今年もユリの季節が巡り、
千種公園内のユリ園を訪れてまいりました。
古来、西洋宗教絵画においては、
左手にユリを捧げ持った大天使ガブリエルが、
聖母マリアの前に降臨して受胎告知を行う場面が、
繰り返し描かれてきました。
中でも、ヤン・ファン・エイク(1395~1441)や、
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)による作品は、
よく知られたところでもあり、当ブログでは、
毎年この時期「ガブリエルの左手には」というタイトルで、
千種公園のユリを掲載させて頂いております。
我が邦においては、
夏目漱石(1867~1916)や宮沢賢治(1896~1933)も、
ユリという多年性植物には格別の想いがあったようで、
夏目漱石は「夢十夜」で、
宮沢賢治は「ガドルフの百合」「四又の百合」で、
ユリを現実世界と幻想世界、
その境界領域に咲く花として登場させています。
本日は「四又(よまた)の百合」に触れてみます。

おそらくは古代インド、架空の国。
“ 正遍知(しょうへんち)” が訪れて下さるらしい・・・、
そのような報告が王様のもとに届きます。
“ 正遍知(しょうへんち)” とは、
仏(ほとけ)とか如来(にょらい)のこと。
以下、如来とします。

王様を始めとする王宮の為政者および国民は、
この報を受けて欣喜雀躍し、
早速、国を挙げて如来を迎える準備を始めます。

道という道は掃き浄められ、白い石英の砂が撒かれ、
千人分の食事が支度され、千人分の宿舎が建てられ、
如来が説法するための寺院が突貫工事で造営されます。

王様は興奮と緊張で眠れないまま、
されど爽やかな心地で如来を迎えに出発し、
如来が到着予定とされる “ ヒームキャ河 ” の岸辺に立ち、
ふと家臣に尋ねます。
『百合は もう咲いたか。』
(宮沢賢治「四又の百合」講談社刊・童話大全より、以下同)
そして、自分は百合の花を如来に捧げたいと明かし、
『大蔵大臣、お前は林へ行って百合の花を一茎
見附けて来てくれないか。』
命を受けた大蔵大臣は独りで林に入り百合を探すのですが、
どこにも見当たりません。
けれども林を巡り歩くうちに白く輝く家を発見。
『その家の前の栗の木の下に一人のはだしの子供が
まっ白な貝細工のような百合の
十の花のついた茎をもって
こっちを見ていました。』
さて、ここから交わされる大蔵大臣と子供とのやりとりが、
不思議かつ奇妙なものなのですが、

まずは大蔵大臣の、
『その百合を おれに売れ。』
という高慢にして横柄な物言い。

子供は「いいよ」と快く売ろうとするものの、
大臣『いくらだ』
子供『十銭』
大臣『十銭は高いな』
子供『五銭』
大臣『五銭は高いな』
子供『一銭』
大臣『そうか。一銭。それではこれでいいだろう』
と言うなり、
自らが着けていた紅宝玉(ルビー)のネックレスを外し、
子供に渡すのであります。

たった今『十銭は高いな』と言い、
子供相手に値切りに値切っていた大臣が、
極めて高価であろう宝石の首飾りを惜しげも無く与える。

もしかしたら大臣は最初から高額な首飾りを渡すつもりでいて、
値切り交渉は、ひとときの余興だったのかも知れません。
子供は大臣に向かって尋ねます。
その百合を誰に差し上げるのか・・・と。

「如来にあげるんだよ」と大臣が答えるのを聞くや、
「それなら返してくれ!」と子供は首飾りを投げ返すのです。
実はその百合、
子供が自分で如来に渡そうと思って摘んでいたのでした。

それを知った大臣「じゃあ返そう」と言うのですが、
何を思ったか、その子供は「やっぱりあげる」と。
この辺りの会話は賢治童話ならではの不思議さ、面白さ。
そもそも一国の大蔵大臣が林の中を歩き回り、
独りで百合を探すという設定が “ 変 ” ですよね。

賢治童話は “ 隠喩(メタファー)の海 ” であり、
如来を始め、王・大臣・百合・林・はだしの子供・
白く輝く家・栗の木・ルビーの首飾り等々、
全てが何らかの意味を秘めながら揺らいでいますが、
その意味自体もまた揺らぎの中に在り、
“ 隠喩の海 ” を泳ぐ読者は、それぞれが自由に意味を探り、
意味を求め、意味を創造してゆく楽しみに与ります。
例えば「四又の百合」の「四又(よまた)」とは何か。
童話の中に「四又」は一切出てきません。
ユリの花弁は6枚なので「六又(むまた)」でこそあれ、
「四又」ではないはず。
すると「四又の百合」とはユリの中でも特別なユリと、
そのようにも考えられます。

