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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

楽聖は鉛中毒だった?

2021-12-19 14:38:46 | 音楽関係
去る12月16日は、ベートーヴェン(1770~1827)の誕生日でした。
生涯の大部分を難聴と消化器疾患に苦しめられつつも、
数多くの名曲を生み、その死後200年に亘って聴き継がれ、
これからも人々の心に明かりを灯し続ける大師匠でありますが、
その病因については諸説あり、難聴や消化器疾患の症状が、
何に由来するのかは未だ特定されていません。

“ BRAIN and NERVE ” Vol.73 No.12(2021年12月号)では、
「芸術家と神経学」という特集が組まれています。
特集の中に掲載された、
東京大学大学院・総合文化研究科教授:酒井邦嘉先生による、

「ベートーヴェンの病跡と芸術」

を読ませていただき、
ベートーヴェンの病因として有力なものの一つが、
「鉛中毒」であることを知りました。

『しかし、近年の議論で興味深いのは、
 「鉛中毒(鉛毒, lead intoxication)」の可能性である。
 ベートーヴェンの遺髪と頭蓋骨頭頂部の両方から、
 通常の40倍を超える高濃度の鉛が検出されたからである。
 鉛の長期摂取による慢性症状には、
 肝毒性や胃腸疾患(激しい腹痛に下痢や嘔吐)に加え、
 稀に中枢神経系の損傷や感覚障害(視覚障害や進行性聴力損失)
 などが含まれる。当時の安物のワインには、
 苦み消しのため鉛を添加することが違法に行われており、
 ベートーヴェンがそうした低品質のワインを長期にわたり
 常飲することで、大量の鉛を摂取してしまった可能性がある。』
 (引用元:酒井邦嘉「ベートーヴェンの病跡と芸術」/
      BRAIN and NERVE Vol.73 No.12 / 医学書院)

『難聴と消化器疾患の両方を説明できる病因として、
 鉛中毒が最も有力である。』(引用元:同上)

               

『当時の安物のワインには、
 苦み消しのため鉛を添加することが違法に行われており、
 ベートーヴェンがそうした低品質のワインを長期にわたり
 常飲することで、大量の鉛を摂取してしまった可能性がある。』

大師匠ほどの方であれば、
「安物のワイン」を飲まずとも高価なワインが飲めたはず・・・、
と思うのは浅薄に過ぎるというもの。
確かに晩年にかけては高額な作曲収入もあったようですが、
遺品の中には、食料品店Aのチラシ、食料品店Bのチラシがあり、
どちらが安く買えるのかを検討していた?とも伝わります。

いつの時代も、音楽だけで食べてゆくには、
経済的な不安定が付き纏うということであり、
早川は身につまされるのでありますが、それはそれとして、
知らぬ間に「鉛中毒」とは恐ろしい話。

現代では、食品衛生法を始めとする様々な管理によって、
「食の安全」は保たれているものと信じたいのですが、時折、
「この食品は、なぜこれほど安価に市場提供できるのか?」
と疑問を感じる場合があります。
流通ノウハウや企業努力によるものなのかも知れませんが、
原材料の生産量と製品の生産量との間に、
明らかな乖離があるケースも散見されます。
例えば蜂蜜。
養蜂場での生産量に比して、
市場に出回る製品としての蜂蜜量が多過ぎるのだとか。
そうであるのならば、店頭に並ぶ、ほとんど全ての蜂蜜には、

「純粋蜂蜜」

と銘打たれていますが、果たして本当に「純粋」なのかどうか?
気になるところであります。また先日の報道によりますと、
食料品ではありませんが、「100%カシミヤ!」を謳い文句に、
安価なマフラーを販売した業者3社に行政勧告が下されたとのこと。
「100%カシミヤ!」どころか、
ほとんどカシミヤは使われていなかったそうです。

