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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

自然か 不自然か・・?

2023-06-11 13:49:34 | 雑感
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」と、
「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」。

単純に分けられるものではありませんが、
いま仮に、上記二つのタイプに分類してみた上で、
どちらが「良いか悪いか」を問うた時、
一般的には当然のことながら、
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」の方が、
良い存在であり、好ましい存在であろうかと思います。

では、どちらが「自然か不自然か」を考えてみた時、

皆様は、どのように判断なされますでしょうか。

「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」というのは、
幼児期から “ 後天的かつ人為的な矯正 ” や “ 習慣付け ” 、
それらを「躾(しつけ)」と呼んでも良いかと思いますが、
そうした或る種の文化的な強制力が加えられ続け、
又お子さん本人も、様々な「躾」を受け入れ続けてきた結果、
「親や先生の言うことを、よく聞く」性質に育った・・・と、
そういう過程なり経緯なり側面なりがあるように思われます。
仮にそうだとしますと、
「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」というのは、
そうした「躾」を受け付けにくい性質であり、
見方を変えれば、「躾」という、
外から加えられる力に対する抵抗力・反発力の持ち主、
という風に言えるかも知れません。

                 

「こうしなければならない」という人間社会の規則と、
「こうありたい」と活動する生命本来のエネルギー。
あるいは又、
「こういう場面では、こう在るべき」といった、
集団生活・社会生活を送る上での様々なルールと、
「ただ伸びたい方向へ伸びよう」とする自然生命の奔流。

人間生命という “ 場 ” の中で繰り広げられる、

“ Culture ” vs “ Nature ”

拮抗する二つのチカラに想いを馳せつつ、
今ひとたび “ 自然か不自然か ” を問うてみますと、
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」というのは、
好ましくはあれど、実は “ 不自然 ” で、
「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」というのは、
悩ましくはあれど、むしろ “ 自然 ” なのではないか?

浅薄な感想に過ぎませんが、
学び舎の現場、その片隅に息を潜めつつ、
若い命たちの「心体」と「身体」、
その “ 動き・流れ・巡り・運び ” を眺めておりますと、
ふと、そのように感じる時があります。



皆様、良き日々でありますように!


               









ウレタンボードで

2023-05-28 13:22:01 | 雑感
熱意と人間性に溢れた学級担任の先生が、
「早川さん、これ自由に加工して下さい」と、
ウレタンボードを渡して下さったので、
私が担当させて頂いている若い命が興味を示すかどうか?・・・、
などということは忘れ果て、ただ単にこうした作業が好きなので、
業務の合間にハサミでチョキチョキ、マーカーで塗りぬり、

つたないながらも動物や野菜を作ってみました。

実際、若い命たちは教室脇の畑に種を撒き、水を遣り、
それは見事な瑞々しいタマネギを既に収穫しています。
今は、ナス・スイカ・オクラ・ズッキーニ・
トマト・バジルなどの夏野菜たちが、
日々に根を張り葉を繁らせ蔓を伸ばしながら育っています。

若い命の一人一人に、
夏野菜の一つ一つに、
名もなき雑草の一本一本に、
全て独自の存在価値と存在理由があると信じます。



皆様、良き日々でありますように!


               








日々の “ 現場 ” で

2023-05-21 14:24:33 | 雑感
世間を騒がせるような事件が起きますと、
事件を起こした人の少年時代はどのようであったか?
などということが取り沙汰され、
その当時を知る人々への取材が敢行されたりしますが、
ほとんどの場合、

「おとなしくて普通の子だった」

という感想やコメントが聞かれるばかりであります。
精神医学や心理学を始めとした人間理解に対する情報が、
これほど大量に流布流通しているにも拘らず、
未だ世の中には、

「おとなしくて普通の子」

が実在しているものと錯覚されているのでありましょう。
かく申す私自身も “ カテゴライズされた共同幻想 ” を、
それが “ 幻想 ” であるにも拘らず、
あたかも “ 実在 ” のように錯覚しがちですが、
今一度思い起こすべきは、この世界には、

「おとなしくて普通に見える子」は存在しても、
「おとなしくて普通の子」は存在しないということ。

もしも大人の目に「おとなしくて普通」に見えるのであれば、
それはその子供が「おとなしくて普通」に見せているのであり、
恐らくその子供は「おとなしくて普通」を演じ装うために、
相当なエネルギーを使い、
その内界は葛藤に満ちたものではないかと思われます。

