先週記しました “ MIHO MUSEUM ” から、
一旦JR石山駅へ戻りまして、京阪バスに乗ること約10分。
「石山寺山門前」で降車しますと、
石山寺のマスコットキャラクター「おおつ光ルくん」の案内板。

おおつ光ルくんは、今を去る16年前の2008年、
“ 源氏物語千年紀 ” を記念して誕生したキャラクターで、
和歌を詠むこととローラースケートが得意な12歳。
言わずもがな源氏物語の主人公に因むものと分かりますが、
ある世代よりも若い方々には、
なぜ「おおつ光ルくん」の得意技がローラースケートなのか?
ちょっと不思議に思われるかも知れませんね。
それはともかく、
案内板の後ろに写る川は “ 瀬田川(せたがわ)” であります。
写真を撮り損ねたのですが、
早川が降りた「石山寺山門前」から川沿いに北へ向かうと、
かの有名な “ 瀬田の唐橋(からはし)” があります。
その昔、東国から京の都へのぼるには、
草津の矢橋(やばせ)から大津の石場(いしば)へと、
琵琶湖を舟で渡るのが最速とされていましたが、
比叡山から吹き降りる強風 “ 比叡おろし ” によって、
舟便の遅延もしくは転覆等のおそれがあり、
確実なルートを取りたいのであれば、
遠回りではあっても草津から南下し瀬田の唐橋を渡れ・・と、
誰しもが御存知の諺、
「急がば回れ」
その発祥地とされています。



美しい瀬田川の畔に法統を伝え続けて1300年、
真言宗大本山 石山寺(いしやまでら)。

山号を石光山(せっこうざん)、
御本尊は如意輪観世音菩薩。
寺伝によりますと創建は天平19年(747)、
良弁僧正(689~773)によって建立されたのだとか。
良弁(ろうべん)僧正と言えば華厳宗の僧侶にして東大寺の開山。
それゆえ石山寺もまた創建当初は華厳宗でしたが、
平安時代に真言宗へと移ったのだそうです。
奉納提灯にある「千日会(せんにちえ)」とは、

万霊供養の法会が営まれる “ 特別な日 ” のことで、
この日に参詣すれば千日分の御利益に与るとされています。
令和6年の千日会は8月9日(土)でありました。
因みに早川が訪れたのは前日の8月8日(金)。
石山寺は西国三十三ヶ所霊場の第十三番札所でもあり、
境内には三十三ヶ所の寺院が本尊とする様々な観音菩薩が、
一同に会して祀られる観音堂あり、
観音堂の横には毘沙門堂あり、
また宗祖弘法大師を祀る御影堂あり。
その御影堂の斜め前に、

宝篋印(ほうきょういん)塔が建っていました。
ちょっと分かりづらいのですが、細長い石板の奥側に、
うっすらと数字が御覧頂けますでしょうか?

丸いくぼみの左斜め上から左方向に向けて、
“ 一、二、三・・・ ” という風に刻まれていて、
立て札にも書かれているように、宝篋印塔の回りには、
四国八十八ヶ所霊場の “ お砂 ” が埋められています。
「石光山 石山寺」というくらい、
「石」との関わりが深い場所でありますが、
その辺りを如実に物語る光景がこちら。

これらの岩塊は、太古の昔この一帯に噴き出した、
花崗岩等の熱作用により石灰岩が変成したもので、
その名も「硅灰石(けいかいせき)」。
貴重なものだそうで国の天然記念物に指定されています。
そもそも滋賀県の「滋賀」なる地名は、
“ 石が多い処 ” という意味の「石処(いしか)」が、
「しか」→「しが」へと転じていったものという説があります。
(「処」を「か」と読む用例としては、
「住処(すみか)」「在り処(ありか)」他)
そうした歴史なり由来なりを更に実感できる場所が、
広大な境内地の一角にありました。

“ 天智天皇の石切り場 ” と称される採石場。
天智天皇の時代(660年代頃)、この場所で切り出された石が、
瀬田川の水運を利用して飛鳥の地へと運ばれ、
寺院の礎石として使用されていたことが、
近年の調査により判明したのだそうです。
いやぁ “ シルクロード ” ならぬ、
“ ストーンロード ” とでも言うべき流通路があったんですねぇ。
さぁ、いよいよ石山寺本堂へとやってまいりました。

