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ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

因幡の兎は白いのか 前編

2008年07月13日 09時18分19秒 | いろんな疑問について考える
因幡の兎は白いのか

 早朝散歩をする平井川に、一箇所だけガマの生育地がみつかった。平井川は多摩川の支流で、よく歩く範囲は合流点から遡って草花公園までの3kmであるが、平井川沿いではいまのところこの一か所にしか見つかってない。
 ガマといえば思い出すのは因幡の白兎の話。♪蒲の穂綿にくるまれば、うさぎはもとのしろうさぎ♪ 歌の出だしを思い出せないので『日本唱歌集』(堀内敬三・井上武士編 岩波文庫 1999年)をひらいてみると、曲の題名は「大こくさま」、作詞は石原和三郎となっている。その3番は、
だいこくさま の、いう とおり、
 きれいな みずに、み を あらい、
がま の ほわた に、くるまれば、
 うさぎ は もと の、しろうさぎ。
という歌詞である。
 ところが岩波の日本古典文学大系『古事記』の因幡の白兎のところを見るとすこしちがっていた。「因幡の白兎」は「稲羽の素兎」で、しかも見出しと頭注の「兎」の字には上にノがつかない。変換できる漢字がない。本文の「うさぎ」の字は「菟」の字を使っている。正確にはこれもいくらか違うのだが。
それはともかくとして、唱歌では「蒲の穂綿にくるまれば」とあるが、もともとは蒲の花となっている。しかも、正確には雄花の黄色い花粉なのだという。それは蒲黄(ほおう)といって、昔から漢方でキズを治す薬だという。大国主命は医学的知識をもっていて、それも国を治めるものとしてふさわしい、ということを『古事記』のこの部分は物語っているのだという。おかげで兎は傷が癒えてもとの「素兎」(シロウサギ)になった。
 作詞者の石原和三郎が蒲黄ではなく蒲の穂といったのは、唱歌という性格上、わかりやすさを優先したのだろうか。それとも石原自身、ほぐれて綿状になる蒲の穂と思っていたのかもしれない。筆者もじつはそう思っていた。勘違いしている人も多いのではないか。じっさい蒲といってまず思い浮かぶのはあのチョコレート色をしたソーセージ形の穂だろう。あれが秋になると、ほぐれて白い綿のようになる。
 そこで絵本やインターネットでざっとみたら、因幡の白兎の話では、蒲の穂になっている絵や文章も多いが、ちゃんと蒲の花といっているものもあった。あんがい正確な絵本もあるのだった。
 それもまあいいとして、なぜ白兎なんだろう。ノウサギが白くなるのは冬のはずだ。ガマの花が咲くのは初夏。だからこの時期、兎はすでに夏毛になっているはず。だいいち冬でも、山陰あたりの平野部ではずっと雪におおわれているわけではないだろうから、白くなってしまっては、身を隠す都合上、兎も困るのではないか。
 これについてもいくつか絵本をみてみると、たいていは白兎が描かれており、なかには赤い目をした飼い兎がえがかれているのもある。飼い兎は西洋から入って、明治以後に普及した種類でアルビノつまり突然変異によってできた、色素のない、それで目も赤い兎なのだから、これはおかしい。なかには茶色い夏毛のノウサギが描かれている絵本もあって、正確といえば正確だ。そもそも、山陰地方のノウサギは冬に白い毛になるのだろうか。
 では、ノウサギの生態はどうなっているのだろう。『百分の一科事典 ウサギ』(スタジオ・ニッポニカ編 小学館文庫 1999年)によると、「ニホンノウサギ(ノウサギ)日本のノウサギの野生種。佐渡島、隠岐諸島、本州、四国、九州に分布する。本州の中部以北のものをエチゴウサギ(トウホクノウサギ)、南のものをキュウシュウノウサギとも呼ぶ」としている。白い冬毛になるのがエチゴウサギである。
『全集日本動物誌』第3巻に所収の「日本の哺乳動物」(朝日稔 講談社 1982年)の「ノウサギ」の項によると、冬に白化するかどうかは地理的よりも気候的な差で、「兵庫県、京都府で集めた資料では、和田山―福知山―綾部より北では白化し、南では白化しないが、中間には斑もあるようで、一線を引くわけには行かない。今泉吉典氏はこの境界は2月の平均気温が2度から4度のところとしているが、後に詳しい研究が大津正英氏の手で行われた」と述べ、その大津正英氏の研究を引用しているところによると、温度よりも日照時間だという。「大津氏は照明時間をいろいろにかえた巣箱でノウサギを飼育し、昼の長さが12時間以上あれば白化せず、逆に11時間以下では褐化しないことをつきとめた。つまり、眼から入る光が体内のホルモン機構に作用し、色素形成の酵素作用をコントロールしているとわかった」という。それでも「野生のままでは同じ日照時間でも、寒い地方にいるノウサギは白化し、暖い地方では白化しない。やはり気温にも関係があることを示している」と結論している。
