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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

謹賀新年 2023

2023-01-08 15:12:18 | 音楽関係
明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願い申し上げます。

本日は1月8日ですが、早川の体内には未だ屠蘇酒の微酔あり。
上掲写真の絵馬は、
富士山本宮浅間大社から毎年お送り頂いているものですが、
嬉しき哉、そこには “ 屠蘇散(とそさん)” も添えられていて、
早川はこれを本醸造酒に1~2日漬け込み元日に頂戴するのが、
年に一度の楽しみなのであります。

“ 屠蘇散(とそさん)” で思い出しましたが、
現在も「ゴホンと言えば◯◯散」、或いは漢方薬の中にも、
「安中散(アンチュウサン)」「五苓散(ゴレイサン)」、
といった薬が有るように、古来中国を始めとする漢字圏では、
薬のことを「散」と呼び慣らわしてきました。

今を去る1800年程前の中国は三国時代。頽廃した貴族階級の間に、
「五石散(ゴセキサン)」なる薬物が流行したと謂います。
今でいう “ 麻薬 ” に近いものだったようですが、この「五石散」、
服用してから「歩き回る」ことで快感状態が一層高まったらしく、
「五石散」を手に入れた人は、これを服用すると、
矢鱈あちらこちらをグルグルと歩いて回ったのだとか。
五石「散」を飲んで「歩」く。
この様子が「散歩」の語源と、何かの本で読んだ記憶があります。

いや、そんなことはともかく、
社会インフラ業務やサービス業等に携わる方々を始め、
年明けから出社・出勤の方々もおられたことでありましょうし、
また初詣の参拝客を迎える神社仏閣職員の方々であれば、
それこそ正月は 忙しさのピークでもあろうかと思われます。
只、一般的に年明け三ヶ日は「正月休み」。

この「休む」ことを表す「休」なる漢字は、
現行の国語指導要領では、小学校1年生で習う会意文字だそうで、
成り立ちや字義については諸説あるものの、概ね二つ。
一つは「休」の字体を、
「人」が「木」の傍らに留まる様子として捉え、
物事を一旦「停止する」、進めている計画を一時「留保する」、
という意味に解釈する説。
いま一つは「休」の字体を、「人」が「木」の傍らに在って、
立っている、座っている、もたれている、寝ている等と捉え、
憩う、のんびりする、英気を養う、リラックスする等、
文字通り「休む」という意味に解釈する説。

漢字の成り立ちなどというものは、
人それぞれが自由に想像を巡らせ、自身が生きてゆく上での、
精神的な糧を得られるような物語を紡げば良いと思う私は、
上掲2説の内、どうしても後説に共感共鳴し、個人的には、
「休」は「人」が「木」に触れてジッとしている様子であると、
そのようにイメージします。

しかしながら、この「木に触れる」というのは、
山林や森林、或いは公園や庭に立つ “ 実木 ” に触れる・・・、
ということだけを指すものではないようにも思われます。

                 

2011年3月11日に発生した東日本大震災。
ヴァイオリン制作及び修復家の中澤宗幸氏は、
震災による津波被害を受けた陸前高田の流木から、
一挺のヴァイオリンを作られました。
このヴァイオリンは「震災ヴァイオリン」として、
イヴリー・ギトリス氏(1922~2020)により奏でられ、
復興の一端を担ったことは広く知られているところでもあります。

中澤氏の御著書「いのちのヴァイオリン」には、氏が未だ若い頃、

ヨーロッパ中を巡ってヴァイオリンの勉強をしている時期、
あるヴァイオリンに出会った際のエピソードが書かれています。
そのヴァイオリンの横板にはギリシャ語で何か記されていましたが、
氏はギリシャ語を読めないので知人に訳してもらったところ、

『わたしは森にいるときには木陰で人を癒し、
 ヴァイオリンになってからは音で人を癒す。』

という、
言わば “ 木からのメッセージ ” とも呼べる詩であったそうです。

ヴァイオリンに記されていた文章の意味を知り、

『木は切り倒されてその寿命を終えるのではなく、
 ヴァイオリンになってからも、年々、美しい音を響かせて、
 わたしたち人間の心を癒してくれていた』
(引用元:中澤宗幸「いのちのヴァイオリン」ポプラ社)

