「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」と、
「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」。
単純に分けられるものではありませんが、
いま仮に、上記二つのタイプに分類してみた上で、
どちらが「良いか悪いか」を問うた時、
一般的には当然のことながら、
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」の方が、
良い存在であり、好ましい存在であろうかと思います。
では、どちらが「自然か不自然か」を考えてみた時、

皆様は、どのように判断なされますでしょうか。
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」というのは、
幼児期から “ 後天的かつ人為的な矯正 ” や “ 習慣付け ” 、
それらを「躾(しつけ)」と呼んでも良いかと思いますが、
そうした或る種の文化的な強制力が加えられ続け、
又お子さん本人も、様々な「躾」を受け入れ続けてきた結果、
「親や先生の言うことを、よく聞く」性質に育った・・・と、
そういう過程なり経緯なり側面なりがあるように思われます。
仮にそうだとしますと、
「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」というのは、
そうした「躾」を受け付けにくい性質であり、
見方を変えれば、「躾」という、
外から加えられる力に対する抵抗力・反発力の持ち主、
という風に言えるかも知れません。



「こうしなければならない」という人間社会の規則と、
「こうありたい」と活動する生命本来のエネルギー。
あるいは又、
「こういう場面では、こう在るべき」といった、
集団生活・社会生活を送る上での様々なルールと、
「ただ伸びたい方向へ伸びよう」とする自然生命の奔流。
人間生命という “ 場 ” の中で繰り広げられる、
“ Culture ” vs “ Nature ”
拮抗する二つのチカラに想いを馳せつつ、
今ひとたび “ 自然か不自然か ” を問うてみますと、
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」というのは、
好ましくはあれど、実は “ 不自然 ” で、
「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」というのは、
悩ましくはあれど、むしろ “ 自然 ” なのではないか?
浅薄な感想に過ぎませんが、
学び舎の現場、その片隅に息を潜めつつ、
若い命たちの「心体」と「身体」、
その “ 動き・流れ・巡り・運び ” を眺めておりますと、
ふと、そのように感じる時があります。

皆様、良き日々でありますように!






「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」。
単純に分けられるものではありませんが、
いま仮に、上記二つのタイプに分類してみた上で、
どちらが「良いか悪いか」を問うた時、
一般的には当然のことながら、
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」の方が、
良い存在であり、好ましい存在であろうかと思います。
では、どちらが「自然か不自然か」を考えてみた時、

皆様は、どのように判断なされますでしょうか。
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」というのは、
幼児期から “ 後天的かつ人為的な矯正 ” や “ 習慣付け ” 、
それらを「躾(しつけ)」と呼んでも良いかと思いますが、
そうした或る種の文化的な強制力が加えられ続け、
又お子さん本人も、様々な「躾」を受け入れ続けてきた結果、
「親や先生の言うことを、よく聞く」性質に育った・・・と、
そういう過程なり経緯なり側面なりがあるように思われます。
仮にそうだとしますと、
「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」というのは、
そうした「躾」を受け付けにくい性質であり、
見方を変えれば、「躾」という、
外から加えられる力に対する抵抗力・反発力の持ち主、
という風に言えるかも知れません。



「こうしなければならない」という人間社会の規則と、
「こうありたい」と活動する生命本来のエネルギー。
あるいは又、
「こういう場面では、こう在るべき」といった、
集団生活・社会生活を送る上での様々なルールと、
「ただ伸びたい方向へ伸びよう」とする自然生命の奔流。
人間生命という “ 場 ” の中で繰り広げられる、
“ Culture ” vs “ Nature ”
拮抗する二つのチカラに想いを馳せつつ、
今ひとたび “ 自然か不自然か ” を問うてみますと、
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」というのは、
好ましくはあれど、実は “ 不自然 ” で、
「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」というのは、
悩ましくはあれど、むしろ “ 自然 ” なのではないか?
浅薄な感想に過ぎませんが、
学び舎の現場、その片隅に息を潜めつつ、
若い命たちの「心体」と「身体」、
その “ 動き・流れ・巡り・運び ” を眺めておりますと、
ふと、そのように感じる時があります。

皆様、良き日々でありますように!