そこで巷間「四又」とは、仏教で説かれる “ 四無量心 ” 、
「慈・悲・喜・捨」という四つの心を指すのでは?
といった解釈を施す方もあれば、
「四又」が示す「四」という数字、
「百合」が宿す「百」という数字、
それらの数字そのものに意味ありと説く方もおられます。
「四又の百合」という題名ですので、
意外と『はだしの子供』の名前が「四又(ヨマタ)」で、
ヨマタ君は仏教説話に現れる “ 聖なる童子 ” であり、
如来の先触れ、もしくは如来なのかも知れません。
思えば仏教開祖:釈尊の異名は「雪山童子(せっせんどうじ)」。
それはともかく、百合を手に入れた大臣は、
『お城においで』
と子供に告げヒームキャ河に戻り、
岸辺に立つ王様に百合を手渡します。
『立派な百合だ。ほんとうに。ありがとう。』
そう言って恭々しく押し頂く王様。

さぁいよいよ如来が到着するようで、
『川の向こうの青い林のこっちに
かすかな黄金(きん)いろが
ぽっと虹のように のぼるのが見えました。』
王様はひざまづき、付き従う出迎えの総勢は地にひれ伏します。

物語を締め括る最後の一文は、
『二億年ばかり前
どこかであったことのような気がします。』
これは童話なのか、
賢治が好んだ法華経の中に説かれた光景なのか、
それとも賢治が観た白昼夢なのか。

『二億年ばかり前
どこかであったことのような気がします。』
地球から “ わし座 ” 方向へ約二億光年の先には、
渦巻銀河 “ UGC 11537 ” があります。
この銀河の中心には超巨大ブラックホールがあるとされます。

賢治は唄いました。
“ 赤い目玉のさそり
ひろげた鷲(わし)のつばさ ”
賢治の心は、

今なお何億光年を隔てた銀河を巡り、
『石炭袋』と名付けたブラックホールを訪れ、
事象の地平面を往来しているのでありましょう。
『二億年ばかり前
どこかであったことのような気がします。』

皆様、良き日々でありますように!






千種公園内のユリ園を訪れてまいりました。
古来、西洋宗教絵画においては、
左手にユリを捧げ持った大天使ガブリエルが、
聖母マリアの前に降臨して受胎告知を行う場面が、
繰り返し描かれてきました。
中でも、ヤン・ファン・エイク(1395~1441)や、
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)による作品は、
よく知られたところでもあり、当ブログでは、
毎年この時期「ガブリエルの左手には」というタイトルで、
千種公園のユリを掲載させて頂いております。
我が邦においては、
夏目漱石(1867~1916)や宮沢賢治(1896~1933)も、
ユリという多年性植物には格別の想いがあったようで、
夏目漱石は「夢十夜」で、
宮沢賢治は「ガドルフの百合」「四又の百合」で、
ユリを現実世界と幻想世界、
その境界領域に咲く花として登場させています。
本日は「四又(よまた)の百合」に触れてみます。

おそらくは古代インド、架空の国。
“ 正遍知(しょうへんち)” が訪れて下さるらしい・・・、
そのような報告が王様のもとに届きます。
“ 正遍知(しょうへんち)” とは、
仏(ほとけ)とか如来(にょらい)のこと。
以下、如来とします。

王様を始めとする王宮の為政者および国民は、
この報を受けて欣喜雀躍し、
早速、国を挙げて如来を迎える準備を始めます。

道という道は掃き浄められ、白い石英の砂が撒かれ、
千人分の食事が支度され、千人分の宿舎が建てられ、
如来が説法するための寺院が突貫工事で造営されます。

王様は興奮と緊張で眠れないまま、
されど爽やかな心地で如来を迎えに出発し、
如来が到着予定とされる “ ヒームキャ河 ” の岸辺に立ち、
ふと家臣に尋ねます。
『百合は もう咲いたか。』
(宮沢賢治「四又の百合」講談社刊・童話大全より、以下同)
そして、自分は百合の花を如来に捧げたいと明かし、
『大蔵大臣、お前は林へ行って百合の花を一茎
見附けて来てくれないか。』
命を受けた大蔵大臣は独りで林に入り百合を探すのですが、
どこにも見当たりません。
けれども林を巡り歩くうちに白く輝く家を発見。
『その家の前の栗の木の下に一人のはだしの子供が
まっ白な貝細工のような百合の
十の花のついた茎をもって
こっちを見ていました。』
さて、ここから交わされる大蔵大臣と子供とのやりとりが、
不思議かつ奇妙なものなのですが、