そのことに深い感動を覚えた中澤氏は、こう綴られています。

『森の木でつくられたヴァイオリンは、
 吹きわたる風や雨や幾千の葉の音を、
 その音色のなかに潜ませているに違いありません。』(前掲書)

                 

今は木材として楽器に姿かたちを変えてはいても、その木材が、

『かつて森に生きていた時の記憶』(前掲書)

それは、
無数の鳥が、そこで羽根を休め暮らしを営んだ記憶、
無数の昆虫が、そこを住み家とし命を養った記憶、
無数の葉を繁らせ、無数の葉を落とした記憶、
無数の光、無数の闇を樹体に纏いながら光合成を繰り返した記憶。

そうした記憶の断片が、心ある演奏家によって奏でられる時、
ふと甦り、大気の中に響き出し、歌い出される。

それは言わば “ 音の年輪 ” 。
そういうことが起き得るであろうと違和感無く思えるところが、
樹木から作られた楽器の不思議さ奥深さのように感じると共に、
この辺りの神韻縹渺とした世界に、
何か音楽の根源たるものが在るようにも思います。

そう言えば和太鼓も、口径の大きなものになると、
アフリカのジャングルで育った樹齢数千年を超える巨木を伐採し、
日本に運んだ後、幹を刳り抜いて作ると聞いた覚えがあります。
中澤氏の説くところに心を合わせて想うには、もしかしたら、
和太鼓の “ ドーン ” という天地を震わせる一打一音の中には、

和太鼓になる前の巨木が、
アフリカの大地に根を張り立ち続けていた時の記憶が宿っていて、
それゆえに聴く者は心身の奥底を揺さぶられるのかも知れません。


屠蘇酒の微酔に任せて、つい書き連ねてしまいましたが、
「休」という漢字を、
「人」が「木」に触れてジッとしている姿と観想してみた時、
「いのちのヴァイオリン」に綴られているように、音楽には、
耳で「木」に触れる、「森」に触れる、「森の記憶」に触れる、

そういった要素をも内包しているのだなぁと、
年の初めに当たり、あらためて自らの心に刻むものであります。


“ Mt. Fuji and Spiritual Dragon ” ~ 霊峰霊龍 ~

皆様、良き日々でありますように!


               








Re start

2022-12-04 14:38:13 | 音楽関係
名古屋へ転居して5年半、自宅と職場の往復に明け暮れ、
情けないことに休日は木偶の如く何ら為す気力も無く過ごし、

作曲からは遠ざかるばかりの日々でありました。

音楽自体は、能動的に聴くことはありませんでしたが、
受動的には聞いておりました。どういうことかと申しますと、

奉職していた学び舎に通う学生さんたちが始業前に早川を訪れ、
それぞれが好む音楽をスマホで聞かせて下さるのでした。

多くが J-POP・K-POP・ゲーム音楽・アニメの主題歌 。
私は聞かせて貰う度に、
つくづく「いい曲だなぁ」「いい音だなぁ」と心震わされたので、
その感想をありのまま学生さんたちに伝えますと、
彼ら彼女たちは顔を輝かせて “ 推し ” について語り、
何となくスッキリした感じで授業に向かわれるのでありました。

不思議なことに、その後ろ姿を見送ったあと、
早川自身もまた、何となく元気になっているのであります。
音楽には、

聴く喜び・奏でる喜び・作る喜び、といった直接的な喜びの他に、
その音楽について語る喜び・その語りを聞く喜び、
といった間接的な喜びが有ることを改めて知る思いがしました。

                 

さて、自分自身の生活リズムが変わり、
次の “ 身の振り方 ” が未だ定まっていない今のうちに、

作曲に関することからDAWソフトの使用方法等々まで、
多少なりとも学び直しておこうと思い立ちました。

しかし、これが文字通りの “ 悪戦苦闘 ” ・・・なぜならば、
まこと恥ずかしいことに、色々と忘れているのであります。

若い頃の5年とは違い、
老いて5年のブランクには中々厳しいものを感じます。

各楽器の演奏可能音域や移調楽器の記譜法、読譜法等々、
総譜なりテキストなりを引っ張り出してきて勉強し直しの上、
DAWソフトのインストール&アクティベーションにもつまづき、

楽器店の方に教えを乞いながら、何とか起動できたものの、
え~っと・・・どこをどう操作するんだっけ?