良心的な業者も多い反面、いつの時代も、
悪徳商法・不当表示・詐欺・抜け道・カラクリ・謀り事・・・、
総じて悪意に基づく商行為が絶えることはありません。

話が随分と逸れてしまいましたが、
かのベートーヴェン大師匠が苦しんだ難聴と消化器疾患、
その病因が、違法な混ぜ物による安価なワインの長期摂取による、
「鉛中毒」とする説には、なるほど・・・という納得感と共に、
どこか切なさを覚えるものであります。




              









TMWO 第9回定期演奏会

2021-10-31 14:48:07 | 音楽関係
先日(10月2日)、千葉市民会館・大ホールにおいて、
ザ・ミューズ ウィンド オーケストラ(以下、TMWO)による、
第9回定期演奏会が開催されました。
毎回、オープニング・プログラムとして、
拙曲 “ フレデリック・ファンファーレ ” を演奏して下さっています。
TMWOの皆様には、心より感謝を申し上げます。

今回は、TMWOメンバー・じゅんトラさんのYouTubeチャンネルで、
その演奏風景が視聴できるとの連絡を頂戴致しましたので、
TMWOの創立メンバー・笠川由之氏を通して了承を得た上で、
ここにシェアさせて頂きます。

指揮:須藤信也 / 演奏:ザ・ミューズ ウィンド オーケストラ

シェア元の “ じゅんトラさんのYouTubeチャンネル ” には、
吹奏楽が一層楽しくなる動画がたくさん上げられています。
是非ご覧ください。

               

トロンボーン奏者の笠川由之さんについては、
当ブログにて何度か触れさせて頂いておりますが、
早川が千葉県市川市在住時には大変お世話になりました。
その円満な人柄、卓越した演奏技術、企画を実らせる行動力等々、
正に「心・技・体」の揃った演奏家であります。

コロナ禍という、非常時における演奏会の開催は、
そもそも開催できるのか?という不安に付きまとわれ、
いざ開催するにしても、非接触の工夫、密を避ける工夫、
ソーシャルディスタンスを保つ工夫、換気の工夫等々、
平常時では考えなくて良いことに神経を擦り減らされます。
笠川さんを始め、TMWOメンバーの方々は、
様々な御苦労の上で演奏会を開催されたことと思います。 

コロナ禍が収束し、TMWOの方々と多くの聴衆の方々とが、
何の不安もなく音楽を通して結ばれる日が来ることを、
切に願うものであります。

               

さて御承知置きの通り、オーケストレーションには、
シンフォニー・オーケストラを対象とした管弦楽法と、
ウィンド・オーケストラを対象とした吹奏楽法とがあります。

管弦楽法を得意とする人が、吹奏楽法に長じているか?と言えば、
これがそういうわけでもなく、
吹奏楽法に腕を揮う人が、管弦楽法にも長けているか?と言えば、
これがまた中々そうはいきません。

同じ “ 麺料理 ” とは言え〈ラーメン〉と〈日本そば〉とでは、
麺粉・製麺工程から出汁取り等の調理方法までが全て異なり、
同じ “ カレー ” とは言え〈インドカレー〉と〈日本カレー〉では、
香辛料を始めとして、レシピには大きな違いがあります。
事程左様に、同じ “ オーケストレーション ” とは言っても、
管弦楽法と吹奏楽法とは、似て非なるもの。

冒頭にシェアさせて頂きました楽曲の原曲は、
オーケストラ・アンサンブル金沢による演奏を想定して作曲し、
管弦楽法を用いてスコア(総譜)を書きました。

その後、金沢市内の中高ブラスバンド部の演奏を想定した、
吹奏楽化の依頼を頂戴し、スコアを書かせて頂いたのですが、
これが大変に苦心致しました。

そもそも吹奏楽器は呼吸を源としているため、音符を紡ぐに当たり、
息継ぎを念頭に置かなければならないこと。
吹奏楽で用いられる木管楽器・金管楽器の多くが、
B♭調・E♭調・F調・A調等々の移調楽器である為、C調楽器に比べて、
転調の度に生じる臨時記号の増減が混乱しがちで注意が必要なこと。
何よりも、
クラリネットパートの声部分け、ユーフォニウムの効果的な用い方、
サキソフォンパートの扱い、唯一の弦楽器であるコントラバスを、
安易にチューバとユニゾンで重ねてよいものかどうか?等々、
いささかなりとも培ってきた管弦楽法の技術・考え方が通用せず、
つくづく管弦楽法と吹奏楽法とは別物・・・の感を深くしました。

