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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

渦潮桜 ~ うずしおざくら

2020-04-12 13:33:18 | 音楽
〈気ノ池・気ノ森〉の周辺は公園として整備され、
そこにはたくさんの桜が植えられています。
毎朝、公園前にある通勤バスの停留所に向かうのですが、
この季節は、いかに無粋俗物のワタクシめであっても、
桜という小生命を通して移ろってゆく、
春という大生命の見えざる流れに深く打たれ、
心を揺さぶられずにはいられません。

特に今春において心を震わせられる理由は、
新型コロナウィルス感染拡大という現況下にあって、
「もしかしたら自分にも死が訪れるかも知れない。」
「来年の桜は観ることが出来ないかも知れない。」などといった、
平常時では思わないことを思うからかも知れません。

レイチェル・カーソン(1907~1964)は、
その著書“ SENSE OF WONDER ”の中で読者に対し、読者一人一人が、
「もう自分は明日を迎えることはない」という想いを抱いて、
目の前に広がる世界と向き合ってみて欲しいと訴え、
ほんの束の間でも、もしそのような想いで世界と向き合えたなら、
世界は、切ないまでに感動的な姿を現すだろうと謳いました。

これは読者に向けて、一つの思考実験として勧めたわけですが、
カーソン先生自身は、この時すでに末期がんを患っていて、
「もう自分は明日を迎えることはない」という自覚の中にあり、
執筆後、56年の生涯を終えて旅立たれます。

               

〈限りある命〉を想う時、
誰しもの内界に湧き上がるとされる“ SENSE OF WONDER ”は、
愛しみ・慈しみ・もののあわれ、といった感覚と重なります。

新型コロナウィルス感染の拡がりを受けて、
否が応でもを〈限りある命〉を自覚せざるを得ないという状況は、
私自身の内界に宿る“ SENSE OF WONDER ”のひとひらを、
図らずも揺り動かすこととなったようで、
通勤バスが来るまでの僅かな時間でさえ惜しく感じられ、
心急くままに桜と触れ合ってまいりました。
ゆく春への惜情を御一緒させて頂けましたら有り難く存じます。


渦潮桜 ~ うずしおざくら
背景音楽には、2009年に作曲したストック楽曲を使用。

渦潮桜(うずしおざくら)は実在の品種ではありません。
動画冒頭の桜は、今にも朽ち果てそうな老木ですが、
余程深く大きく、その根を地中に張っているのかして、
捻じれ、曲がり、傷付いた幹を通して尚、枝の隅々にまで力を送り、
空いっぱいに花を咲かせます。

渦巻き状に天へと向かうような樹態が無意識の層に働きかけ、
私の脳内に〈鳴門の渦潮〉か何かのイメージを結ぶのか、
この老桜の前に佇んでおりますと、いつも決まって、
聞こえるはずのない潮騒が、遠く近く聴こえてくるような気がして、
いつしか「渦潮桜」と呼ぶようになりました。
老桜にしてみれば、あまり嬉しくない呼び名かも知れません。



皆様、くれぐれも御体調等お気をつけ下さい。

              








Silva Renatus ~ 息継ぎの森

2020-04-05 15:18:18 | 音楽
“ Silva Renatus(シルヴァ・レナトゥス)”

“ Silva / シルヴァ ”はラテン語で「森・山水」。
ヴラド3世いわゆるドラキュラ伯爵の領地・トランシルヴァニアは、
トランス=シルヴァ・・・森の向こう、という意味なのだとか。
“ Renatus / レナトゥス ”は「再び」を表す“ Re ”と、
「生れ出る」を指す“ Natus ”から成り「再生・蘇生」の意。
“ レナート ”という名前は、この言葉からの派生語だそうです。

・・・などと、分かりもしないラテン語をひねるという、
早川の愚かしさはお笑いいただくとして、
“ Silva Renatus ”とはつまり「再生の森・蘇生の山水」。

足繁く通う〈気ノ池・気ノ森〉は、
規模や面積といったところで申し上げるならば、
正直なところ、こじんまりとした小さなものですが、
私自身にとっては、まさしく“ Silva Renatus ”なのであります。
ただ、森に入り水辺に憩う時、
「再生」や「蘇生」といった大上段に構えた感覚はなく、
日々の生活で乱れた呼吸を整える〈息継ぎ〉の場所といった感じで、
それゆえに“ Silva Renatus ”をして〈息継ぎの森〉と。

音楽自体は、2009年に作曲したもので、いま聴き直しますと、
深みに欠けた浅薄なものですが、それはそれとして動画上の映像は、
一部を除き、およそ先月から昨日までの〈気ノ池・気ノ森〉です。
現今の時節柄、マスク着用・除菌アルコール携帯等の策を講じ、
無人の場所を選んで撮影し速やかな帰宅を心掛けております。

僭越ながら〈息継ぎの森〉の何気ない風景が、多少なりとも、
御覧頂いた方の心の息継ぎとなりましたら望外の喜びであります。

Silva Renatus ~ 息継ぎの森



新型コロナウィルス感染拡大を受けて息詰まる日々。
それでも必ず状況は好転すると信じ、
一日も早い事態の収束を切に祈ります。


              






ピアノ版「うつろい」~桜の章

2019-04-07 14:46:00 | 音楽
春萌える・・・と、そこに

思いがけず白鷺が舞い込んで来ました。


桜咲ふ・・・と、よく見たら

その下を歩く女の子のヘルメットも桜色でした。

               