 雪のあるなしについては言及がない。たとえば、日照時間が11時間以下になった寒い地方で、たまたま雪の少ない年にはむやみに毛が白くなってはこまるだろうに。
 さて、「因幡の素兎」はほんとうに白いのか。ことは神話だからなんでもあり、大真面目に考えても仕方がないと思いつつ、実は気になる記述があったので、さらに考えてみることにした。
 気になるというのは、岩波の古典文学大系本の『古事記』の頭注に本居宣長の『古事記伝』から引用して、「此菟の白なりしことは、上文に言わずして、此処にしも俄に素菟と云るは、いささか心得ぬ書きざまなり。故思に、素はもしくは裸の義には非じか。若然もあらば、志呂とは訓まじく、異訓ありなむ。人猶考へてよ。」と、「シロウサギ」と読むことに疑問を呈している。本文の読みでは一応「素菟」を「シロウサギ」とルビをふっている。
 ということは、宣長より以前には『古事記』の訓詁は部分的にしかされていないらしいが、「因幡の素兎」の部分では「素菟」はシロウサギと読んでいたわけか。
 ほかに「素菟」と書いて「シロウサギ」と読む『古事記』の注釈書や訳文はそうとう多いだろうが、つぎのものだけ挙げておく。
新潮日本古典集成本『古事記』をみると、「『古事記』では「しろ」は「白」の字を用いているが、ここのみ、「素」(しろ)の字である。それは「白兎」と書くと月の異名となるので、動物であることを示すために「素菟」と書いたもの。求婚や神事には白い動物を用いた」と説明している。
小学館の日本古典文学全集本では、「『古事記伝』は毛のない裸の兎と解したが、「素」は「素烟」「素石」などのように白色の意もあるので、やはり白兎と解するか」と白兎説を押している。「素」の意味については後でさらに考えることにするが、必ずしも色の白色とおなじ意味での「白」ではないと筆者は考えている。
 『口語訳古事記 神代篇』(三浦佑之訳・注釈 文春文庫 2006年)では「そこで教えのとおりにしたところがの、ウサギの体は元のとおりに白い毛におおわれたのじゃった」として、原文では言ってない「白い毛」という言葉をくわえている。その前、ワニに皮をはがされた箇所でも、「白い皮を裂き剥いでしまった」と、やはり原文にない「白い皮」をおぎなっている。でも、「素」を白い毛であるとする理由は述べていない。
 『古事記注釈』第3巻(西郷信綱 ちくま学芸文庫 2005年)では、岩波の大系本と同じく、さきに紹介した本居宣長の疑問を引用しているが、そのうえで「これはやはりシロウサギと訓む他あるまい。漢字「素」に裸の義は存しない」と断定している。しかし、「素」は素肌、素顔、素裸の「素」なのだから、裸の義そのものではないか。どうして断定してしまうのだろう。辞書にも「(名詞に付いて)①何も加えずありのままの。「¬¬¬―はだ」」(岩波国語辞典第二版)と説明している。
 『ビギナーズ・クラシックス古事記』(武田友宏・角川書店編 角川ソフィア文庫 2006年)では「白兎」としており、兎が白いことについては言及がない。この文庫本のカバーは古代にはいなかったはずの、白い毛に赤い目をした飼い兎が描かれている。
岩波の日本思想大系本では少し長く詳しく、次のように言っている。
『記伝』(『古事記伝』)は「素はもしくは裸の義には非じか」としたが、素には白色の意がある(例、素衣¬¬=白衣、素羽=白羽)ので白い兎と解してよい。「素」は名義抄にシロシの訓がある。なお「素烏」(白いカラス。文選、両都賦)、「素鶴」(白いツル。王勃詩)、「素狐」「素魚」などのシロは、烏・狐など通常の色と異なるものであり、素魚には祥瑞がある。素兎も同じような語構成で、神の使などの瑞獣の意を表わすか。記(『古事記』)の用字法ではシロは「白」で表わされるが、同じシロでも右のような特別な意味を持つために「素」の字を用いたのであろう。
 いくつか見てきたなかでも思想大系本では、複数の例を示して「シロウサギ」と読んでおかしくない証拠であるとしている。ここまで白の根拠付けをしているのだから、やっぱり白でいいのかな、と思ってしまうところだ。白兎に疑問を抱く立場としては分が悪い。しかし、「素」には「名義抄にシロシの訓がある」というが、名義抄、つまり『類聚名義抄』は平安末期の成立というから、その読みを奈良時代初期までさかのぼって当てはめていいかどうか。それに祥瑞についても、中国の思想をうけているから瑞獣は白いとしていいのだろうか。