               

管弦楽法にせよ、吹奏楽法にせよ、
オーケストレーションの技法というものは、
作曲技法の中でも醍醐味中の醍醐味と言えるもの。

ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、
レスピーギ、ラベル、ドビュッシー、マーラー、バルトーク、
ストラビンスキー、ホルスト、コルンゴルト、武満徹等々、
そのオーケストレーションの技法は、
旋律を紡ぐ技法や響きを創る技法といったものと同様に、
作曲家の内的世界を強く表出しているものでもあります。

スコアには、大師匠の方々が編み出した、
オーケストレーションの秘密が明らかにされています。
オーケストレーションに限らず、スコアというものは、
作曲家の音楽世界が視覚化されたものであり、
その作曲家の内界で、その時、何が起きていたのか?
その謎を知るのに最も重要な “ 地図 ” でもあります。

こちらはオットリーノ・レスピーギ(1879〜1936)作曲、
「教会のステンドグラス」のスコアでありますが、

楽曲を通して聴かれるのは〈グレゴリオ聖歌〉。
レスピーギ先生は、奥様がグレゴリオ聖歌の研究家だったことから、
グレゴリオ聖歌に傾倒し、この名曲が生まれました。
つまり、この楽曲が醸している崇高な響きの中には、
レスピーギ先生の、奥様への愛をも聴くことが出来ると言えます。

スコアという、
宝の在りかと謎を解く鍵が示された “ 地図 ” を読むことは、
その音楽を聴くことと共に、至福の音楽体験と申せましょう。


               









アラン・シルヴェストリ

2021-05-16 13:44:00 | 音楽関係
所用で立ち寄りました近畿日本鉄道・名古屋駅構内に、

“ ひのとり ”が停車していました。“ ひのとり ”は、
昨年2020年に名古屋~大阪間の運行が開始された新型特急。

このトレイン・ヘッドの深い色合い・落ち着いた光沢感・
鋼材曲線の優美さに見惚れるうちに、なぜかふと、

映画「ジャッジ・ドレッド」(1995)のスコアが脳裡に甦りました。
おそらくは、映画内で主人公が装着していた、
艶々と光るヘルメットと特急“ ひのとり ”のヘッド、
二つのイメージが脳内で重なり合ったものと思われます。

「ジャッジ・ドレッド」のサウンドトラックを担当されたのは、
言わずもがな、アラン・シルヴェストリ先生。
近鉄特急“ ひのとり ”を目の当たりにしたことで、
久しぶりに、あの壮大なシンフォニック・スコアが脳内再生され、
ひととき無上の喜びを覚えるものでありました。

               

御承知置きの通り、
アラン・シルヴェストリ先生の音楽には、
ハズレや駄作といったものが、ほとんどありません。
確かに、キャリアをスタートさせた頃の初期作品、例えば、
「ドーベルマン・ギャング」や「ロマンシング・ストーン」などは、
失礼ながら、これが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」
「フォレスト・ガンプ」「アビス」「ヴァン・ヘルシング」
「アヴェンジャーズ」等々を書き上げた人の音楽か?
と作曲家名を“ 二度見 ”せざるを得ないような作品もあります。
しかしこれは、どの時代の、どの作曲家も概ねそうしたもので、
初期作品というものは、
どちらかと言えば“ 習作 ”に近いものとならざるを得ません。

想えば音楽史上において、
“ Symphonist ”とか「交響曲作家」と呼ばれる大家の方々でも、
第1番から、その人の思考形態と精神世界を十分に謳う、
もしくは謳い得る方というのは、稀であろうかと思います。

