母は随分と前に旅立ち、
用いていた着物やそれらが収まっていた桐箪笥等々は、
少しずつ処分していったのですが、
文机は手つかずのままになっていました。
先日、引き出しを明けてみましたところ、
奥の方から、こんなモノが出てきました。

勾玉(まがたま)であります。
観光地の写真と共に仕舞われておりましたので、
おそらくは旅行好きだった父に連れられて、
訪れた先で購入したのでしょう。
生前の母は、満月を観れば手を合わせ、
ウグイスの鳴き声を聴けば祝詞を唱えと、
今風に言えば “ スピリチュアル ” な人でありました。
私自身は、そんな母の姿を、
感性豊かな人だなぁ・・・と好ましく眺めつつも、
内心(脳内お花畑か!) と突っ込んだりしておりましたが、
いま我が身を客観視するに、
母の感性を色濃く受け継いでいることに気付かされます。
良くも悪くも「血は争えぬ」ということでありましょうか。
それはともかく、この「勾玉」なるもの、
こう見れば観るほど不思議な形状ですよね。
その源流は縄文時代にまで遡ることが出来るとされ、
“ 八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)” は、
「三種の神器」の一つに数えられているにも拘らず、
勾玉が何を表しているのかについては、
動物の牙だったのでは?
いや胎生初期の胎児の姿であろう、
いや人間の魂を象ったものに違いない、
いや月の満ち欠けを模している・・・等々、
様々な説が立てられてはいるものの、
未だ明確には分かっていないのだそうです。
“ 巴(ともえ)” 文様説もその一つ。
神社などで見かける “ 三つ巴 ” 紋の一つに似ています。
なるほど “ ともえ ” かぁ・・・と感じ入ったところで、
武満徹(1930~1996)師がエッセイの中で、

“ ともえ ” に触れておられたことを思い出しました。
『幾種もの輪・ともえ等は、
その簡明さのために私をとらえる。』
(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」新潮社刊)
師は、京都・化野念仏寺を参拝したことを記しつつ、
数々の形態や文様の中でも、長大な歴史に耐えたものには、
謎めいた力学が働いているとして、こう綴っておられます。
『輪とか ともえは、呪術的なもの、
自然宗教的な世界観からうまれたのだろうが、
その象徴性は近代におよぶにつれ弱まっている。
植物模様・動物模様などは装飾にながれてダテであり、
ともえなどにある念(おもい)はない。』(引用元:上掲書)
“ 円環 ” とか “ ともえ ” には、
人間が大自然と対峙した時に自ずと湧き上がる、
畏怖畏敬の “ 念(おもい)” が宿っているけれど、
植物模様・動物模様などは、
デザイン性が優先されてオシャレになっていったものの、
“ 円環 ” とか “ ともえ ” に宿る “ 念 ” には欠けると。
もしそうであるとしたならば、
「勾玉」なるものは、
大自然への畏敬の念が込められたものであり、
大自然への感謝の想いを象徴したもの。
しかしながら、
『その象徴性は近代におよぶにつれ弱まっている。』
偉大な作曲家の言葉は、
自然に対する畏敬の念や感謝の想いが、
私たちの中から失われつつある、との警句にも聴こえます。
“ MAGATAMA ”
~ 勾玉龍神 ~

皆様、良き日々でありますように!






用いていた着物やそれらが収まっていた桐箪笥等々は、
少しずつ処分していったのですが、
文机は手つかずのままになっていました。
先日、引き出しを明けてみましたところ、
奥の方から、こんなモノが出てきました。

勾玉(まがたま)であります。
観光地の写真と共に仕舞われておりましたので、
おそらくは旅行好きだった父に連れられて、
訪れた先で購入したのでしょう。
生前の母は、満月を観れば手を合わせ、
ウグイスの鳴き声を聴けば祝詞を唱えと、
今風に言えば “ スピリチュアル ” な人でありました。
私自身は、そんな母の姿を、
感性豊かな人だなぁ・・・と好ましく眺めつつも、
内心(脳内お花畑か!) と突っ込んだりしておりましたが、
いま我が身を客観視するに、
母の感性を色濃く受け継いでいることに気付かされます。
良くも悪くも「血は争えぬ」ということでありましょうか。
それはともかく、この「勾玉」なるもの、
こう見れば観るほど不思議な形状ですよね。
その源流は縄文時代にまで遡ることが出来るとされ、
“ 八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)” は、
「三種の神器」の一つに数えられているにも拘らず、
勾玉が何を表しているのかについては、
動物の牙だったのでは?
いや胎生初期の胎児の姿であろう、
いや人間の魂を象ったものに違いない、
いや月の満ち欠けを模している・・・等々、
様々な説が立てられてはいるものの、
未だ明確には分かっていないのだそうです。
“ 巴(ともえ)” 文様説もその一つ。
神社などで見かける “ 三つ巴 ” 紋の一つに似ています。
なるほど “ ともえ ” かぁ・・・と感じ入ったところで、
武満徹(1930~1996)師がエッセイの中で、

“ ともえ ” に触れておられたことを思い出しました。
『幾種もの輪・ともえ等は、
その簡明さのために私をとらえる。』
(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」新潮社刊)
師は、京都・化野念仏寺を参拝したことを記しつつ、
数々の形態や文様の中でも、長大な歴史に耐えたものには、
謎めいた力学が働いているとして、こう綴っておられます。
『輪とか ともえは、呪術的なもの、
自然宗教的な世界観からうまれたのだろうが、
その象徴性は近代におよぶにつれ弱まっている。
植物模様・動物模様などは装飾にながれてダテであり、
ともえなどにある念(おもい)はない。』(引用元:上掲書)
“ 円環 ” とか “ ともえ ” には、
人間が大自然と対峙した時に自ずと湧き上がる、
畏怖畏敬の “ 念(おもい)” が宿っているけれど、
植物模様・動物模様などは、
デザイン性が優先されてオシャレになっていったものの、
“ 円環 ” とか “ ともえ ” に宿る “ 念 ” には欠けると。
もしそうであるとしたならば、
「勾玉」なるものは、
大自然への畏敬の念が込められたものであり、
大自然への感謝の想いを象徴したもの。
しかしながら、
『その象徴性は近代におよぶにつれ弱まっている。』
偉大な作曲家の言葉は、
自然に対する畏敬の念や感謝の想いが、
私たちの中から失われつつある、との警句にも聴こえます。
“ MAGATAMA ”
~ 勾玉龍神 ~

皆様、良き日々でありますように!