                 

また海外メーカーが発売するオーケストラ音源の、
「60% OFF on BLACK FRIDAY !!」に、思わず決済した後、

自身が英語に不堪能だったことを思い出しましたが、
時すでに遅し。

ダウンロードからオーソライズの手順全てが英語で、
また幾つもの関連サイトでのアカウント作成と承認を要し、
結局のところ行き詰まり、現在なお手続き中であります。

お得な “ ブラック・フライデー ” のはずが、
お先真っ暗な金曜日に・・・一周まわって、
“ ブラック ” なフライデーとなってしまいました。


とは言え、失敗には何らかの学びもあるはず。

少しずつ感覚を取り戻せれば良いのですが、
おそらくは “ イチ ” から始まる道。
むしろ “ イチ ” から始めた方が良い道なのかも知れません。

Re start

既にして “ 珍道中 ” の雲行きでありますが、

少しずつ歩みを進めてまいりたいと思います。


翠龍 〜 命には限りあれど、道は果てなし

皆様、良き日々でありますように!


               










Jupiter and Dragon

2022-09-04 12:48:26 | 音楽関係
クラシック音楽の中には、作曲家が世を去った後の時代において、
“ ひょんなこと ” から急激に人気が出て、
世界的な「名曲に成る」ことが往々にしてあります。
その “ ひょんなこと ” の筆頭としては、
作曲家存命中には発達や普及を遂げていなかったところの、
TVや映画といったマスメディア媒体に取り上げられる機会を得た、
ということが挙げられようかと思います。

チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」
ラフマニノフの「交響曲第2番」
ストラヴィンスキーの「春の祭典」等々、

限られた地域やコミュニティの中では名声を馳せていた楽曲が、
世界、或いは人類規模において普遍的な人気を獲得したのは、
興行的に成功した映画の “ 映画音楽 ” として使用されたから、
という経緯なり背景なりが有ります。

                 

グスターヴ・ホルスト(1874~1934)の代表作と言えば、

組曲「惑星」であり、特に「木星」は、その第4主題、
“ andante maestoso旋律 ” の美しさも相俟って人気の楽曲。
イギリスでは初演直後から多くの人に愛されたようですが、
世界的な楽曲となったのは、ホルストの死後何十年も経た後、
各国のTV音楽や映画音楽として採用されてからであり、
先に「名曲に成る」と書きましたが、
楽曲というものは、多くの人に聴かれることにより、
名曲へと育ち、名曲に「成って」ゆく・・・、
そのような側面があるように思われます。

ホルストは、以下のような考えを語っていたとも伝わります。

「もし、あなたの作品を誰も好きになってくれないとしても、
 その状況が意味するのは、
 自分が納得できる作品を作り続ければ良いということであって、
 試行錯誤の機会を与え続けられているということでもあり、
 売れることで、自分自身のコピーを量産せざるを得ない、
 そんな状況に陥らないで済むということでもあるのです。」
(千蔵八郎著「大作曲家があなたに伝えたい100のアイデア」
 春秋社刊を参考図書として取意)

自分の楽曲が多くの人に好かれるといった経験や、
楽曲が良く売れるといった経験を持たない早川は、
この柔らかな光を放つ言葉からチカラを授かる思いがします。

大師匠は、セント・ポール女学校の教職員と作曲家という、
所謂 “ 二足のわらじ ” を履き続けた人でもありました。
授業スケジュール作成、授業準備、授業実施、
テストや課題作成と施行および採点、評価、個別指導、
学内の諸問題対応から専門知識習得を始めとする自己研鑽、
大小さまざまな学内行事の遂行等々に加えて、
学校組織内の人間関係への対処に至るまで、
息つく暇も無い日々であったろうことは容易に察せられます。
早川自身、最近まで教育機関で働いておりましたので、
教職員の方々の忙しさは間近に見聞してまいりました。

