえる。
事例3 仏の口あけ 岡山県笠岡市2-125
念仏の口開き、鐘開き、仏開け、仏正月、仏の日などと称して、餅にあんこをまぶしたもの、黄粉餅、ぼた餅、団子、草餅、くぐ餅(くぐの葉をつけたかしわ餅の一種)などのいずれかをつくって供える。6個供えるものともいう。
ここに出てくる餅は白い餅ではなく、団子は不明だが、どれもみなあんこ、黄粉、草(ヨモギか)、くぐ(くぐの葉は筆者には不明)などをまぜた、あるいはつけたものである。それらは『散歩の手帖』27号の「赤色の儀礼食の分析」で述べたように、餡をつけたり混ぜ物を入れて搗いた餅はケガレを表現していると考えられる。
事例4 岡山県笠岡市陸地部2-95
旧正月の餅に限りアンビー(あん餅)をしない。アンビーをしたら大きなデモノ(腫物)がその家の主人、あるいは大事な人(長男とか嫁入り前の娘)にでるといって恐れてつくらない。
事例1の大分県宇佐郡と同じく、こちらもあん餅はデモノ腫物である。ここでもデモノ(腫物)ができるという表現にケガレの痕跡を残していると考えられる。旧正月の餅に限っているというのも、古い習俗をより強く残すといわれる旧正月だからであろう。餡はケガレの象徴とする痕跡がわずかに残ったとみられる。
事例5 岡山県赤磐郡赤坂町大屋2-157
(煤払いが済むと)煤掃き団子をつくった。これは米の粉の団子であんをつけたものである。これをオドクウ様、お稲荷さん、お金神様にお供えする。「オドクウ様に一番に供えんとほかの神様が受けとられない」という。
牛窓町千手でも煤掃き団子をつくるが、餡はつけずに味噌汁にして食べる。餡をつけるほうが古いと考えられる。オドクウ様にまず供えるというのもケガレ祓いの痕跡と理解できる。オドクウ様はケガレと関連が強く、ケガレを運び去るからである((14))。そのオドクウ様にケガレの象徴としての餡付きの米粉団子を供えることでケガレ祓いを託している。
事例6 岩手県雫石町西山4-11一杯おろしのだんご(12月20日)
家族一人一杯ずつの粉でだんごをこしらえてあずきを入れ、これを皆で夕飯のときにいただく。もしこれを夕飯のとき一度に食べかねた場合は、夜中の鶏鳴時より前に必ず食べ終わって厄払いする。
朝でもない、昼でもない、夕飯の時にいただくというのがこの行事の要であろう。それは日没から一日が始まるからである((15))。次の新たな太陽が出るまでにケガレとしての余った危険な太陽((16))を象徴する団子を始末する必要があるから、鶏鳴時より前に必ず食べ終わらねばならないとされるのである。だから食べ終わればケガレの太陽を象徴する小豆入りの団子が始末されて厄払いができる。ここには射日・招日神話を背景として最後に烏勧請の痕跡もとどめた、新年の迎え方の古い姿が残っている。
夏正月の新年
さらに、ボタモチと称する麦の粉の団子をカラスに与えて、夏正月の新年を迎えるという事例を紹介しよう。この中には小豆餡やボタモチが登場する。
『『日本民俗学』130号で小野重朗は「夏正月と大隅の民俗」と題して、周知の冬の正月に対して、旧暦6月末から7月初めに夏正月があるとの説を、大隅半島の民俗を例として展開している((17))。これは一年二年説として『図書((18))』に紹介されたブラムセンの仮説を裏付けする内容でもあり、注目されてよい。一年二年説については稿を改めて考える必要がある。
この行事を地元ではショガッドッ(正月ドッ)といっている。ドッというのはトキ(時)であり、節とか折り目といった言葉であるという。しかし、なぜ正月というのかという小野の質問に対して答えてくれた古老は1人も居なかったという。では小野による大隅半島の夏正月についての5つの事例を次に抜粋で紹介する。
① 肝属郡根占町横別府、大久保の正月ドッ 各戸では新しい麦の粉の団子に小豆餡を被せたもの(これをボタモチという)を作り、ムギワラのツトに入れて家の門口のあたりの木などに下げてトッの神に供え、家族で食べる。