初代の本堂は雷災によって焼失し、
現本堂は平安時代(1096年)に再建されたもので、
以来千年近い歳月に亘り再建当時の姿を保っていて、
国宝に指定されています。
内部は外陣(げじん)と内陣(ないじん)とに分かれ、
内陣にも参拝させて頂きましたが、
密教寺院らしい薄暗い空間の中に、秘仏、お前立ち観音、
不動明王を始め多くの尊格が祀られていました。
千年前、
この内陣に座った参詣者の方々がいて、いま同じ場所に座り、
その方々が祈りを捧げた尊格に向けて、いま祈りを捧げる。
これは過去と現在、そして未来とが、
それぞれの心身を通して交流することに他なりません。
星霜に耐えた神社仏閣というのは、ある意味「装置」、
一種の “ タイムマシン ” という気がします。
石山寺本堂内陣というタイムマシンの中に端座し、
静かに祈りを捧げる内には、
我が身という、あくまでも限りのある小さな心身と、
神仏という、果てしなく限りのない大きな心身とが、
ひととき “ 密 ” に結ばれるようにも思われました。
本年(令和6年)の大河ドラマの影響でしょうか、
至るところ「紫式部推し」。
本堂脇の小さな部屋は紫式部(生没年不詳およそ平安中期)が、
源氏物語を執筆するために参籠した部屋と伝わり、

特に多くの女性が熱心に拝観しておられました。
早川は大河ドラマを観ておらず、また無学にして、
紫式部は “ 年の差婚 ” 、源氏物語は “ 恋愛小説の元祖 ” 、
といった程度のことしか存じ上げておりません。
今回の参拝を一つの機縁として、
源氏物語読んでみよっかなぁ・・などと思った次第。
さて、石山寺といえば “ 多宝塔 ” 。
建久5年(1194)源頼朝の寄進によって建立され、
その時代から遺る多宝塔としては日本最古だそうです。

great composition・・・美しい音楽ですよねぇ。
多宝塔の本尊は、おおよそ多宝如来とされますが、
こちらの本尊は快慶作の大日如来。
この日は閉扉されて拝観は出来ませんでした。
それにしても石山寺の境内は広いです。
つぶさに拝んで回れば数時間は掛かりましょう。
この日は日中の気温38度で、老骨にはコタエル暑さ。
各所各堂を巡拝し、そろそろ足元がフラついてまいりました。
この日最後に訪れましたのは八大龍王社。

寺伝では石山寺の歴海(れっかい)和尚が、
龍穴ノ池の畔で孔雀経(くじゃくきょう)を読むと、

龍王たちが現れて和尚の読経を聴き、
和尚が読み終えると僧坊まで送り届け、
その後も長きに亘り守護し続けたと伝えています。
孔雀経とは「仏母孔雀明王経」のことかと思われますが、
古来、孔雀は雨を予知すると信じられていたことから、
“ 雨乞い修法 ” ではよく読まれています。
おそらくは歴海和尚も、
請雨祈願の法を修しておられたのでありましょう。
本日のブログの終わりに、
石山寺の本尊、勅封秘仏・如意輪観世音菩薩について記します。
「勅封秘仏」とは中々聞き慣れない言葉ですが、
天皇の勅命によって秘仏とされ、
33年に一度、勅使が石山寺を訪れて厨子の扉を開き、
公開するという尊像なのだそうです。
心に留めるべきは、
如意輪観世音菩薩を始めとする七観音、三十三観音、
或いは百観音とも称される “ 観世音菩薩 ” という尊格は、
古くより、
「“ 大慈大悲(だいじだいひ)” の観世音」
と詠われ、拝まれ、親しまれてきた菩薩であるということ。
“ 大慈大悲 ” というのは、私たちが想う「慈悲」とは、
全く次元を異にする境地であります。
病弱な人、意志の弱い人、立場の弱い人、貧しい人、
頑張りたくても頑張れない人、心に問題を抱える人等々、
総じて社会の中では「生きづらい」人々の側に立ち続ける、
寄り添い続ける、守り続ける、励まし続ける・・・、
これが “ 大慈大悲 ” であり観世音菩薩の「本願」。
「勅封」の「秘仏」のといったことはさて措き、
観世音菩薩の扉というのは、
いつでも、どこでも開かれているものと信じます。
長々と駄文を連ねてしまいました。
石山寺参拝にお付き合い頂き、ありがとうございました。



『人々は、請雨を成した歴海和尚の法力を褒めそやしたが、
歴海自身は別に嬉しいとも何とも感じなかった。
歴海はいつも思っている。
(俺に法力など有るもんか・・・)
やんごとなき面々の中には、
どうやって干天に慈雨をもたらしたのか尋ねる者もいたが、
歴海は、こう答えている。
「わたくしは、始めのうち盤渉の調で唄っておりましたが、
龍王の歌を聴き、それが黄鐘の調であると心得たゆえ、
そこに相添い、相合わせたまでで御座います。」』
“ Duo ” ~ 歴海と龍王 ~

皆様、良き日々でありますように!