そういう意味では、ホルストという人は “ 苦労人 ” 。
20世紀初頭の英国平均寿命を考えれば、早世とは言えないまでも、
“ 二足のわらじ ” が影響したものか、59歳で旅立たれています。
しかし、こういう人であったればこそ、「木星」内に歌われる、
かの “ andante maestoso旋律 ” を書き得たのではないか?
そのようにも思われるのであります。

                 

木星の自転速度は、時速およそ47000kmとされ、
これは地球自転速度の約27倍で、木星表面の縞模様は、
その自転速度の速さによって生じる “ 風 ” が生み出すのだとか。
すると、
木星の表面に現れたのは “ 風龍 ” かも知れませんが、

ホルスト作曲「木星」の副題は “ the Bringer of jollity ” 。
“ 歓びをもたらす星 ” だけに、全ての龍が、
福運・福徳をもたらす龍であることには違いありません。


“ Jupiter and Dragon ”

皆様、良き日々でありますように!


               







追悼 ヴァンゲリス

2022-06-05 13:53:55 | 音楽関係
去る5月17日、偉大な音楽家が旅立たれました。

“ ヴァンゲリス ”

本名:エヴァンゲロス・O・パパサナシウ(1943~2022)
ヴァンゲリスはギリシア出身の方なので、
“ エヴァンゲロス ” の綴りは異なろうかとは思いますが、
英語で言うところの “ Evangel ”「福音」でありましょうか。
「福音」を文字通り「幸福せな音楽」と受け止めれば、
ヴァンゲリスという人物は、この世に産声を上げた時から、
人々に「幸福せな音楽」を届けることが運命づけられていたと、
そのようにも感じられます。

2004年、出身地ギリシアで開催されたアテネ五輪。
開会式の舞台に登場したヴァンゲリスは、
「炎のランナー」の主旋律をピアノ・ソロで弾き始めます。
湧き起こる万雷の歓声。
沸騰する会場の雰囲気から伝わってきたのは、
「あなたはギリシアの誇りである」という観衆の想いでした。

上記「炎のランナー」を始め「ブレードランナー」「南極物語」、
コロンブスの新大陸発見を描いた「1492」と、誰しもが、
その音楽を一度は耳にしたことがあるであろう作曲家。
有名楽曲以外にも「反射率0.39」「天国と地獄」「中国」
「野生」「動物の黙示録」「スパイラル」「大地の祭礼」等々、

またジョン・アンダーソンとのコラボ作品の数々など、
出版されたアルバムの中には、これでもか!・・・というくらい、
優しくて美しい旋律、壮大で熱量の高い音楽が溢れています。

ヴァンゲリスの音楽は “ 唯一無二 ” 。

およそ音楽というものは、
先人の作った楽曲や先賢が描いた世界からの影響を受け、
どれほど偉大な作曲家といえども、
完全な “ オリジナリティ ” の創出というのは難しいもの。
かのベートーベンは、
自分の音楽はハイドンからの影響が大きいと話し、
かのブラームスは、
自分がやろうとしたことは既にモーツァルトがやっていたと語り、
かのストラヴィンスキーでさえ、
「春の祭典」は、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」から、
ヒントを得たと記しています。

そうした辺りを想ってみますと、
“ オリジナリティ ” というものは、追求すべきではあるものの、
そこに重きを置く必要は無いと言えるのかも知れませんが、
それはそれとしても、ヴァンゲリスの音楽は “ 唯一無二 ” 。
その理由として、

