ロシア軍によるウクライナ侵攻が開始されて4日、
現地の緊張と混乱が時々刻々と伝えられています。
西暦も2020年代に入った今、
このような軍事行動が為されるとは思いもしませんでした。
『世界平和』
確かに、このスローガンは理想に過ぎません。
それも “ 大きな ” 理想であり、 “ 大きな ” 理想は、
その “ 大きさ ” ゆえに実現されることはない・・・、
というぐらいのことは、今どき子供でも知るところ。
そもそも人類の歴史は哀しい哉、戦争・紛争の歴史であります。
“ ヒト ” ゲノムは「戦い」に関わる情報の占有率が高いとされ、
食欲・性欲・睡眠欲という三大本能に並ぶのは「闘争本能」。
しかし、それゆえにこそ、
“ ヒト ” は戦う度に血を流し、その都度その都度、
「あぁ、武力で戦っても犠牲者が増えるだけだな」と気付き、
“ ヒト ” は争う度に涙を流し、その都度その都度、
「あぁ、暴力で争っても大切なものを失うだけだな」と学び、
そうやって少しずつ少しずつ “ 人 ” になってきたはず。
それでも私たちの本質は動物種としての “ ヒト ” でありますので、
まずは、この “ ヒト ” の欲求に引きずられない間だけ、
辛うじて “ 人 ” として存在し得るのだということを知り、
時として自身の中で暴れ出す “ ヒト ” と折り合いを付け、
“ ヒト ” と “ 人 ” とを、個の中で協調させてゆく、或いは、
一段高いところで響き合わせてゆく、というのが、
言わば「文化の歴史」ではなかったか?・・・と思います。
国家の宰相、集団の領袖、組織の長たる人物が、
“ 人 ” であることを辞めて、 “ ヒト ” のままに振る舞うと、
取り返しのつかない惨禍が引き起こされることは、
歴史を振り返るまでもありません。
中国、春秋・戦国時代(紀元前770~紀元前221)の頃に生き、

『道』を説いたとされる伝説上の人物〈老子〉は言います。
『大国は下流なり。
夫れ両者各々其の欲する所を得んとせば、
大なる者、宜しく下るを為すべし。』(老子・第61章より)
「大国とは本来、流れの下方に位置するものである。
大国と小国が、それぞれ自国の望みを叶えようとする際は、
大国側がへりくだり、譲歩すべきである。」(早川意訳)
非戦の思想を根底に持つ老子は、
大きな武力を有する側、大きな権力を持つ者こそが、
常に他者に対して「へりくだるべし」とします。
なぜなら、それが『道』に適い『道』に順うことであるから。
尤も、老子の説く『道』は、儒教に説かれる「道」や、
「人道」と言う時の「道」とは次元の異なるものですが、
それはそれとして、如何なる『道』に照らしてみても、
大国による小国への侵攻は、時代錯誤も甚だしい、
卑劣な弱い者いじめでしかありません。
想えば、事は世界情勢や国家問題に限ったものではなく、
ごく身近なところにおいても、
“ 組織の長 ” とされる方々は、おしなべて下劣。
その理由は、心理学以上に生理学・生体機能学および脳科学が、
既に明らかにしているところであり、つまるところ、
“ 組織の長 ” の下劣化は、科学的に仕方の無いこと。
それゆえにこそ “ 組織の長 ” は、
定期的に交替され刷新される必要があるという事は、
論を俟ちません。
「大国は下流なり。
夫れ両者各々其の欲する所を得んとせば、

大なる者、宜しく下るを為すべし。」(老子・第61章より)





現地の緊張と混乱が時々刻々と伝えられています。
西暦も2020年代に入った今、
このような軍事行動が為されるとは思いもしませんでした。
『世界平和』
確かに、このスローガンは理想に過ぎません。
それも “ 大きな ” 理想であり、 “ 大きな ” 理想は、
その “ 大きさ ” ゆえに実現されることはない・・・、
というぐらいのことは、今どき子供でも知るところ。
そもそも人類の歴史は哀しい哉、戦争・紛争の歴史であります。
“ ヒト ” ゲノムは「戦い」に関わる情報の占有率が高いとされ、
食欲・性欲・睡眠欲という三大本能に並ぶのは「闘争本能」。
しかし、それゆえにこそ、
“ ヒト ” は戦う度に血を流し、その都度その都度、
「あぁ、武力で戦っても犠牲者が増えるだけだな」と気付き、
“ ヒト ” は争う度に涙を流し、その都度その都度、
「あぁ、暴力で争っても大切なものを失うだけだな」と学び、
そうやって少しずつ少しずつ “ 人 ” になってきたはず。
それでも私たちの本質は動物種としての “ ヒト ” でありますので、
まずは、この “ ヒト ” の欲求に引きずられない間だけ、
辛うじて “ 人 ” として存在し得るのだということを知り、
時として自身の中で暴れ出す “ ヒト ” と折り合いを付け、
“ ヒト ” と “ 人 ” とを、個の中で協調させてゆく、或いは、
一段高いところで響き合わせてゆく、というのが、
言わば「文化の歴史」ではなかったか?・・・と思います。
国家の宰相、集団の領袖、組織の長たる人物が、
“ 人 ” であることを辞めて、 “ ヒト ” のままに振る舞うと、
取り返しのつかない惨禍が引き起こされることは、
歴史を振り返るまでもありません。
中国、春秋・戦国時代(紀元前770~紀元前221)の頃に生き、

『道』を説いたとされる伝説上の人物〈老子〉は言います。
『大国は下流なり。
夫れ両者各々其の欲する所を得んとせば、
大なる者、宜しく下るを為すべし。』(老子・第61章より)
「大国とは本来、流れの下方に位置するものである。
大国と小国が、それぞれ自国の望みを叶えようとする際は、
大国側がへりくだり、譲歩すべきである。」(早川意訳)
非戦の思想を根底に持つ老子は、
大きな武力を有する側、大きな権力を持つ者こそが、
常に他者に対して「へりくだるべし」とします。
なぜなら、それが『道』に適い『道』に順うことであるから。
尤も、老子の説く『道』は、儒教に説かれる「道」や、
「人道」と言う時の「道」とは次元の異なるものですが、
それはそれとして、如何なる『道』に照らしてみても、
大国による小国への侵攻は、時代錯誤も甚だしい、
卑劣な弱い者いじめでしかありません。
想えば、事は世界情勢や国家問題に限ったものではなく、
ごく身近なところにおいても、
“ 組織の長 ” とされる方々は、おしなべて下劣。
その理由は、心理学以上に生理学・生体機能学および脳科学が、
既に明らかにしているところであり、つまるところ、
“ 組織の長 ” の下劣化は、科学的に仕方の無いこと。
それゆえにこそ “ 組織の長 ” は、
定期的に交替され刷新される必要があるという事は、
論を俟ちません。
「大国は下流なり。
夫れ両者各々其の欲する所を得んとせば、

大なる者、宜しく下るを為すべし。」(老子・第61章より)