中には、
ブラームス(1833~1897)やマーラー(1860~1911)のように、
既に交響曲・第1番の中に“ その人の心・技・体 ”が、
十全に鳴り響いている作曲家もおられますが、御存知のように、
ブラームス先生の場合は、第1番を完成させるまでに、
およそ20年の歳月をかけておられます。

マーラー先生の場合は、早熟であることに加えて、
自分自身の作品を、常に自らの“ 死 ”から逆算して書く・・・、
つまり、どの作品においても取り組む際に、
「これが私の最高傑作となると同時に、遺作となる」という、
異様な強迫観念を創作エネルギーに変えていたとも伝わりますので、
おそらくは、そうした背景あってこその、
「既に全ての音がマーラーだった。」(初演時の新聞批評)、
という完成度なのだと思います。

               

話が逸れてしまいました。
アラン・シルヴェストリ先生であります。

先の「ジャッジ・ドレッド」は、高らかに鳴るファンファーレと、
その音型を展開させてゆく過程で次々に生まれる、
いわゆる“ シルヴェストリ節 ”に加えて、
主調から3度下への転調を順次繰り返してゆく、
いわゆる“ シルヴェストリ転調 ”を堪能することが出来ます。

“ シルヴェストリ転調 ”は、
映画「プレデター」でも効果的に用いられています。

シルヴェストリ先生の作品の中には、
例えば1990年代のアニメ作品“ Fern-gully ”のように、
シンクラビアやフェアライト・サンプラーのみの作品もあり、
テクノロジーの積極的な導入を試みてこられた一面もあります。
以前は、作曲に際して“ Logic pro ”を使用しておられましたが、
ハンス・ジマー師匠との交流から、現在は“ Cubase ”に乗り換え、
Steinberg社製の“ Dorico pro ”で楽譜を書いておられるようです。
最終的な録音は、当然のことながら“ Pro Tools ” 。

             

左から、
ヴァン・ヘルシング / アヴェンジャーズ / ナイトオブミュージアム

「ヴァン・ヘルシング」のスコアは、壮麗さと緻密さとで、
新境地を開いた作品ですが、その影には管弦楽化を専門職とする、
“ オーケストレーター ”と呼ばれる方々の存在があります。
作曲家は、ピアノ譜もしくは4段〜8段程度の簡略譜を書き、
“ オーケストレーター ”が、それを100人規模のオーケストラ用に、
“ 管弦楽化 ”します。

「ヴァン・ヘルシング」では、マーク・マッケンジー、
ウィリアム・ロス、デヴィッド・スロネイカー、といった方々が、
オーケストレーションを担っておられますが、中でも、
ウィリアム・ロス先生は、シルヴェストリ先生の信頼厚く、
数多くの作品で、色彩豊かな管弦楽法を揮っておられます。

“ オーケストレーター ”は、名前の表記がないだけで、
実際には何十人もが携わっているとも聞き及びます。
確かに、そうでもしなければ、
あれほどの管弦楽曲は生み出されないように思います。

一つ一つの映画音楽作品について、
何が、どのように素晴らしいのか?は、
また追い追いに綴らせて頂くこととして、
兎にも角にも〈アラン・シルヴェストリ〉という作曲家は、
映画音楽の大恒星ということであります。


              









ケチャ ~ 絆の芸能

2021-01-17 15:35:33 | 音楽関係
【BRAIN and NERVE 72巻 11号 2020/医学書院刊】は、
「脳の発振現象」について特集が組まれ、
最新知見が盛り込まれた16本の文献が収められています。

その中の一つで、
国立精神・神経医療研究センター神経研究所の、
本田学先生が執筆された論文、

“「阿吽の呼吸」の神経基盤 ”

を読ませて頂きました。
インドネシア・バリ島の祭祀芸能〈ケチャ〉が取り上げられ、
〈ケチャ〉を演奏中の複数人を対象として、
脳波の同時測定を行ったところ、演奏前に比較して、
演奏中と演奏後には、

