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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

先週に引き続きまして・・・

2021-05-30 19:13:12 | 自然
以前のブログで、
早川が「ミイラ、ミイラ」と呼んでおりました、
古いMac book(os 10.7)が、ついに動かなくなるようです。

「動かなくなるようです・・・」と申し上げますのは、
今こうして記事を書いている間も、画面の点滅が激しく、
ちゃんと文章が打てているのかも、よく分かりません。
一応、更新させて頂きます。

               

先週は、このように蕾の多かった千種公園。

今週は、いかがでありましょうか?


品種によって差異はあるものの、

概ね花期を迎えていました。














               

本日は、千種公園から帰ってから、
停止寸前の MAc book と格闘しつつ過ごしておりましたが、
結局〈アップデート〉は出来ませんでした。

〈アップデート〉のトライ&エラーを繰り返しながら、
私という人間の中身そのものを〈アップデート〉する必要性を、
ひしひしと感じるものであります。


              







交流

2021-04-18 16:40:06 | 自然
先週は蕾だった城山八幡宮の躑躅も、

今週は、この通り満開に。

               

本日訪れましたのは、

名古屋市内を流れる一級河川・矢田川(やだがわ)であります。


私が立っておりますのは〈宮前橋(みやまえばし)という河川橋。

西の方角を撮っています。
川は西へと流れ、ここから約7km先で、
さらに大きな一級河川・庄内川(しょうないがわ)と合流し、
矢田川の流れを飲み込んだ庄内川、換言するならば、
庄内川へと生まれ変わった矢田川は、そこから約20kmを流れ下り、
名古屋港、すなわち伊勢湾へと注ぎ出ます。

               

古来、人生は川の流れに譬えられますが、
人生における人と人との交わり、その在りようも又、
川の流れと重なり、川の流れに比され得るものであるかと思います。
人と人との交わりを指す「交流」という言葉は、
その辺りを物語るものでもありましょう。

自然界の河川を映して、人と人との「交流」の河川にも、
急流あり、緩流あり、清流あり、濁流あり、或いは又、
水量豊かな時もあれば、水涸れて流れの途絶える時もあります。



同じ相手との「交流」においても、
仲が良いかと思えば悪くなりもし、
相手に振り回されるかと思えば、いつしか相手を振り回す。
沈黙の内にも相手の思いが手に取るように分かりもすれば、
相手が何を考えているのかサッパリ分からない。
断絶していたままの交わりが、ふとした契機から再開する等々、
「交流」という河川の流れと、その両岸を含む景観は、
まことに彩り豊かにして多種多様であります。

それらの全ては、相手の在ることだけに、
自分の意志や思いのままになるようなものではなく、
「交流」の文字通り、“ 流れ ”のままに“ 流れ ”移ろうもの。

そんな「交流」の秘訣とは何なのでありましょうか?

川岸に立つ大きな栗の樹の緑陰に佇んで、
昨日の雨で水量の増した矢田川の川音に耳を澄ます内に、

“ 来るもの拒まず、去るもの追わず ”

不思議な歌が聴こえてくるような気がしました。




             









気ノ森 11月初旬

2020-11-08 14:50:24 | 自然
11月に入ってからというもの、当地も日々に寒暖の差が増し、
それに伴って樹々の色味も変わってきました。
短い動画ですが、本日11月8日の〈気ノ森 〉御覧下さい!


使用楽曲“ little autumn ”(2007)作曲:早川太海

               


昨11月7日(土)は、二十四節気の〈立冬〉でした。
立冬の一つ前の節気は〈霜降〉で、それぞれの節気を、
さらに初候・次候・末候の三期に分けた〈七十二候〉において、
今頃の時期は、おおよそ〈霜降の末候〉から〈立冬の初候〉。
〈霜降の末候〉には、こう記されています。

「楓蔦黄(楓、蔦の葉、黄ばむ)」

晩秋の大気に初冬の調べが忍び始め、
その微かな響きが紅葉に拍車をかける様子を表すものですが、
この「楓蔦黄」を“ ふうちょうおう ”と音読して呟いてみますと、
楓や蔦のみならず、
「楓」という漢字の中に吹き渡っている「風」や、
「蔦」という漢字の中に身を潜めている「鳥」までもが、
どこか冬めいた印象を伴って浮かんできます。

古来より伝わる〈七十二候〉なるものに見入っておりますと、
七十二の段階に分けられた季節・気象の移ろいの諸相が、
単に季節・気象の移ろいの諸相を示すのみに留まらず、
有情なる天地とフラクタル的に照応する、人間の心の諸相、又は、
有情なる自然とフラクタル的に呼応する、人間の状態の諸相、
あたかも〈七十二候〉が、そのまま〈七十二心・七十二態〉と、
そんな風にも思えてきます。例えば、

