城山八幡宮・拝殿に向かって左側に歩を進めますと、
大山祇神(オオヤマツミノカミ)を始めとする三柱の神々が、
それぞれ三宇の小社に祀られていて、その手前には、

ヒトツバタゴの樹が花期を迎えていました。(写真は5月9日)
この「ヒトツバタゴ」という名称の分節点を、
私は長らく「ヒトツ・バタゴ」と思い込んでおりましたが、
正しくは「ヒトツバ・タゴ」で「複葉ではなく、ひとつ葉のタゴ」、
という意味なのだそうです。分節点と言えば、
「ヘリコプター」は「ヘリコ・プター」
「キリマンジャロ」」は「キリマ・ンジャロ」等々、
正しい分節点を知って驚く類例は少なくありません。
そのヒトツバタゴの樹。
現況下にあって人数は少ないものの、訪れた参拝者の方々は、
降り積もった白雪のような花を見上げては、

「きれいだねぇ、気持ちが楽になるね」と感に堪えておられました。



コロナ禍による不安な日々の中、静かに立つヒトツバタゴの姿が、
束の間なりとも、その心に明かりを灯すのを見ております内に、
ふと脳裡をよぎりましたのは、折に触れて想いを巡らせる、
『音楽の由来するところは遠し。
度量に於いて生じ、
太一に於いて基づく。』
という、〈呂氏春秋〉に記された一節。
今を遡ること約2200年前に編纂された、この書の中において、
歴史上初めて『音楽』という言葉と文字が登場したと伝わります。
「度量において生じ」というのは、
音の高低(度)や音の大小(量)、又それらの様々な組み合わせ等、
主に聴覚で捉え得る音の組織や流れ、音響現象として生じ・・・、
という意味で、歴史の中で発展する音楽理論に依拠する音楽、
つまりは、人間が作ったり奏でたりする音楽のことを指します。
この人間が作ったり奏でたりする音楽には、
誰かを楽しませよう、勇気づけようといった願いや意思が入り、
悪意なく、むしろ善意を以って作られ奏でられるものだとしても、
そこには必ずや何らかの意図や作為というものが働きます。
それに引き換え、境内に立つヒトツバタゴの樹は、
人を喜ばそうとか、癒そうなどという意図や作為はさらさら無く、
只そこに在って自身の生命活動を紡いでいるに過ぎないものの、
結果的に、その姿に触れた参拝者の心身をして、
「気持ちが楽になる」という状態を導き出しています。
天地、いわゆる“ アメツチ ”の活動全体を音楽として捉え、
これを仮に〈大音楽〉と名付けて観想してみますと、
“ アメツチ ”が創り“ アメツチ ”が奏でる〈大音楽〉に比して、
人間が作り奏でる音楽は〈小音楽〉という風にも考えられます。
〈小音楽〉は、作為巧妙にして可聴の世界に成り立ち、
〈大音楽〉は、無為自然にして沈黙の世界に満ちる。
先の参拝者の方々が、
ヒトツバタゴの樹を観て「気持ちが楽」になったのは、
ヒトツバタゴの樹をよすがとして、
“ アメツチ ”が奏でる〈大音楽〉の一端に触れたから。
そのような気もしてくるのであります。
『音楽の由来するところは遠し。
度量に於いて生じ、
太一に於いて基づく。』
「〈小音楽〉の母体は〈大音楽〉なのだよ・・・」
いつもながらの浅はかな妄想とは知りつつも、
五月の風の中に、声なき声を聴く思いがします。




大山祇神(オオヤマツミノカミ)を始めとする三柱の神々が、
それぞれ三宇の小社に祀られていて、その手前には、

ヒトツバタゴの樹が花期を迎えていました。(写真は5月9日)
この「ヒトツバタゴ」という名称の分節点を、
私は長らく「ヒトツ・バタゴ」と思い込んでおりましたが、
正しくは「ヒトツバ・タゴ」で「複葉ではなく、ひとつ葉のタゴ」、
という意味なのだそうです。分節点と言えば、
「ヘリコプター」は「ヘリコ・プター」
「キリマンジャロ」」は「キリマ・ンジャロ」等々、
正しい分節点を知って驚く類例は少なくありません。
そのヒトツバタゴの樹。
現況下にあって人数は少ないものの、訪れた参拝者の方々は、
降り積もった白雪のような花を見上げては、

「きれいだねぇ、気持ちが楽になるね」と感に堪えておられました。



コロナ禍による不安な日々の中、静かに立つヒトツバタゴの姿が、
束の間なりとも、その心に明かりを灯すのを見ております内に、
ふと脳裡をよぎりましたのは、折に触れて想いを巡らせる、
『音楽の由来するところは遠し。
度量に於いて生じ、
太一に於いて基づく。』
という、〈呂氏春秋〉に記された一節。
今を遡ること約2200年前に編纂された、この書の中において、
歴史上初めて『音楽』という言葉と文字が登場したと伝わります。
「度量において生じ」というのは、
音の高低(度)や音の大小(量)、又それらの様々な組み合わせ等、
主に聴覚で捉え得る音の組織や流れ、音響現象として生じ・・・、
という意味で、歴史の中で発展する音楽理論に依拠する音楽、
つまりは、人間が作ったり奏でたりする音楽のことを指します。
この人間が作ったり奏でたりする音楽には、
誰かを楽しませよう、勇気づけようといった願いや意思が入り、
悪意なく、むしろ善意を以って作られ奏でられるものだとしても、
そこには必ずや何らかの意図や作為というものが働きます。
それに引き換え、境内に立つヒトツバタゴの樹は、
人を喜ばそうとか、癒そうなどという意図や作為はさらさら無く、
只そこに在って自身の生命活動を紡いでいるに過ぎないものの、
結果的に、その姿に触れた参拝者の心身をして、
「気持ちが楽になる」という状態を導き出しています。
天地、いわゆる“ アメツチ ”の活動全体を音楽として捉え、
これを仮に〈大音楽〉と名付けて観想してみますと、
“ アメツチ ”が創り“ アメツチ ”が奏でる〈大音楽〉に比して、
人間が作り奏でる音楽は〈小音楽〉という風にも考えられます。
〈小音楽〉は、作為巧妙にして可聴の世界に成り立ち、
〈大音楽〉は、無為自然にして沈黙の世界に満ちる。
先の参拝者の方々が、
ヒトツバタゴの樹を観て「気持ちが楽」になったのは、
ヒトツバタゴの樹をよすがとして、
“ アメツチ ”が奏でる〈大音楽〉の一端に触れたから。
そのような気もしてくるのであります。
『音楽の由来するところは遠し。
度量に於いて生じ、
太一に於いて基づく。』
「〈小音楽〉の母体は〈大音楽〉なのだよ・・・」
いつもながらの浅はかな妄想とは知りつつも、
五月の風の中に、声なき声を聴く思いがします。