 さらに、民俗のほうでも、白兎説を説くものがある。『日本史のなかの動物事典』(千葉徳爾他 東京堂出版 1992年)によると、「因幡の素兎」の伝承は、毛色が白いことが重要で、そこに古代人は神秘性を感じ、祥瑞を示すものと考えたのであるとする。そしてさらに
現代でも山陰地方の山間部には、白い兎を山の神の姿もしくはその使者として尊敬する風があり、これを捕えたり殺したりすることを忌む風が残っている。また、その姿を見た者には不吉な事が起こるとして、山の神の祭りの日に山に入ると白兎を見る。もし、それを見ればその人は命を失うとして、山の神の祭日に山に行くことを戒める土地もある。山の神の祭の日に山仕事に行くことを慎むのは全国的に知られた民俗であるが、その日に白兎を見るのがよくないという民間信仰が山陰地方に顕著であるという点は、この地域で野兎の毛色が季節的に変化し、しかもそれが年ごとに必ずしも一定せず、多雪の年と寡雪の年の変動が大きいこの地方として、兎の毛色の変化が冬季は必ず起きると限らない地域であることと無関係ではないように思われる。
と述べている。
たしかに民俗報告のなかにもそれは探し出すことができた。
島根県頓原町の例だが、『志津見の民俗 本文編・資料編』(島根県教育委員会 1990年)の「年中行事」の「山の神の日」の項に、「この日に入山することは禁じられていた。(略)山の神はシロウサギに乗っていると考えられており、この日にはシロウサギを捕ることはもちろん、見ることさえ忌まれていた」との民俗を報告している。
 それに対して、白い兎に疑問を呈している本は少ないが、宣長の『古事記伝』のほかにもあった。「素兎とは裸のウサギの意か、白ウサギの意か、意見が分かれている」とするのは『百分の一科事典 ウサギ』。それと、「「稲羽(因幡)の素兎」は、白い毛の兎ではなく、素裸にされた兎の意であることに、注意してほしい」とは『古事記のことば この国を知る134の神語り』(井上辰雄 遊子館 2007年)である。岩波文庫本の『古事記』も裸の兎として、白兎説もあり、としている。
 しかも、新潮日本古典集成本でも頭注で紹介しているように、兎や他の小動物がワニをだます話は東南アジアにその起源があるというのが、定説になっている。もちろんその地では兎は白くなかったわけだ。ワニももとは実際の爬虫類のワニだった。それが日本列島に話が伝わってきて、そこにはワニがいないので、代わりにサメをワニと呼んだということになっている。
 『古事記』以外にも別の白兎の話が『塵袋』にあると、古典大系本の頭注に紹介している。吉野裕訳『風土記』(平凡社ライブラリー、東洋文庫とも同じ)によると、「風土記逸文」に「白兎(因幡の白兎)」と題して『塵袋』から引用した話が載っている。そのなかでは、「因幡記をみれば」として、兎とワニの話がある。話のはじまりは違うのだが、ワニをだますところからは同じで、これも本文中では白兎とは言っていない。そうすると小見出しの「白兎(因幡の白兎)」というのはいつからついたのか。それを確認する必要があるので、つぎに『塵袋』をひらいた。
『塵袋』は鎌倉時代中期の作といわれる。『塵袋』の影印本である日本古典全集本をみると、小見出しは何もなく、目次ではただワニの数を数えるという意味で「読数」とうたっている。そして、やはり兎が白かったとの記載はない。だから「白兎(因幡の白兎)」という題は吉野裕氏が『風土記』をまとめたさいに、これは因幡の白兎の話だからと、そうつけたものである。
「因幡記」というのは現存していない。吉野裕訳『風土記』の解説によると、「現在風土記が残っているのはわずか五国分である。しかし鎌倉時代ごろまではかなり多くのものが残存していたらしいことは、平安末から鎌倉末にかけて輩出した古典注釈家や歌論家・神道家の著書に「何某風土記に曰く」として引用されていることから察することができる」としている。「因幡記」もそのひとつと考えられるわけだ。そうすると、『古事記』とほぼおなじ時代に因幡の『風土記』があって、そこにも「因幡の素兎」系統の話が伝えられていて、でも、やはり白い兎とは言ってなかった、ということになる。

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