『脳波の個体間同期が増強することがわかった。』
(引用元:本田学“「阿吽の呼吸」の神経基盤 ”・
 BRAIN and NERVE 72巻 11号 2020/医学書院刊、
 以下『』内は、全て同文献より引用)

として、脳波を主体とした脳機能の同期現象と、
それらが社会や文化と、どのように関わっているのかが、
深い洞察を伴って記されています。

この論考において特筆すべきことは、
脳の発振現象及び同期化現象について執筆された本田先生御自身が、
バリ島人以外では不可能とされていた、
〈ケチャ〉の全編上演に世界で初めて成功した音楽集団・
「芸能山城組」のベテランメンバーであるということ。

それゆえに今回の論考は、
現象の外側に立って客観的に分析する科学者の視点と、
現象の内側に在って分析不可能な瞬間を生きる音楽家の視点と、
二つの視点から洞察された極めて希少な価値を持つものと思います。

〈ケチャ〉は、その聴こえ方としては、
“ チャカチャカチャカチャカ・チャカチャカチャカチャカ ”
という〈16ビート〉のリズム合唱が絶え間なく続きます。
しかし本田先生がまず明らかにするのは〈ケチャ〉演奏集団の内、

『実際には演奏者の誰一人としてこのリズムを奏でてはいない。』

という事実。

プニャチャ・チャクリマ・チャクナム・プニャンロットという、
〈ケチャ〉の合唱を構成する4つのパートが、
それぞれ違うリズム、違う拍子で“ チャッ ”と叫び、
それら4パートの“ チャッ ”が狂いなく同期にした時、はじめて、
あの“ チャカチャカチャカチャカ ”という〈16ビート〉が成立し、

『その結果、
 ケチャ全体のとしての「チャッ」という発声の回数を実測すると、
 1秒間に最高12~13回に達する声のパルス列を実現している。』

一人の人間が、どれほど速く“ チャッ ”と叫んでみても、
1秒間にせいぜい5~6回が上限のところ、
発声のタイミングが異なる4パートの“ チャッ ”が同期することで、
超高速“ チャカチャカチャカチャカ・・・ ”が生み出されます。
しかしながら、

『100人規模のケチャの場合、
 音だけを手がかりに同期演奏を実施することが
 現実性を持たないことは、簡単な思考実験によって理解できる。』

〈ケチャ〉は同心円状の円陣が組まれて演奏されますが、
100人規模の円陣は直径20mを超えるため、リズムを統括する音、
例えば何かメトロノーム的な役割の音があったとしても、
その音が円陣の端から端まで届くのに要する時間は、
音速の関係上“ 約0.06秒 ”。
比して、1秒間に12~13回の頻度で叫ばれる“ チャッ ”の間隔は、
“ 約0.08秒 ”。

『つまり、20m先の「チャッ」が届くまでの約0.06秒の時差は、
 0.08秒ごとに刻まれるケチャの16ビートにとっては
 ほぼ1拍分に近い到底無視できないズレとなる。
 したがって、
 音だけを頼りにリズムを合わせることは不可能であり、
 もし同期を可能にする他のなんらかのしくみがなければ
 ケチャ全体のリズムは混沌としたものにならざるを得ない。』

では、指揮者の存在しない100人もの演奏者集団が、
マスターとなる信号音に頼ることなく、
0.08秒ごとに刻まれる高速16ビートを成し遂げているのは、
一体なぜなのか?

『同期を可能にする他のなんらかのしくみ』

とは何なのか?