一旦JR石山駅へ戻りまして、京阪バスに乗ること約10分。
「石山寺山門前」で降車しますと、
石山寺のマスコットキャラクター「おおつ光ルくん」の案内板。

おおつ光ルくんは、今を去る16年前の2008年、
“ 源氏物語千年紀 ” を記念して誕生したキャラクターで、
和歌を詠むこととローラースケートが得意な12歳。
言わずもがな源氏物語の主人公に因むものと分かりますが、
ある世代よりも若い方々には、
なぜ「おおつ光ルくん」の得意技がローラースケートなのか?
ちょっと不思議に思われるかも知れませんね。
それはともかく、
案内板の後ろに写る川は “ 瀬田川(せたがわ)” であります。
写真を撮り損ねたのですが、
早川が降りた「石山寺山門前」から川沿いに北へ向かうと、
かの有名な “ 瀬田の唐橋(からはし)” があります。
その昔、東国から京の都へのぼるには、
草津の矢橋(やばせ)から大津の石場(いしば)へと、
琵琶湖を舟で渡るのが最速とされていましたが、
比叡山から吹き降りる強風 “ 比叡おろし ” によって、
舟便の遅延もしくは転覆等のおそれがあり、
確実なルートを取りたいのであれば、
遠回りではあっても草津から南下し瀬田の唐橋を渡れ・・と、
誰しもが御存知の諺、
「急がば回れ」
その発祥地とされています。



美しい瀬田川の畔に法統を伝え続けて1300年、
真言宗大本山 石山寺(いしやまでら)。

山号を石光山(せっこうざん)、
御本尊は如意輪観世音菩薩。
寺伝によりますと創建は天平19年(747)、
良弁僧正(689~773)によって建立されたのだとか。
良弁(ろうべん)僧正と言えば華厳宗の僧侶にして東大寺の開山。
それゆえ石山寺もまた創建当初は華厳宗でしたが、
平安時代に真言宗へと移ったのだそうです。
奉納提灯にある「千日会(せんにちえ)」とは、

万霊供養の法会が営まれる “ 特別な日 ” のことで、
この日に参詣すれば千日分の御利益に与るとされています。
令和6年の千日会は8月9日(土)でありました。
因みに早川が訪れたのは前日の8月8日(金)。
石山寺は西国三十三ヶ所霊場の第十三番札所でもあり、
境内には三十三ヶ所の寺院が本尊とする様々な観音菩薩が、
一同に会して祀られる観音堂あり、
観音堂の横には毘沙門堂あり、
また宗祖弘法大師を祀る御影堂あり。
その御影堂の斜め前に、

宝篋印(ほうきょういん)塔が建っていました。
ちょっと分かりづらいのですが、細長い石板の奥側に、
うっすらと数字が御覧頂けますでしょうか?

丸いくぼみの左斜め上から左方向に向けて、
“ 一、二、三・・・ ” という風に刻まれていて、
立て札にも書かれているように、宝篋印塔の回りには、
四国八十八ヶ所霊場の “ お砂 ” が埋められています。
「石光山 石山寺」というくらい、
「石」との関わりが深い場所でありますが、
その辺りを如実に物語る光景がこちら。

これらの岩塊は、太古の昔この一帯に噴き出した、
花崗岩等の熱作用により石灰岩が変成したもので、
その名も「硅灰石(けいかいせき)」。
貴重なものだそうで国の天然記念物に指定されています。
そもそも滋賀県の「滋賀」なる地名は、
“ 石が多い処 ” という意味の「石処(いしか)」が、
「しか」→「しが」へと転じていったものという説があります。
(「処」を「か」と読む用例としては、
「住処(すみか)」「在り処(ありか)」他)
そうした歴史なり由来なりを更に実感できる場所が、
広大な境内地の一角にありました。

“ 天智天皇の石切り場 ” と称される採石場。
天智天皇の時代(660年代頃)、この場所で切り出された石が、
瀬田川の水運を利用して飛鳥の地へと運ばれ、
寺院の礎石として使用されていたことが、
近年の調査により判明したのだそうです。
いやぁ “ シルクロード ” ならぬ、
“ ストーンロード ” とでも言うべき流通路があったんですねぇ。
さぁ、いよいよ石山寺本堂へとやってまいりました。