② 根占町山本、尾上の正月ドッ 正月ドッをボタモチサゲとも言うのは家々でボタモチを作って、それをツトに入れて戸外に下げるからである。それは烏(からす)に供えるのだという。これを正月ドッというのは、いろいろ災厄のある年を送って早くいい新しい年にする意味があるから行なうのだという。
③ 根占町山本、丸峰の正月ドッ ショガッドッ、この日はの青年が、早朝に森山の上で大声で「正月ドッジャッドー」と呼ぶ。トキノカンサー(トキの神様)をよぶのだという。小麦粉で団子を作り、小豆餡を塗りつけたものを小麦ワラの縦のツトに2つ3つ入れたものを家々の、竹笹の垣などに掛けておくと、の子供たちが、それを無断でもらって回った。
④ 根占町川南、牛牧の正月ドッ どの家も、小麦で作ったダゴ(団子)をツトに入れて戸口のあたりにつり下げ、家人みなでたべる。この日が6月の終りの日になるようにする。
⑤ 根占町川北、浦の正月ドッ の田植えが全戸終ると「田植アガイノシバ」(田植上イノ柴)という一連の行事がはじまる。シバは柴日の意で柴を立てて祭りをする日の意であるらしい。一連の最後が正月ドッでボタモチサゲとも言い、ボタモチを作りツトに入れて木戸口に下げた。
柴祭りについては29号「反閇 音と足踏み」で取り上げる。以上がショガッドッである。上の5事例のなかで小豆餡やボタモチの行方を抜き出してみると、
① トッの神に供え、家族で食べる。
② カラスに供える。
③ 子供たちがもらって回る。
④ 戸口のあたりにつり下げ、家人で食べる。
⑤ 木戸口に下げる。
② カラスに供える。
③ 子供たちがもらって回る。
④ 戸口のあたりにつり下げ、家人で食べる。
⑤ 木戸口に下げる。
①以外はいずれもボタモチを戸外の木戸口や木に下げてカラスや子供たちにとらせるとするものである。これらの行為によって小豆餡のついたボタモチを運び去らせるのが目的となっている。ここでもやはり、小豆にはケガレとしての意味は忘失しているが、カラスや子供たちが小正月の訪問者として小豆餡のついたボタモチを運び去る役割を担っている。事例1から6に見たように、やはり小豆餡をつけたボタモチを運び去らせる。これもケガレの象徴としての小豆なのである。つまり27号「小正月の訪問者と餅のゆくえ」で家々から餅が運び去られたように、小豆餡やボタモチを運び去ることが夏正月と称して行なわれたのである。
文献ではわからない小豆のケガレ
ところで、なぜ小豆がケガレであることにこれまで気づかれずにきたのか。この疑問は餅についての疑問と同じものである。餅がケガレであることをなぜ歴史は記さずに経過してきたのか。それは最古の文献が記されるより以前にすでに餅や小豆がケガレを象徴するものであることがわすれられていたからである。しかし民俗の中には事例1~6に示したように、さらに全19事例その他で示すように様々な形で痕跡として残り、現代に伝えられているのである。『散歩の手帖』25、26、27号は餅がケガレであることを検証するために進められてきたともいえる。そして文献からではすでに捕らえられないものが、民俗のなかに潜んでいること、そしてかろうじて検証できるものであることを明らかにしてきた。小豆についてもやはり、民俗をさぐることによって小豆がケガレの象徴である痕跡がみつかるのは事例1~6で明らかであろう。それでは、文献ではすでに小豆がケガレの象徴であることは見出せないことも確認しておこう。
廣野卓の『食の万葉集 古代の食生活を科学する』によると小豆が文献に現われ始めた例を次のように紹介している((19))。
○ 『古事記』上巻には、死んだ大気都比売(おおげつひめ)の鼻にアズキが生える記述があるので、阿(あ)加安(かあ)豆(ず)木(き)(赤小豆)が古くから食用にされたことは理解でき、弥生時代には伝来していたといわれる。
○ 天平勝宝5年(753)には、正月15日の小豆粥を食する行事も勘奏(調べて奏上する)されている(『年中行事抄』)。
○ 『万葉集』にアズキを詠んだ歌はないが、巻11と12に、小豆奈九を「味気なく」と訓んでいる。
○ 奈良時代の史料に頻繁に登場する佐(さ)佐(さ)介(げ)(大角豆)も、弥生時代中期には伝来したといわれている。ササゲも用途のひろい豆で、それをものがたるように、蒸(むし)莢(さや)角(ささ)豆(げ)や生(なま)角(ささ)豆(げ)、青角豆と書かれた木簡が平城京跡から出土している。
