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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

熱田の伝説

2025-04-06 17:33:15 | 神社仏閣
熱田神宮を参拝してまいりました。

当ブログでは度々訪れており、
その歴史なり御祭神なりについては既筆のところではありますが、
私自身の物覚えが悪いので、ここで自らのために、
熱田神宮創建の辺りを今一度おさらいさせて頂きます。
まずは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、
父親の第12代景行天皇の命を受け、
草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を携えて挑んだ東征の帰途、
尾張の国造(くにのみやつこ / 地方行政長官)の娘、
宮簀媛命(みやすひめのみこと)と結婚します。その後、
日本武尊は草薙神剣を尾張大高(現 名古屋市緑区)に置いたまま、
現在の三重県亀山市能褒野(のぼの)でお亡くなりに。
哀しみの宮簀媛命は、
亡き夫の形見である草薙神剣を熱田の地に祀ります。

・・・と、この神剣奉祀が熱田神宮の起こりとされ、

これが今を去ること約1900年前のことなのだとか。

それにしても「千九百年」とは、ただごとではありませんよね。
なに申すまでもなく世の中というのは栄枯盛衰激流の如し。
世相は移ろいやすく、人心は転がり続けるもの。
そういった中で「千九百年」に亘り命脈を保ち続けられるのは、
一体なぜなのか?

もしかしたら、
そこには何か特別な神威、特段の霊威が働いているのでは?
そのような疑問や感興を抱いた人々は過去無数にいたわけで、
そうした “ 問いかけ ” から、
数々の “ 熱田伝説 ” とでも言うべき珍説奇説が生まれました。
その内の一つが “ 熱田=蓬莱(ほうらい)説 ” 。

尤も、“ 熱田=蓬莱説 ” は既に巷間よく知られたものでもあり、
取り立てて記すほどのことでは無いのかも知れませんが、
これも又おさらい程度に少々。
御承知置きの通り、蓬莱とは古代中国において著された、
地誌「山海経(せんがいきょう)」他に登場する霊地・仙境。
古くは蓬莱島という孤島であるとか、
山東省の一部であるとか言い伝えられていたものが、
歳月を経るうちには国境を越え、
我が邦の “ 富士 ” 、“ 熊野 ” 、そして “ 熱田 ” 、
これら三カ所こそが蓬莱であるとされました。

そんなに幾つも蓬莱が在っていいのかと思わぬでもありませんが、
何にせよ熱田の地は蓬莱の仙境と見做されたのであります。
そもそもの話、なぜ蓬莱が霊威霊気に満ちた仙界仙境なのか?
一説に蓬莱というのは単なる土地ではなく、
超巨大動物の背中であるがゆえに蓬莱なのだそうで、
その超巨大動物というのが “ 亀 ” 。

ま、この辺りは別段おどろくこともありません。
古来「鶴は千年、亀は万年」と謂われ、
また北の方角を守る四神霊獣と言えば神亀たる「玄武」。
驚くとすれば熱田神宮の広大な境内をして、
“ 霊的大亀の背中である ” とした想像力でありましょうか。

ともかく熱田は蓬莱であるがゆえに、
永きに亘り神威に満ち、霊威に溢れる “ 場 ” とされ、
伝説の真偽はさて措くとしても、
事実1900年の星霜に洗われて、なお大勢の参拝客が訪れる、
一大聖地たり得ている・・・というわけであります。

さて、ここまでで随分と字数を費やしてしまいましたが、
本日記させて頂きたい “ 熱田伝説 ” は、ここからなのであります。
え?・・・もういい?
いや、すぐに終わりますので今少しお付き合い下さい。

以前のブログでも触れましたコチラの社殿。

「お清水」とある通り、
この社殿裏手には “ 水場 ” があるのですが、不可解なのは、
解説の書かれた立て札にある「楊貴妃の石塔の一部」の一文。
一体、何がゆえに「楊貴妃の石塔の一部」が、
熱田神宮境内に鎮まっているのでありましょうか?