               

論考は、いよいよ〈ケチャ〉の真相に迫ってゆくのですが、
専門性の高い文献のこと、私の粗末な筆力ではお伝え出来ませんし、
かえって内容を損ねる恐れもありますので、御興味を持たれた方は、
「BRAIN and NERVE 72巻 11号 2020」をお読み頂くとして、

◎〈ケチャ〉のルーツである「サンヤン」という儀式。
◎そのリズム合唱の奥底に響く、自然界のカエルの合唱。
◎カエルの鳴き交わしにおける発声パターンと、
〈ケチャ〉の4パートの発声パターンとの類似性。
◎〈ケチャ〉の円陣と構造。
◎バリ島の伝統的祝祭儀礼への参加者に起きる意識変容状態。
◎意識変容状態(トランス状態)時の神経基盤。
◎〈ケチャ〉の同期演奏に関わる脳機能。
◎〈ケチャ〉の演奏中に現れる自発脳波の特徴。
◎脳波分析結果が示唆すること・・・等々、

明かされるのは、〈ケチャ〉が内包する驚異の数々。

特に〈ケチャ〉の円陣における、
プニャチャ・チャクリマ・チャクナム・プニャンロットという、
4パートの演奏者の極めて精緻精妙な配置は、
部分に全体が集約され、全体は部分を反映しているという点で、
紛れもないフラクタル構造であることを知りました。

               

「おわりに」と題された考察部では、
バリ島社会が水田農耕によって成り立つ社会であるがゆえに、
誰の水田にどれくらい水を引くのか?という、
水の分配を巡るトラブルが発生しやすい環境であることに触れられ、

『そうした環境の中で、
 争いを防ぐうえで決定的な役割を果たしてきたのが、ケチャや、
 本論考では誌面の都合で取り上げることができなかった
 ガムラン音楽をはじめとする、
 バリ島の村々の祝祭の中で上演される
 さまざまな芸能と考えられる。』

として、バリ島芸能の最大の特徴を、

『村人であれば少し稽古すれば誰でも演奏可能な要素を、
 高度に組み合わせて同期させることによって構成されている点』

と指摘されています。
この『村人であれば少し稽古すれば誰でも演奏可能な要素』
ということに関係して思い当たることがあります。

私の友人は、かつて40歳になるかならないかという若さで、
脳梗塞を発症しました。
音楽大学を首席で卒業したヴァイオリン奏者で、
クラシックからポップス、中近東音楽等々、公演から録音まで、
優れた演奏技術と豊かな人間性とで幅広く活動していたその人は、
右脳の脳梗塞によって左手の手指に麻痺症状が発生し、
プロとしての演奏活動を断念せざるを得ませんでした。
様々なリハビリテーションに取り組む中で、
母校の音楽大学で開かれたガムラン音楽の定期講習に参加し、
週1回程度の練習を3~4ヶ月ほど続けた頃に、
早くもガムラン音楽集団の一員として、
観客の前で演奏を行うことになりました。
舞台上に座り、ヴァイオリンではなくガムラン楽器を叩き、
見事にガムラン音楽のパートを担って演奏に没頭する姿に、
私は“ 生きたリハビリテーション ”を観る思いがしました。

それはガムラン音楽なればこそ実現できたことであり、
おそらくクラシック音楽等々では望むべくもなかったこと。

なぜなら、幼少期からトレーニングを開始し、
専門教育を受けながら切磋琢磨を繰り返し、
良くも悪くもコンテストやコンクール等で勝敗を争うような、
クラシック等々の音楽領域は、「弾けるか・弾けないか」
「上手いか・下手か」「プロか・アマか」といった、
価値や条件の判別がハッキリと分かれる音楽領域でもあるから。

無論、その厳しさが素晴らしい芸術を生む要因でもあるのですが、
当然のことながら、病気・事故・怪我や何らかの理由により、
価値を保てなくなった者や条件を満たせなくなった者は、
除外されるか、駆逐されるか、或いは自ら去るしかありません。
そこに働くのは〈排除の論理〉。

今回“「阿吽の呼吸」の神経基盤 ”を読ませていただき、
バリ島芸能というものが、なぜ〈排除の論理〉よりは、
〈共存の論理〉に立つ得るのかという、その理由が、
島の自然環境・儀礼の成立背景・芸能の音楽構造等にあることに、
あらためて感銘を受けました。