小雪の初候「虹蔵不見 ~ 虹、蔵(かく)れて見えず」
大雪の初候「閉塞成冬 ~ 気は塞ぎ、道閉じて、冬となる」

人は、時として八方塞がりに追い込まれ、どこをどう探しても、
希望の虹を見出すことが出来ない状況に陥ることもあれば、
気が塞ぎ、何のやる気も起こらないような精神状態にもなります。
それでも心の天地を季節が移り、内界の山河に時節が至れば、

春分の次候「桜始開 ~ 桜、開き始める」
清明の次候「虹始見 ~ 虹、はじめて見(あらわ)る」

といった心身の状態へと転じることも充分に有り得ます。

コロナ禍の暗雲は未だ晴れず、先行き不安な現況ではありますが、
大きな自然の力を信じ、大きな時の巡りを待つものであります。

皆様、良き日々でありますように!


              









秋の宝珠

2020-10-18 16:14:33 | 自然
緑内障の手術から10日、平均的な回復過程を辿ってはいるものの、
見えづらさと、まばたきをする度に感じる痛みとは、
今後長く付き合ってゆかなければならないようです。

何が困ると申して、例えばブログに上げる為、
何かを撮影しようとする際に、被写体がよく見えないこと。
またカメラの液晶モニターで確認しようとしましても、
その画面に何が映っているのか?が、よく分からないこと。

尤も、見えても見えなくても、
ヘタな写真であることには変わりありませんので、
そこまで困ることではないのかも知れませんが、
そこはそれ本人にとっては大きな問題なのであります。

               

当地、明け方まで降ったり止んだりしていました。

この季節ならではの丸い実の数々、
これを“ 秋の宝珠 ”と見立ててみますと、

ここにも



そこにも



あそこにも



いや、丸い実ばかりではありませんでした。
金木犀の花も又、観ようによっては宝珠の形。







金木犀は、“ 秋の宝珠 ”の代表格でありました。

               

神社仏閣に置かれた燈籠の擬宝珠(ぎぼし)や



橋の欄干の擬宝珠等々も



自然界の宝珠からインスパイアされたもの。

仏教では、宝珠を“ マニ宝珠 ”と呼んだりもしますが、
この“ マニ ”も又、サンスクリット語で「宝珠」の意。
中国で音写され、経典内では「摩尼(まに)」と書かれます。

               

先程、城山八幡宮へ参拝しましたところ、

生態保護の為、
長らく連理木を覆っていた養生シートが外されていました。
久しぶりに樹体を拝したことも手伝って、
溢れる生気に打たれました。

皆様、良き日々でありますように!


              










サトキマダラヒカゲ

2020-08-16 13:08:33 | 自然
気ノ森に入ってすぐの辺りから、その影には気が付いていました。
“ それ ”は視界に入っては消え、消えては入りを繰り返しながら、
ずっと私と移動を共にしているように感じられましたので、
生物種の違いを超えて、何らかの交流を図るべく立ち止まり、
努めて呼吸を穏やかにし、心気を静めておりましたところ、


つと現れ、指先にとまった“ それ ”は、

里黄斑日陰(サトキマダラヒカゲ)蝶でありました。


写真では、お分かりいただけませんが〈汗かき〉の早川、
手の甲、指の背には汗が噴いており、サトキマダラヒカゲは、
しきりにその汗を吸引しているように見えました。
もっとも、そう見えただけなのでしょうが、それでも内心、

まさか蝶の熱中症対策・・・?と不思議な思いで観察しつつ、
すぐに離れるものと思いきや、居心地が良かったのか、或いは、
早川を“ 人畜無害 ”と判断してくれたのでしょうか、


指先に羽根を休めること、およそ20分。

サトキマダラヒカゲは、現れた時と同じように、
つと指先を離れ、森の中へと消えてゆきました。

               

そう言えば、「荘子」として知られる、
古代中国の思想家・荘周(紀元前369~紀元前286)は、
夢の中で胡蝶となり、夢から醒めた後こう思うのでした。

「私は、いま夢から目覚めたと感じているが、
 私の正体は胡蝶で、今この現実この世界と感じている全ては、
 胡蝶である私が見ている夢なのではないか?」

荘周先生に倣って視点を変え、
サトキマダラヒカゲとの交流を振り返ってみますと、

蝶が私にとまっていたのではなく、
私が蝶にとまっていたのかも知れません。