初代の本堂は雷災によって焼失し、
現本堂は平安時代(1096年)に再建されたもので、
以来千年近い歳月に亘り再建当時の姿を保っていて、
国宝に指定されています。
内部は外陣(げじん)と内陣(ないじん)とに分かれ、
内陣にも参拝させて頂きましたが、
密教寺院らしい薄暗い空間の中に、秘仏、お前立ち観音、
不動明王を始め多くの尊格が祀られていました。
千年前、
この内陣に座った参詣者の方々がいて、いま同じ場所に座り、
その方々が祈りを捧げた尊格に向けて、いま祈りを捧げる。
これは過去と現在、そして未来とが、
それぞれの心身を通して交流することに他なりません。
星霜に耐えた神社仏閣というのは、ある意味「装置」、
一種の “ タイムマシン ” という気がします。
石山寺本堂内陣というタイムマシンの中に端座し、
静かに祈りを捧げる内には、
我が身という、あくまでも限りのある小さな心身と、
神仏という、果てしなく限りのない大きな心身とが、
ひととき “ 密 ” に結ばれるようにも思われました。
本年(令和6年)の大河ドラマの影響でしょうか、
至るところ「紫式部推し」。
本堂脇の小さな部屋は紫式部(生没年不詳およそ平安中期)が、
源氏物語を執筆するために参籠した部屋と伝わり、

特に多くの女性が熱心に拝観しておられました。
早川は大河ドラマを観ておらず、また無学にして、
紫式部は “ 年の差婚 ” 、源氏物語は “ 恋愛小説の元祖 ” 、
といった程度のことしか存じ上げておりません。
今回の参拝を一つの機縁として、
源氏物語読んでみよっかなぁ・・などと思った次第。
さて、石山寺といえば “ 多宝塔 ” 。
建久5年(1194)源頼朝の寄進によって建立され、
その時代から遺る多宝塔としては日本最古だそうです。

great composition・・・美しい音楽ですよねぇ。
多宝塔の本尊は、おおよそ多宝如来とされますが、
こちらの本尊は快慶作の大日如来。
この日は閉扉されて拝観は出来ませんでした。
それにしても石山寺の境内は広いです。
つぶさに拝んで回れば数時間は掛かりましょう。
この日は日中の気温38度で、老骨にはコタエル暑さ。
各所各堂を巡拝し、そろそろ足元がフラついてまいりました。
この日最後に訪れましたのは八大龍王社。

寺伝では石山寺の歴海(れっかい)和尚が、
龍穴ノ池の畔で孔雀経(くじゃくきょう)を読むと、

龍王たちが現れて和尚の読経を聴き、
和尚が読み終えると僧坊まで送り届け、
その後も長きに亘り守護し続けたと伝えています。
孔雀経とは「仏母孔雀明王経」のことかと思われますが、
古来、孔雀は雨を予知すると信じられていたことから、
“ 雨乞い修法 ” ではよく読まれています。
おそらくは歴海和尚も、
請雨祈願の法を修しておられたのでありましょう。
本日のブログの終わりに、
石山寺の本尊、勅封秘仏・如意輪観世音菩薩について記します。
「勅封秘仏」とは中々聞き慣れない言葉ですが、
天皇の勅命によって秘仏とされ、
33年に一度、勅使が石山寺を訪れて厨子の扉を開き、
公開するという尊像なのだそうです。
心に留めるべきは、
如意輪観世音菩薩を始めとする七観音、三十三観音、
或いは百観音とも称される “ 観世音菩薩 ” という尊格は、
古くより、
「“ 大慈大悲(だいじだいひ)” の観世音」
と詠われ、拝まれ、親しまれてきた菩薩であるということ。
“ 大慈大悲 ” というのは、私たちが想う「慈悲」とは、
全く次元を異にする境地であります。
病弱な人、意志の弱い人、立場の弱い人、貧しい人、
頑張りたくても頑張れない人、心に問題を抱える人等々、
総じて社会の中では「生きづらい」人々の側に立ち続ける、
寄り添い続ける、守り続ける、励まし続ける・・・、
これが “ 大慈大悲 ” であり観世音菩薩の「本願」。
「勅封」の「秘仏」のといったことはさて措き、
観世音菩薩の扉というのは、
いつでも、どこでも開かれているものと信じます。
長々と駄文を連ねてしまいました。
石山寺参拝にお付き合い頂き、ありがとうございました。



『人々は、請雨を成した歴海和尚の法力を褒めそやしたが、
歴海自身は別に嬉しいとも何とも感じなかった。
歴海はいつも思っている。
(俺に法力など有るもんか・・・)
やんごとなき面々の中には、
どうやって干天に慈雨をもたらしたのか尋ねる者もいたが、
歴海は、こう答えている。
「わたくしは、始めのうち盤渉の調で唄っておりましたが、
龍王の歌を聴き、それが黄鐘の調であると心得たゆえ、
そこに相添い、相合わせたまでで御座います。」』
“ Duo ” ~ 歴海と龍王 ~

皆様、良き日々でありますように!