この論考において、
脳波測定や血中生理活性物質の濃度測定等の科学的手法により、
人間は同期性の高い音楽演奏に加わることで、

『脳波の個体間同期が増強することがわかった。』

と示されたことは、
人類と音楽との関わり、人類と祭祀儀礼との関わりにおいて、
有史以来、経験則としては充分過ぎるほど実感されてきた感覚に、
重要なエビデンスがもたらされたことに他なりません。
音の細道をゆく者として、
何度でも読み返し、深く受け止めたいと思います。

『人と人、人と社会、社会と社会の分断や孤立が
 大きな問題となっている現代において、
 ケチャをはじめとする同期と協調を重視した音楽、
 すなわち「絆の芸能」が果たす役割は
 けっして小さくないであろう。』
(本田学“「阿吽の呼吸」の神経基盤 ”より引用、
 BRAIN and NERVE 72巻 11号 2020/医学書院刊)


              








心妙剣と無想剣

2020-11-15 14:24:34 | 音楽関係
本日11月15日は、坂本龍馬(1836~1867)の生誕日にして命日。
思い入れの強い楽曲でもあり、貼るだけは貼らせて頂きます。

“♪勇気出して 手にした武器捨てて 大きな未来の扉あけよう!”

               

人間の器が大きい、緻密かつ大胆、新しいもの好き、明るい、
夢と現実のバランス感覚に優れている、他人の目を気にしない、
常識や既成概念を超える、人の内懐にスッと入る・・・等々、
現行流布する坂本龍馬のイメージを決定づけたものと言えば、
司馬遼太郎(1923~1996)著「竜馬がゆく」。
この中に、竜馬の剣術師匠・千葉貞吉が、貞吉の兄であり、
北辰一刀流開祖・千葉周作が好んだ兵法噺を語るくだりがあります。
題して“ 心妙剣と無想剣 ”。
国民文学とも言われるほど人口に膾炙する小説でもあり、
この奇譚を好まれる方も多いことと思います。

深山で、キコリが斧をふるっていると、いつの間にか、
異獣が背後に現れて、キコリの伐採作業を見ています。
気付いたキコリが異獣に名を問うと、“ サトリ ”と答えます。
キコリはサトリを生け捕ろうと思いますが、そう思った途端、

『そのほう、いまわしを生け捕ろうと思ったであろう』
(司馬遼太郎「竜馬がゆく」文春文庫、以下引用は同書)

内心を言い当てられたキコリは生け捕りを諦めて、
斧で打ち殺してやろうと思いますが、そう思った途端、

『そのほう、斧でわしをうち殺そうと思うたであろう』

こちらの考えを、こうも読まれていては致し方ないので、
サトリの相手になるのをやめて木を伐っていようと思ったキコリに、

『そのほう、いま、もはや致し方なし、
 木を伐っていようと思うたであろう』

キコリはサトリの相手にならず、一心不乱に木を伐り進めます。
そのうち、ふとした弾みで斧の頭が柄から抜け、

『斧は無心に飛んで、異獣の頭にあたった。
 頭は無残にくだけ、異獣は二言と発せず死んだという。』

               

千葉周作は、弟子に免許皆伝を与える際、必ずこの噺を伝え、

『「剣には、心妙剣と無想剣とがある」と言った。』

心妙剣とは、相手の考えや動きの逐一が手に取るように分かり、
それゆえに自分が相手に加えようとする一打一撃が全て決まり、
ことごとく外れることのない剣の境地を指し、ここでは、
異獣サトリが、この心妙剣に該当します。言わば、剣の達人。
尤も、サトリは“ 異獣 ”であって“ 人 ”ではないので、
「達人」という表現を非とするならば、剣豪とでも。

そんな剣豪・異獣サトリの頭を打ち砕いたのは斧の頭でした。
キコリではなく、キコリが使っていた斧の頭。
司馬遼太郎先生は、この武道説話に託して、こう記します。

『無想剣とは「斧の頭」なのだ。
 斧の頭には、心がない。ただひたすらに無念無想でうごく。
 異獣サトリは心妙剣というべきであり、無想剣は斧の頭なのだ。
 剣の最高の境地であり、ここまで達すれば百戦百勝が可能である』