その背景として忘れてはならないのが、
先の “ 熱田=蓬莱説 ” なのであります。
ここで登場するのが中国は唐代の詩人・白居易(772~846)。
“ 白楽天 ” の呼び名でも知られる詩聖の代表作と言えば、
「長恨歌(ちょうごんか)」。
玄宗皇帝と楊貴妃の間に紡がれた悲恋の逸話を、
七言古詩(しちごんこし)の形式で詠んだもので、
「長恨歌」の「恨」とは「恨(うら)み」ではなく、
「哀切の情」とか「痛恨の想い」といったような意味。
120句に及ぶ長さで哀切痛恨が歌われるがゆえの「長恨歌」、
その第104句に、

『蓬莱宮中日月長(ほうらいぐうちゅう じつげつながし)』

と出てきます。
若い身空で命を失い玄宗と幽明を分つことになった楊貴妃は、
蓬莱に在る宮殿の中に、その魂を置くこととなり、
「あぁ私は蓬莱での暮らしが長くなってしまった」、
つまり現世に生きる玄宗とは二度と会う事が出来ないと、
詩聖は彼女に代わって嘆くのでした。

楊貴妃の魂が在ると長恨歌に謳われた “ 蓬莱 ” と、
熱田の浄域という “ 蓬莱 ” 。
国も時代も隔てて無関係だった二つの “ 蓬莱 ” 、
「あの世」と「この世」の違いを持つ二つの “ 蓬莱 ” 、
本来的には繋がるはずのない二つの “ 蓬莱 ” が、
いにしえの人々の観想力・想像力、或いはまた、
見立て、重ね合わせ、照応させる力といったものにより、
いつしか別々の存在ではなくなり繋がっていったのであります。

そういった辺りを踏まえた上でコチラの光景を御覧下さい。

女性の方々が熱心に水をかけておられます。
宙を舞う水の向かう先に在るのが・・・、


件の「楊貴妃の石塔の一部」と伝えられる石。

知らずば「ただの石」。
その「ただの石」が、時の巡りの中、
人間の心・思考・意識・言葉・文化等々と交わり結び合うことで、
「ただの石」から「ただならぬ石」へと変貌を遂げます。

想えば 「ただの剣」であったはずのものに霊威が宿り、
「ただならぬ剣」として崇められ、
「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」の尊称を冠せられ、
その「草薙神剣」を御霊代(みたましろ)として、
天照大御神(あまてらすおおみかみ)が降臨し、
その天照大御神が宿った「草薙神剣」を、
“ 熱田大神(あつたのおおかみ)” として祀るのが、
熱田神宮でありました。

“ それ ” は “ それ ” のまま、
“ それ ” に宿る意味や意義が変化変容してゆく不思議。
その不思議を探るつもりが、もはや紙幅も尽きました。

長々と駄文を垂れてしまいましたが、

数々伝えられる “ 熱田の伝説 ” 、その全ては生きています。


“ Toward the light Ⅲ ”
~ 何度でも挑もう ~

皆様、良き日々でありますように!


               









年度末お礼参り

2025-03-30 16:08:12 | 神社仏閣
4月1日からは令和7年度が始まります。
令和6年度を振り返りますと、職場の方々および若い命たちから、
多くの学びや気付きを授かった1年でありました。
その一方で、恥ずかしながらと申しましょうか、
心身の衰えによる幾度かの転倒、持病の悪化等々、

“ いのちあるもののさだめ ”

とでも言うべきものを否応無く感じる1年でもありました。
洋の東西を問わず、
古来「厄年(やくどし)」と呼ばれる年回りがあります。
早川は、この「厄年」なる考え方が今ひとつ理解出来ず、
自分が「厄年」なのかどうかを調べたことがありません。
只、我が身に点滅する不調のサインに意識を向けてみますと、
個々人によって千差万別あろうかとは思いますが、
心と身体に変化変調をきたす時期というのは確かにあると、
そのようにも感じられてまいります。