○ アズキをもちいて飯を赤く染めることは、『荊楚歳時記』が奈良時代に伝来しているので、その記述から知られていたと考えられる。
○ 『荊楚歳時記』にも「冬至の日に、赤(あ)豆(ずき)粥(がゆ)をつくり、以て疫(えき)を禳(はら)う」とあるように、赤色が邪気をはらうという俗信によるものである。
○ 現在、正月15日(小正月)は「餅入り小豆粥」を炊くが、これは旧暦15日が望月(満月)であり、望月の望が餅に読みかえられたことによる。もちろん、小豆粥を祝う風習も古来からつたえられており、『延喜式』にも、小豆粥の配合が示されている。
以上のように小豆についての記載はあるが、ケガレの象徴と思われる例やケガレに結びつきそうなあつかい、用途などは奈良時代にはすでにない。ただ『荊楚歳時記』に小豆粥で疫を祓うとしているのは8ページでも述べたように小豆の呪術性としてケガレ祓いの行為が痕跡として残ったかと思える。餅と小豆をいっしょに炊くことが「望月の望が餅に読みかえられた」などというシャレで始まったことではないのである。
一方、これも推察ではあるが、混ぜ飯らしいものが『日本書紀』の持統元年にみられるとして廣野は「八月(はつき)の壬(みずのえ)辰(たつ)の朔(ついたち)丙(ひのえ)申(さる)に、殯(もがり)宮(のみや)に嘗(なおらいたてまつ)る。此を御青(あおきお)飯(もの)と曰(い)ふ」というのを紹介している。そして「日本古典文学大系」『日本書紀』の頭注に「一説に青飯を菜飯とする」との記述があることを指摘している((20))。
廣野は「新嘗において祖霊に青飯を供える慣例の検討はべつにして」と述べて、これ以上追究していないが、新嘗とは新年を迎えることと同義であるから、そのおり、青飯である混ぜ飯を供えるということは、ケガレの象徴としての御青(おあきお)飯(もの)を祓えやって新年を迎えるということにならないか。混ぜ飯などについては事例10~19でも扱うように、これもまたケガレの象徴である。
このように小豆、あるいは青飯をケガレの象徴という立場から見ていけば、その痕跡なしとはしないが、これ以上の追究は無理であろう。後の時代には、『土佐日記』『枕草子』にも小正月の小豆粥がみられるが、すでに祝いの食物として認識されている。
『土佐日記』(934~935年)をみると「1月15日。今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、今日二十日あまり経ぬる。」との記述がある。口語訳では「15日。きょう、おきまりのあずきがゆを煮ない。残念でならないが、残念といえば、やはり天候が悪いので、ぐずぐずしているうちに、きょうで20日あまりたってしまった ((21))」。
船旅の途上で天候悪く日和待ちである。何事もままならず、ささやかな年中行事も満足にできないことを嘆いている。
『枕草子』では「15日。節供まゐり据ゑ、粥木ひき隠して、家の御たち・女房などの、うかがふを、「打たれじ」と用意して、常にうしろを心づかひしたるけしきも、いとをかしきに、」と小正月の行事が記されており、傍注、頭注によると、15日の小正月には小豆粥を供する。その粥を煮るのに用いた焚き木が「粥の木」つまり「粥杖」で、これで女性の臀を打つと、男児を懐妊するという俗信があったとされる。この粥の木をかくし持って娘や女房たちのすきをねらうので、打たれてなるかと用心して背後を常に気にしている様子がおもしろいといっている((22))。こうした習俗は民俗のなかにもみられ『日本民俗大辞典』では「ハラメウチ」「よめたたき 嫁叩き」などとして項目を立てて解説している。以上のように小豆がケガレの象徴であることは文献からたどることはできない。
ここまで、民俗事例の中から餡や小豆飯にケガレの痕跡をみてきた。つぎに赤飯に現われているケガレの痕跡をみてみよう。
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