剣の術理は剣の道のみにあらず、
世間一般の職業・仕事にも通じる術理と捉えてみますと、
それらに通底するのは、意・念・心・想といったものの処方・
用い方・扱い方であろうかと思われます。
そのような観点から日常を眺めますと、世の中には、
“ 心妙剣 ”の達人と思しき方々がおられますし、また、
“ 無想剣 ”の遣い手と察せられる方々もおられます。

只、“ 無想剣 ”なる境地は、
目指そうと想って目指せるものではないはず。なぜならば、
「目指す」という目的意識が明確な“ 想 ”となり、
“ 無想 ”への道を閉ざすから。

               

「無念無想」と言いますが、
そもそも「斧の頭」は“ 物 ”であって“ 人 ”ではありません。
“ 物 ”は、基本的に無念無想を常としますが、
“ 人 ”は、本来的に有念有想あり、考えようによっては、
“ 物 ”と“ 人 ”を分ける条件の一つとして大きいのは、
“ 念 ”や“ 想 ”の有無であるとも言えます。

そう考えますと「無念無想」は、
生きている人間である限り、ほぼ不可能なこと。
それでも「無念無想」は、厳然として在り、
古来あらゆる《道》の奥義として尊ばれてきました。

こうした「無念無想」を巡る“ ややこしさ ”は、
言葉としての「無念無想」と、
体感としての「無念無想」との間に開きがある、
というところに起因しているように感じます。

あくまでも浅薄な個人的感想に過ぎないことをお断りした上で、
「無念無想」という状態は、
けっして“ 念 ”や“ 想 ”が「無い」のではなく、
極めて純度の高い精神状態や意識状態において、
唯一の“ 念 ”、唯一の“ 想 ”、唯一つの“ 心 ”に、
全身全霊が集中するといった境地を指すかと思います。

そうした境地を体験した人々が、
あとからその時の印象・感覚・感興・感動等を振り返り、
実際のところは、確かに一念・一想・一心・一意は有ったものの、
そうした境地は説明しようにも説明できないものであるがゆえに、
その境地に近い雰囲気を表すと思われると同時に、
四字熟語としての、魅力と怪しさを備えた便利な言葉、

「無念無想」

を使い廻してきたという経緯があるように感じます。

               

先に「“ 物 ”は、基本的に無念無想」と書きましたが、
それは「基本的に」であって、状況や条件次第によっては、
“ 物 ”もまた“ 念 ”や“ 想 ”を宿すと、私自身は考えます。
何にせよ「無念無想」を巡る宇宙は広大にして深遠なので、
この辺りについては稿を改めますが、本日は駄文の終わりに、
音楽の世界にも“ 心妙剣と無想剣 ”があるのでは?・・・と、
このことにだけ少し触れさせて頂きます。

個人的経験に照らして、何となくではありますが、
演奏家の方々にも“ 心妙剣 ”タイプと“ 無想剣 ”タイプ、
大別して二つのタイプがあるように常々感じてきました。
“ 心妙剣 ”タイプとは、
音楽を利用し、音楽を活用して、自己を表すタイプ。
言わば音楽を自己表現の手段とするタイプであり、それゆえに、
音楽もさることながら、演奏家の個性がより際立つ傾向にあり、
簡略に申し上げるならば「音楽を愛し、音楽を使う」タイプ。
個性の輝きで人々を感心させ、大いに魅了する方々と思います。
比して、
“ 無想剣 ”タイプとは、
自己を用い、自己の存在を通り道として、音楽を表すタイプ。
言わば自己を音楽表現の手段とするタイプであり、この場合、
演奏家が消えて、音楽と音楽の魂が現れるというタイプで、
簡略に申し上げるならば「音楽に愛され、音楽に使われる」タイプ。
そこには、ただ感動だけが在るように感じます。