そういった辺りを想いつつ、
何とか令和6年度を終えられたことへの感謝を捧げるべく、
「年度末お礼参り」として幾つかの寺社を巡ってまいりました。

城山八幡宮では感謝の拝を為すと共に、
新年度の交通安全祈願を申し込み、
自転車の「清祓(きよはらい)」を受けてまいりました。

祭事を執り行って下さった神主さんの祝詞奏上が美しく、
実に心洗われるものでありました。


夥しい数の “ 天神くん ” が出迎えてくれるのは、

名古屋天神・上野天満宮。


映画「陰陽師ゼロ」の終盤では、
主人公・安倍晴明(921~1005)によって、
菅原道真公(845~903)の神霊が召喚され、

梅の大樹が大きな役割を果たしていました。


こちらは、

安倍晴明を祀る晴明殿。


成田山新勝寺 名古屋 栄分院「萬福院」へもお礼参り。

この日は御縁日ということもあって、
多くの参詣者で賑わっていました。


光陰、矢の如し。

若い命たちとの交流も、いよいよ3年目に入ります。


“ いのち ” との関わり合いにおいて、
「馴れ」と「過信」は禁物と自らの肝に銘じ、

気持ちも新たに日々を歩んでまいります。


“ Mt.Fuji and spiritual Dragon Ⅲ ”
~ 霊峰霊龍 其の三 ~

皆様、良き日々でありますように!


               








昇殿参拝

2025-01-26 15:33:15 | 神社仏閣
初詣の余韻ただよう城山八幡宮。

報恩感謝の真心を捧げると共に、
本年の心身清浄を願って昇殿参拝してまいりました。


例年、交通安全祈願の昇殿参拝に伺っておりますが、
それは4月の新年度開始前の時期。

新年早々、正月中の昇殿参拝は今回が初めてであります。


節分が近いということもあり、
暦に先駆けて “ 豆撒き ” 祭事にも加えさせて頂きました。

上掲の拝殿、向かって左側の廊下から、
参列者の方々と共に豆を撒きます。

「鬼は~そと、福は~うち!」

声を張りながら豆を撒いたのは子供の頃以来でしょうか。
只、その当時から幾星霜を世に経りてみますと、
鬼が福をもたらし、福が鬼へと転じたこと数知れず。
また他者にとっては鬼と感じられる存在が、
我が身にとっては福そのものという場合もあれば、
その逆もあり。
そういった辺りの大らかな息づかいを伝えつつ、
鬼もまた曼荼羅の最外院に説かれる一尊であるとして、
千葉県成田山新勝寺や東京深川不動堂等におかれては、
節分会追儺式(ついなしき)の掛け声は、
『福は~うち』のみ。

司馬遷(一説に紀元前145~同87)「史記・南越伝」に載る、
『禍福はあざなえる縄の如し』に倣って、
「鬼福は寄せ返す波のごとし」とでも申しましょうか。

個人的にはユルい感じで「鬼も~よし、福も~よし!」。


“ ARA - MITAMA ”
~ 揮え 振るえ 荒御魂 ~

皆様、良き日々でありますように!


               








貴船の社

2024-09-08 16:55:18 | 神社仏閣
先ほど(令和6年9月8日午後)参拝してまいりましたのは、
名古屋市は一社に鎮座すること約350年。

貴船神社であります。


当ブログでは幾度も訪れる場所でありますが、

この「幾度も訪れる」という辺りが、
個人的には神社仏閣参拝の “ 妙味 ” と心得ます。


心理学では、
特定の人と会う「頻度」が高ければ、
その人との親しさも高まることを、

「頻回の法則」と説き、


人は笑顔を向けられれば、笑顔を返したくなり、
感謝されれば、感謝で報いたくなるものであることを、

「返報性の法則」と唱えるのは周知のところ。


「頻回の法則」といい「返報性の法則」といい、
この分かりきった心的作用の数々は、

何も人間関係に限ったことではないはず。



同じ神社仏閣に足繁く通い、拝を為し、手を合わす内には、
そこに祀られる神尊なり仏尊なりと、

響きが和してくる、律動や拍子が合ってくる、
総じて縁と絆が深まってゆくものと思われます。


~ 霧の龍王社 ~

皆様、良き日々でありますように!