◯シンセサイザーによる音楽であること。
◯電子楽器にもかかわらず、音が呼吸をしていること。
◯ヴァンゲリスが楽譜を使わなかったこと。

少なくとも、この三点は関係しているように思います。
尤も、シンセサイザーだけを使用しているわけでは無く、
ピアノ・ギター・多種多様な民族楽器・ティンパニ等の打楽器、
といったアコースティック楽器も演奏しておられますが、
ベーシックはシンセサイザーであり、シンセサイザーは、
アコースティック楽器が、アコースティックであるがゆえに、
物理的に受けざるを得ない制約からは離れることが出来ます。
何より、
シンセサイザーは何百何千という音色を創り出すことが出来、
多重録音によって “ 自分が思い描く世界 ” を構築するのには、
適していたのでしょう。

ヴァンゲリスの音楽は大枠がシンセサイザーで、
そこに生楽器や生歌が入ることが多いのですが、
ヴァンゲリスは、シンセサイザーという電子楽器から、
「血が通った音楽」を作り出すことに専念し、
「呼吸する音色」を生み出すことに心血を注ぎました。

「血が通った音楽」につきましては、
アナログ・シンセサイザーの特色とヴァンゲリスとの関係性に、
特筆すべきものがありますが、それはまた稿を改めるとしまして、
「呼吸する音色」につきましては、
音色創作時におけるフィルターの掛け方、
ADSRエンベロープやフリケンシーの設定方法等々、
専門知識に基づく細やかな技法が施されているのと同時に、
“ エクスプレッション・ペダル ” ・ “ 鍵盤アフタータッチ ” ・
“ モジュレーション・ホイール ” 等、コントローラー系における、
卓越した操作方法に依るところが大きいものと思われます。
特に “ エクスプレッション・ペダル ” に対するこだわりは強く、
晩年の演奏風景からも “ ペダル ” の踏み込み・踏み離しが、
ともすると無機質になりがちなシンセサイザーの音色に、
情感と抑揚、総じては呼吸感を与えていることが見て取れます。

また巷間よく知られたことながら、
ヴァンゲリスは楽譜を用いなかったとされています。
「楽譜を読めなかったのでは?」と評する方々もいますが、
シンセサイザーの多重録音による音楽制作は、
自身の感覚に基づいて次々に音を重ねてゆけば良く、
特に楽譜を必要とはしなかっただけのことであり、
けっして楽譜を読めなかったわけではないと思います。

加えて、これは早川の勝手な推測ではありますが、
長きに亘り、ヴァンゲリスの音楽を聴き続けておりますと、
ヴァンゲリスが楽譜を用いなかったのは、
自身の脳内に、今この瞬間鳴り響いている自由な「音楽」が、
楽譜を制作している内に消えてゆく、また楽譜を用いる事で、
音楽理論に沿ったものへと整ってしまう等々のことを、
避けたかったのでは?という気がしてくるのであります。

世の中に存在する全てのものには、良い面・悪い面があるはず。
楽譜にもまた、良い面・悪い面があり、
良い面としては、
◯楽譜があれば、それを見て演奏できる。
◯楽譜を書いておけば、いつでも誰でも再現できる。
◯複数の演奏者が合奏する時に、楽譜が道しるべになる。
◯音楽理論に沿った音楽を創出できる等々。
悪い面としては、
◯楽譜に縛られる。
◯音楽理論に捉われる。
◯音楽言語に拘束される。
といったことが挙げられるかも知れません。
楽譜や楽理というものは大変に貴重かつ便利なものですが、
楽譜に縛られたり、音楽理論に捉われてしまいますと、
「音楽」にとって最も大切な “ passion(生命の火)” 、
「即興性・非再現性・忘我性・超越性」といった “ 炎 ” を、
消してしまうことにもなりかねないと思うのであります。
先に、
ヴァンゲリスの音楽をして「熱量の高い音楽」と書きましたが、
音楽作品の「熱量」というのは、音の整理整頓、秩序や分析、
客観性や冷静な判断といったものが入ってくる手前の段階、
いわゆる “ デモ ” の段階が最も高い場合が多々あります。
ヴァンゲリスの音楽は、その制作手法が、
シンセサイザーによる一人多重録音ということもあってか、
作品の数々には「録って出し」的な “ 未完成感 ” が漂い、
良い意味で “ デモ ” の熱量が維持されているように感じます。