尤も、そのお子さん本人は、自分自身の内界で、
そのような動きが起きているなどとは思いも寄らず、
ただ漠然と、

「どうしてこんなに疲れるんだろう?」
「どうしてこんなに生きづらいんだろう?」

という風な感覚を持つばかりで、為す術がない・・・、
そのような状況下に在るようにも感じられます。

もし仮に、
本当に「おとなしくて普通」のお子さんがいたならば、
それは「おとなしくて普通」という、
むしろ “ 普通ではない個性 ” の持ち主と言えるかも知れません。

日々の “ 現場 ” で抱く雑感であります。


“ Flowing Dragon Ⅳ ” ~ 大気龍運

皆様、良き日々でありますように!


               








「身体」と「心体」

2023-05-14 13:24:12 | 雑感
紀元前300年頃の古代中国に生きたと謂われる “ 荘子 ” 。

御承知置きの通り、かの師は「呼吸」について、

『真人の息は踵(かかと)を以てし、
 衆人の息は喉(のど)を以てす』(荘子・大宗師編)

と記しています。

『「真(まこと)の人」は踵で呼吸するのに対して、
 「衆(おおく)の人」は喉の辺りで呼吸を繰り返している。』

この短い一節を巡っては、
古来、様々な解釈が施されてきたわけですが、
要は “ 深呼吸 ” の大切さを説いたもの。
只、巷間推奨される “ 深呼吸 ” と異なるのは、

『真人の息は踵を以てし・・・』

というところでしょうか。
腹式呼吸や下半身呼吸を超えて、息を更に深い位置、
“ 足底 ” 部まで下ろすことが説かれているようにも思えます。

人体における肺の構造や胸部・腹部・腰背部各呼吸筋の働き、
とりわけ横隔膜の上下運動等と照応させつつ、
荘子が唱えた “ 踵息(しょうそく)” を誇大に妄想してみますと、
肉体的実在としての横隔膜は地球の表層部と重ね合わさり、
自身の深奥部と地球の深奥部が同期して上下動することにより、
“ 足底 ” からの出息・入息が図られるようにも感じられます。
しかし、
そんなことが出来るのは、おそらく “ 万人に一人 ” 。
それゆえにこそ「真人」なのでありましょう。

尤も、“ 足底 ” に呼吸器官は存在しませんので、こういったことは、
あくまでも想像・イメージ・意念・意識による呼吸であります。

                 

浅はかな考え方かも知れませんが、
人間存在というものは「身体」と「心体」という、
二つの「しんたい」が重なっているものと個人的には考えます。
実在する内蔵諸器官を用いての「身体」呼吸と共に、
イメージを駆使しての「心体」呼吸というものも又、
大切なものに思われるのであります。

この「身体」と「心体」という、二つの「しんたい」は、
様々な事物・事象に当てはめて想像できるのが便利なところで、
例えば「音楽」であれば、
楽譜は「身体」、演奏は「心体」という風に、
こうザックリと想ってみますと「音楽」なるものも又、
「身体」と「心体」という、
二つの「しんたい」が重なるところに生じる現象と、
そのようにも感じられます。

それはともかく、
いま早川は勤務先の学び舎で、若い命に向き合おうとして、
到底向き合えるものではないことを痛感する毎日であります。
出来ることと申せば、若い命の傍らに佇むぐらい・・・、
いや、それさえも覚束ないような有りさま。

先日のこと、学び舎では若い命達の「身体」測定がありました。
「身体」は目に見えもし、触れることも出来ますので、
各種の計測器を用いて身長や体重等々が測られるわけですが、
では「心体」測定はどうでしょうか?
「心体」は測ろうとして測れないもの。

この測るに測れない「心体」を、
どのように感じ、どのように捉えてゆくのか?

そこには多種多様なアプローチが在ろうかと思いますが、
その一つが「呼吸」、それも “ 踵息 ” にあるのではないか、
などと想ってみたりもするのですが、これがなかなか・・・。

懊悩、とまではゆかずとも、
アレコレと想いを巡らせる日々であります。


“ Flowing Dragon Ⅲ ” ~ 大気龍巡

皆様、良き日々でありますように!


               








基督弥撒・・・?