               









台風が来る前に大須へ

2024-08-25 13:52:02 | 神社仏閣
台風が来る前にと思い立ち、
北野山真福寺宝生院、通称「大須観音」を参拝しました。

晩夏特有の不安定な天候のためでしょうか、或いは、
既に台風の影響が出始めているためでしょうか、
曇りがちな上、時折ザァーッと降ってくるような空模様。


欧米諸国から、中国大陸から、東南アジアからと、
参拝者の多くはインバウンドのお客様で、
薫煙絶ゆることなき大香炉を珍しげに御覧でした。

早川が多少なりとも英語に堪能であれば、
線香を供えることの理由なり、
本堂に祀られる観世音菩薩の意味なりを御案内できるのになぁ、
などと内心忸怩たる思いに駆られたりします。


尤も、外国人旅行者向けガイドブックには、
その辺りも詳しく解説されていると聞きます。

日本を楽しみ、日本を好きになって頂きたいですね。


我が身はと申せば “ 老いの坂道 ” を転がる身。
いつになったら四国八十八ヶ所霊場を巡拝できますか?
などと大師に問うてみたところ、

大師『知らんがな・・・』

                 

大須を訪れる度に参拝する富士浅間神社。

御祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。

以前にも記しました通り、明応4年(1495)、
後土御門(ごつちみかど)天皇の勅命による建立と伝えられ、
明治の世が訪れるまでの400年近くは、
富士山観音寺清寿院という寺院の鎮守神社だったそうです。

明治政府の方針に伴って吹き荒れた “ 廃仏毀釈 ” の嵐により、
富士山観音寺は消滅し、富士浅間神社が遺ったわけですが、
それまでの日本は長きに亘り、
その土地その寺院を守護するのは鎮守神社、
その地域その神社を管理するのは別当寺院という風に、
カミとホトケ、神社と寺院は、ほぼ “ ワンセット ” 。


見る度、言い知れぬ思いが去来するのは、
こちらの「鎮座五百十五年記念事業」の奉板。

明応4年(1495)の創建であれば、
鎮座五百十五年とは平成22年(2010)で、今から14年前。
以来こうして掛けられたままと思われますが、
果たして屋根の修繕事業は成ったのでありましょうか。

先に記しましたように、
大須富士浅間神社の創建は、後土御門天皇の勅命とされます。
この後土御門天皇(1442~1500)という方は、
在位期間が寛正5年(1464)~明応9年(1500)で、
22歳で即位してから崩御までの36年間、帝位に就かれています。
時は室町~戦国の動乱期。
即位後すぐに起きた応仁の乱により御所を撤退し、
10年に亘る避難所生活を強いられたとも伝わります。
戦災病災を始めとする世の中の有りさまに心を痛め、
北条政権との関係に神経をすり減らし、
信じていた者による政変に落胆しと、
どうにも御苦労続きだったようで、
「も、や~めた」
そう思われたのかどうか、5度に亘って譲位を願い、
5度とも政権や臣下によって却下されています。

また崩御された際、朝廷の財政は逼迫していて、
すぐには葬儀が執り行えなかったとも謂われます。

その辺りは伝説に過ぎないであろうとは思いつつも、
大須の富士浅間神社を訪れる度、
後土御門帝という人物のことが偲ばれると共に、
栄枯盛衰、興亡咲散、浮沈昇降、毀誉褒貶・・・、
“ 人の世の習い ” とでも申しましょうか、

諸行無常の響きを聴く想いがするのであります。

                 

『歴海が孔雀法を開壇して暫くすると、
 深閑としていた八大龍王社の森に風が起こり始め、
 樹葉はざわめき、野鳥は鳴き交わし、昆虫は羽音を立てた。
 大気に揺らぎが生まれ、動きが生じている。
 龍穴ノ池、その水面には細かな波紋が現れては消えた。
 歴海は既に末那識を越え阿頼耶識に身を投じ、
 深い瞑想状態で法を修しているため、
 そこに居ながら、そこに居ない。
 森の遥か上空では微かに、されど確かに、
 何かが渦を巻き始めていた。』

“ VORTEX Ⅰ ”

皆様、良き日々でありますように!