まずは大蔵大臣の、
『その百合を おれに売れ。』
という高慢にして横柄な物言い。

子供は「いいよ」と快く売ろうとするものの、
大臣『いくらだ』
子供『十銭』
大臣『十銭は高いな』
子供『五銭』
大臣『五銭は高いな』
子供『一銭』
大臣『そうか。一銭。それではこれでいいだろう』
と言うなり、
自らが着けていた紅宝玉(ルビー)のネックレスを外し、
子供に渡すのであります。

たった今『十銭は高いな』と言い、
子供相手に値切りに値切っていた大臣が、
極めて高価であろう宝石の首飾りを惜しげも無く与える。

もしかしたら大臣は最初から高額な首飾りを渡すつもりでいて、
値切り交渉は、ひとときの余興だったのかも知れません。
子供は大臣に向かって尋ねます。
その百合を誰に差し上げるのか・・・と。

「如来にあげるんだよ」と大臣が答えるのを聞くや、
「それなら返してくれ!」と子供は首飾りを投げ返すのです。
実はその百合、
子供が自分で如来に渡そうと思って摘んでいたのでした。

それを知った大臣「じゃあ返そう」と言うのですが、
何を思ったか、その子供は「やっぱりあげる」と。
この辺りの会話は賢治童話ならではの不思議さ、面白さ。
そもそも一国の大蔵大臣が林の中を歩き回り、
独りで百合を探すという設定が “ 変 ” ですよね。

賢治童話は “ 隠喩(メタファー)の海 ” であり、
如来を始め、王・大臣・百合・林・はだしの子供・
白く輝く家・栗の木・ルビーの首飾り等々、
全てが何らかの意味を秘めながら揺らいでいますが、
その意味自体もまた揺らぎの中に在り、
“ 隠喩の海 ” を泳ぐ読者は、それぞれが自由に意味を探り、
意味を求め、意味を創造してゆく楽しみに与ります。
例えば「四又の百合」の「四又(よまた)」とは何か。
童話の中に「四又」は一切出てきません。
ユリの花弁は6枚なので「六又(むまた)」でこそあれ、
「四又」ではないはず。
すると「四又の百合」とはユリの中でも特別なユリと、
そのようにも考えられます。

そこで巷間「四又」とは、仏教で説かれる “ 四無量心 ” 、
「慈・悲・喜・捨」という四つの心を指すのでは?
といった解釈を施す方もあれば、
「四又」が示す「四」という数字、
「百合」が宿す「百」という数字、
それらの数字そのものに意味ありと説く方もおられます。
「四又の百合」という題名ですので、
意外と『はだしの子供』の名前が「四又(ヨマタ)」で、
ヨマタ君は仏教説話に現れる “ 聖なる童子 ” であり、
如来の先触れ、もしくは如来なのかも知れません。
思えば仏教開祖:釈尊の異名は「雪山童子(せっせんどうじ)」。
それはともかく、百合を手に入れた大臣は、
『お城においで』
と子供に告げヒームキャ河に戻り、
岸辺に立つ王様に百合を手渡します。
『立派な百合だ。ほんとうに。ありがとう。』
そう言って恭々しく押し頂く王様。

さぁいよいよ如来が到着するようで、
『川の向こうの青い林のこっちに
かすかな黄金(きん)いろが
ぽっと虹のように のぼるのが見えました。』
王様はひざまづき、付き従う出迎えの総勢は地にひれ伏します。

物語を締め括る最後の一文は、
『二億年ばかり前
どこかであったことのような気がします。』
これは童話なのか、
賢治が好んだ法華経の中に説かれた光景なのか、
それとも賢治が観た白昼夢なのか。

『二億年ばかり前
どこかであったことのような気がします。』
地球から “ わし座 ” 方向へ約二億光年の先には、
渦巻銀河 “ UGC 11537 ” があります。
この銀河の中心には超巨大ブラックホールがあるとされます。

賢治は唄いました。
“ 赤い目玉のさそり
ひろげた鷲(わし)のつばさ ”
賢治の心は、

今なお何億光年を隔てた銀河を巡り、
『石炭袋』と名付けたブラックホールを訪れ、
事象の地平面を往来しているのでありましょう。
『二億年ばかり前
どこかであったことのような気がします。』

皆様、良き日々でありますように!