2022-12-18 15:18:29 | 雑感
名古屋駅及び駅周辺の代表的な待ち合わせスポットの一つ、
名鉄百貨店本店入り口に立つ、巨大 “ ナナちゃん ” 人形。

“ ナナちゃん ” は、
春夏秋冬それぞれの季題に合わせて “ お色直し ” が施されます。
今はクリスマスに合わせて、天使のような、ケーキのような装い。
背中の翼は柊でしょうか?・・・洋の東西を問わず、
古来ヒイラギは魔除け厄よけの霊的植物とされてきました。
世は未だコロナ禍に在り。
“ ナナちゃん ” の背に生えたヒイラギの羽根には、
コロナ禍収束の願いが託されているのかも知れません。

そのコロナ禍も、予てより第8波の到来が伝えられていますが、
良くも悪くも “ with corona ” の生活が浸透したものか、

師走の雑踏には、以前のような緊張感は感じられません。


というわけで、
1週間先んじましての「メリー “ 基督弥撒 ” 」。

その昔、中国や日本では、

「基督弥撒」

と書いて「クリスマス」と読んだ・・・もしくは、
「クリスマス」を「基督弥撒」と書き表したのだとか。
「基督」が「キリスト」の意であることは分かりますが、
「弥撒」が「ミサ」を示すのだそうです。
尤も、現在ではこのように表記されることはないと聞きます。

仏教発祥の地、古代インドでは、
如来から放たれる広大無辺にして普く満ちる光のことを、
“ アミターバ ” と称し、“ アミターバ ” なる光は大きくて、
「量り知ることが出来無い」いうところから、
漢字圏において「無量光」と訳され “ アミダ ” と音写された上で、
「阿弥陀」の字が当てられたと謂います。
したがって「阿弥陀如来」と「無量光如来」は同義同体。

日本では「阿弥陀」の「阿」を省いて「弥陀(ミダ)」とし、
「弥陀の本願」と説かれたり「弥陀ヶ原」なる地名になったりと、
「弥陀」の用例が散見されます。

                 

先に記しました「弥撒(ミサ)」。
キリスト教門外の早川ゆえ間違っていたらお許しを願いますが、
確か「ミサ」とは、

キリスト(紀元年~紀元33年頃)の《最後の晩餐》に由来する、
所謂《聖体の秘跡》に関わる典礼を指すと、
概ねそのように習った記憶があります。
尤も、
カトリックとプロテスタントでは、この辺りの解釈や捉え方、
また呼び方などにも違いがあると聞き及びますが、何にせよ、
重要な祭儀であることには違いないのでありましょう。

インド発祥の仏教と同様、キリスト教もまた唐代(607~907)、
その教えと文物とが大量に長安へともたらされ、
長安城内には幾つもの礼拝堂が建てられていたと伝わります。
当時は「景教」と呼ばれたキリスト教ネストリウス派の教義は、
救世主 “ Missiah(ミシア)” 信仰だったようで、
この “ Missiah ” には「弥施訶」と漢字が当てられています。
「弥施訶」とは、英語で綴られるところの “ Messiah ” 、
つまりは「メサイア」でありましょうか。

私には「弥施訶」と示されても「ミシカ」としか読めず、

アラン・シルヴェストリ大師匠の2006年作品、
「レジェンド・オブ・ミシカ」の音楽が脳内再生されるに留まり、
とてものこと千五百年という時の彼方で信じられていたであろう、
メサイアの余韻を聴き分けることは出来ません。

仏教では「阿弥陀」「弥勒(みろく)」「須弥山(しゅみせん)」、
景教では「弥撒」「弥施訶」と、この辺りを想ってみますと、
もしかしたら当時の中国人翻訳者の間には、
外国から入ってきた言葉で、それが何か宗教的意義を持つ場合、
“ Mi ” と聞こえる発音には「弥」を当てよう・・・という風な、
決めごとなりマニュアルなりが在ったのかも知れません。

“ 基督弥撒 ” から、取り止めも無い話になってしまいましたが、
音写・音訳からの漢字選択および漢字訳出の流れというものは、
たった一文字の中にも、
歴史・地理・民族・言語・文化といった広大な領域を含み、
それゆえに複雑難解、又それゆえに興味尽きせぬ世界。 
弘法大師・空海上人(774~835)の言葉に、経典の文字は、

『一字に千理を含む』

とありますが、この『千理』には「千の理法」という意味と共に、
過去と現在、現在と未来といった時間的な距離を喩える「千里」、
遠く隔たった場所と場所との空間的な距離を表す「千里」、
そのような意味も宿っているように思われてまいります。


“ Purple Dragon ” 〜 紫龍 〜

皆様、良き日々でありますように!