以前のブロブ記事でも紹介させて頂きました
ピアニストの岩崎幸一さんが、
早川作曲の組曲「うつろい」から「桜の章」を、
ソロピアノ版として御自身で編曲し演奏して下さいました。

カンパネラ・ピアノコンサート(2019年3月30日)

東京都東大和市・ミュージックスタジオ・カリヨン

岩崎さんは、
ジストニアという未だ完治法が見つかっていない難病により、
演奏中に、指が自らの意志に反し屈曲して戻りません。
演奏家にとっては苛酷とも言える状況に在りながらも、
様々な知恵と工夫とで音楽とピアノに向き合っておられます。

その姿勢をリスペクトすると共に、
岩崎さんが組曲「うつろい」を慈しんで下さり、
特に「桜の章」と真摯に向き合って頂いたことに、
心から感謝するものであります。

岩崎さんが演奏するピアノが醸し出す雰囲気・抑揚・感情・
詩情、そして何よりも〈間(ま)〉の数々は、
作曲者の私自身が心に描いていた音楽世界であり、加えて、
岩崎さんは作曲家でもあり又ジャズに造詣が深く、
オリジナルとは違う和声と転調の技法を駆使して、
新たな「うつろい」の世界を創造しておられます。
是非ともお聴き下さい。

ピアノ版「うつろい」~桜の章


               

上掲動画中の桜は、気ノ池・気の森周辺の桜ですが、
こちらは昨日(2019/4/6)の

城山八幡宮境内に根を下ろす枝垂れ桜

城山八幡宮には、
桜の姫神・木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)が、
合祀されていることを想いますと、枝垂れ桜の一枝一輪にも、
霊峰の息吹を感じます。

皆様、良き日々でありますように!


              










Life goes on 2(1997)

2019-02-17 14:56:33 | 音楽
昨年末のブログ記事では、
引っ越し荷物に入っていたMD(ミニディスク)から、
“ Life goes on 1 ”(1995)を貼らせて頂きましたが、
今回は、同じ頃に作曲した“ Life goes on 2 ”(1997)を、
〈気ノ池・気の森〉の風景と共に。



               

住まう場所に〈気ノ池・気ノ森〉があることに感謝し、
言わば道場と定めて、その池畔に立ち、樹間を歩むことが、
現況唯一の喜びであります。

恥ずかしげもなく〈道場〉などと書いてしまいましたが、
別に何という程のことではありません。
大空を屋根、大地を床、日月星辰を明かりと見立てれば、
一円一銭もかからずに、自分だけの自然壮麗なる道場が、
そこに現れ出るものと思い込んでいるだけのこと。

とは申せ、この時期の〈気ノ池・気ノ森〉は、
伊吹おろしと濃尾平野の地形が生む凍てた大気に覆われて、
手はかじかみ足は固まり、そのせいで転んだり怪我をします。
で、その度にワタクシめは、

「冬の寒さよ、✖✖✖?この✖✖✖が!
 一体いつまで✖✖✖で、この俺を✖✖✖のか!?」

と毒づくのであります。

普段は、
「人は生かされている」だの「自然への感謝の心」だのと、
知った風な事を思ったり語ったりしている自分が、
聞くに堪えない言葉で冬の寒さに文句を言う・・・、
こういうのを「修行不足」と言うのでありましょう。

道を想い、道を行う場であるがゆえに〈道場〉でありますが、
上記のようなお粗末な事情により、ワタクシめ自身にとって、
「道を想う」とは、自らの至らなさを内省すること、
「道を行う」とは、修行によって修行不足を確認すること、
それ以外には何ひとつありません。

世の中には、修行・精進・練習・トレーニング等によって、
人間的成長や技の向上を果たされる方々が大勢おられます。
うらやましい限りであります。



命には限りあれど 道は果てなし


              









“ Life goes on 1 ″

2018-12-23 14:18:25 | 音楽
名古屋駅前のロータリーに設置された

〈飛翔〉という名のモニュメント。

年号が「平成」へと変わったことを記念して製作され、
名古屋・玄関口の顔として30年。
間もなく訪れる「平成」の終わりと共に撤去されます。

遷移する時間の中で、
それまでそこに有ったものが、そこから無くなり、
それまでそこに無かったものが、そこに現れ、
それまでそこに生きていた命が、そこから去り、
それまでそこに存在していなかった命が、そこに訪れます。

私という人間は、そうした事象に翻弄され、
善し悪し・有る無し・出会う別れる・生きる死ぬ・・・
といったことの一つ一つに一喜一憂し続けるのですが、
仏教は、そうした一喜一憂を肯定しつつも、
一切の現象は、只そのように感じられるだけの事であり、
一切の現象は「空(くう)」が姿を変えているに過ぎない、
として、
一喜一憂に淀みがちな内界の空気を時には換気せよ・・・、
と勧めるのであります。

               

平成年代に入って間もない頃に作った楽曲が、
当地へ転居後も開封していなかった荷物の中から出てきました。

かつて普及したMD(ミニ・ディスク)なる媒体に収めたそれは、
お粗末な若書きゆえに御視聴を願えるものではありませんが、
私自身の備忘録の一つとして〈気ノ池・気の森〉の風景と共に。

Life goes on 1(1995)



人生における空模様は、晴天よりも雨天曇天の方が多いもの。
しかし鉛色の雲に覆われた暗い日々にも良い所があるとすれば、
それは、暗さの中にいる分、時おり射し込む微かな光さえもが、
とても温かく、また有り難く感じられる所かも知れません。