goo blog サービス終了のお知らせ 

 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

聴(まか)せる ・ 聴(ゆる)す

2022-02-13 13:37:10 | 雑感
コロナ禍が収まりを見せない中、

「ワクチン接種を受けても、喫煙と飲酒は抗体量を低下させる」
(東北大学・東北メディカル・メガバンク機構)

との報道がありました。
早川は、そもそも喫煙は致しませんが、

週末の一杯を、ささやかな楽しみとする身には、
まことに耳が痛くなる研究報告であります。

               

さて本年(令和4年)は寅年。
この「寅」という漢字から思い起こされるのが、
胡寅(こいん・1098~1156)なる人物であります。
南宋時代初期を生きた儒学者であり、その歴史観を記した著作、
「読史管見(とくしかんけん)」が今に伝わっており、
胡寅はその「読史管見」の中で、
東晋王朝(4世紀)に仕えた将軍・謝安の事績を振り返っています。
その事績とは、謝安将軍が異民族との戦いに於いて、
考えられる限りの戦略、用いられる限りの戦法を駆使し、
その結果、東晋王朝軍を勝利へ導いたと謂われるもの。
胡寅は、この故事から得られる教訓を、こう謳います。

『人事を尽くして、天命に聴(まか)す。』

現在「人事を尽くして、天命を待つ」と伝わる故事成語の原文が、
上記「読史管見」中の一節なのだそうで、
原典では「待つ」ではなく「聴(まか)す」となっています。

確かに「聴」の一字には、
「任せる・委ねる」という意味が在ると同時に、
特に仏教の経典に於いては「聴す」と書いて、

『聴(ゆる)す』

と出てまいります。例えば唐の時代に編纂された、
「如意輪陀羅尼神呪(にょいりんだらにじんじゅ)経」では、
冒頭、観世音菩薩が人々の願いを叶えようと立ち上がり、
まずは如来に向かって、
「私は人々を救う “ 如意輪陀羅尼 ” の法を説きたいのです」
と願い出て、それを聞いた如来が、

『汝を聴(ゆる)す。障礙なく説くべし。』
(聴(ゆる)しましょうとも、さぁ存分にお説きなさい)

と答え、菩薩に説法を促すシーンがあります。
いわゆる「聴許(ちょうきょ・ちょうこ)」と呼ばれるもの。

想えば、相手の願いなり要望なりを受け入れることを、
「聴き入れる」とは言いこそすれ、
決して「見入れる」とか「嗅ぎ入れる」などとは言いません。
或いは人物を推し量るに当たり、その器の大小を評して、
「聴く耳」を持つ人、持たない人などと喩えるように、
「聴く」という行為の根底は「許す」ことに通じていて、
「聴く耳」というのは、たとえ相手の全てでは無いにしても、
その一部分なりともを許容する心のことなのかも知れません。

余談ながら、
聖徳太子(574~622)には多くの別名・異名が伝わっていて、
それらの中に「豊聡耳(とよとみみ)」という名前があります。
この名前の由来については諸説あるものの、
「人々の意見を聴くことの出来る人物」という辺りは共通のようで、
やはり「聴」と「許」は、通底するものと思われます。

               

ところで、
先の「読史管見」には、天命は「待つ」ものではなく、
「聴(まか)」せるものと記されていました。

果たして “ 天命 ” とは、
それを「待つ」ものなのでしょうか?・・・それとも、
それに「聴(まか)」せるものなのでしょうか?

もしも、
人事を尽くした後に「待つ」ものだとすると、
それは “ 天 ” による結果発表を「待つ」ということであり、
「待つ」という時間的な隔たりに加えて、
“ 人事 ” を尽くす側の、下位に在る “ 人 ” と、
“ 天命 ” を下す側の 、上位に在る “ 天 ” との間には、
越えがたい地位的な隔たりが既定されることになります。

また何かを頑張った結果としてもたらされるのが、
“ 天命 ” であるいう風に捉えますと、その結果が、
人事を尽くした人間 にとって好都合なものであった場合、
“ 天命 ” というものが、どこか “ ご褒美 ” や “ 報酬 ” といった 、
俗臭を放つものに堕するような気がしないでもありません。
しかし “ 天命 ” とは、そのようなものではなく、
本来的に人智を超え壮大にして響きの高いものであるはず。

引き換えて、
人事を尽くして「聴(まか)」せるのであれば、
“ 天 ” なる存在に、文字通り全てを「任せる」だけで良く、
その結果に一喜一憂する必要性そのものが無くなり、
人事を尽くすこと、それ自体が “ 天命 ” であり、
人事を尽くしている一瞬一瞬が、既に “ 天命 ” であると、
そのような境地が開かれる可能性を感じます。
つまるところ、
“ 人事 ” を尽くす側の “ 人 ” と、
“ 天命 ” を下す側の “ 天 ” とは、二つにして一つ。

と、この辺りに想いを馳せつつ、原典に記された、

『天命に聴(まか)す』

という一節に心の耳を傾けておりますと、
“ 天命 ” というのは、もしかしたら、
“ 人 ” それぞれ各個々人の内側から聴こえてくる、
《魂の声》のことなのではないか?
いや、もう少し踏み込んで申し上げるならば、
人事を尽くそうが尽くそまいが、
“ 人 ” として生き、“ 人 ” として存在していることが、
紛れもない “ 天命 ” なのではないか?

仮にそうだとすると、先に “ 天命 ” とは、
「人智を超え壮大にして響きの高いものであるはず」
と書きましたが、そのように人智を超えた壮大なものが、
実は個々人の内界に宿っていると、
そのようにも思われてくるのであります。

               

胡寅先生の語った「聴(まか)せる」という言葉に誘われて、
つい浅慮を巡らせてしまいましたが、

「聴(まか)せる、任せる、委ねる、聴(ゆる)す、許す」

これらは正直申し上げて、
言うほど簡単に出来るものではありません。
少なくとも早川にとっては「そう在りたいなぁ」という課題。

只、浅慮ついでに、
聴覚を頼みとし〈音の細道〉を歩む身にとりましては、
聴くことは任せること、聴くことは許すこと・・・という、
この「聴(まか)せる・聴(ゆる)す」の一燈は、

自己の内界に灯し続けたい、導きの一燈と心得るものであります。

皆様、良き日々でありますように!


               









最新の画像もっと見る