音楽理論は “ ロゴス ” 、音楽は “ パトス ” としてみれば、
両者は、時に相和し、時に相争うものなのかも知れません。
楽譜の読み方・書き方を含む「音楽理論」は、
音楽教室や音楽学校等で習得が可能でしょうが、では、
「音楽」そのもの、「音楽」の本体はどうでしょうか?
例えば「旋律の作り方」は教則本にも書いてありますが、
「旋律」そのものは、
果たして誰かから学んだり習ったりするものなのかどうか?
この辺りの消息は、中々に難しいものがありますが、
少なくとも、ヴァンゲリスは独学の人でした。

とは言え、映画音楽等では、
生のオーケストラに自分の楽曲を演奏して貰う必要があります。

作曲風景を捉えたドキュメンタリー映像等には、
ヴァンゲリスがリアルタイムで弾いたシンセサイザー音源を、
一人もしくは複数のオーケストレーターが何度も聞き返しながら、
編曲を施しつつオーケストラ・スコアを書き上げてゆくという、
気の遠くなるような作業の様子が映っています。
その作業を、ヴァンゲリス本人がやれば良さそうなものですが、
そういう作業が苦手だったのかも知れません。


本物の巫女さんを始め、所謂 “ シャーマン ” と呼ばれる方々は、
人間でありながら “ 依り代(よりしろ)” であり、
神々からのメッセージが「おりてくる」人、
もしくは「おろす」人、又は「おろせる」人のことを指します。
早川の個人的な感想ですが、ヴァンゲリスという音楽家には、
どこか “ 音楽シャーマン ” とでも申しましょうか、
天上の旋律が「おりる」人、
天界の響きを「おろす」人、「おろせる」人、
というようなイメージを持ちます。

“ 音楽シャーマン ” と書きましたが、ヴァンゲリスという人物は、
その音楽といい、風貌といい、また若干の「怪しさ」といい、
作曲家と呼ぶよりは、むしろ “ 教祖 ” と呼びたい人物で、
あらためて、
10代の終わり頃からヴァンゲリスの音楽に傾倒し、いま尚、
その音楽に心を揺さぶられる自分自身を振り返りますと、
要は “ ヴァンゲリス教 ” に入信していたのかもなぁ・・・と、
そのような気がしてくるのであります。
そもそも「音楽家」と「その音楽家のファン」との関係性は、
「教祖」と「信者」との関係性に近いものがありますが、
特にヴァンゲリスという音楽家は、
「教祖性(カリスマ性)」が強かったように感じます。

いずれにせよ、
「おろす」作曲家の一人が、いなくなりました。
「おろせる」作曲家の一人が、いなくなりました。
「おろす」人は、地上での役目を終え、
「おりてきた」音楽、その根源的世界へと、
「のぼって」ゆかれたのであります。

Vangelis(1943~2022)

Thank you and good bye , GRAND MASTER .


               









およそ5年ぶりの上京

2022-04-17 15:30:22 | 音楽関係
皆様には、
それぞれ “ 人生の師 ” “ 心の師 ” “ 仕事の師 ” 等々、
所謂 “ 師匠 ” と呼ぶ方々がおられることと思います。
その方々は、同時代を生きる人物の場合もあれば、
歴史上の人物である場合もあり、或いは又、
膝を交えて教導を受けた人物の場合もあれば、
生涯会うことの無い人物という場合もあります。
また自分よりも年齢がずっと若い人を師とする場合もあれば、
人間ではなく、
天地・陰陽・水火・山沢・日月・星辰・神仏・万霊・・・等々、
森羅万象が “ 師 ” と成り得る場合もあろうかと思います。
要は自分自身が、その人物なり事象なりを、

「師と仰ぐか、どうか」

                 

憚りながら早川にも、
“ 音道 ” には “ 音道 ” の師、
“ 仏道 ” には “ 仏道 ” の師、
“ 武道 ” には “ 武道 ” の師というように、
求める “ 道 ” のそれぞれに、師と仰ぐ方々がいます。
このほど組織勤めを退いたことを機に、
先ずは “ 音道 ” の師に御挨拶を申し上げるべく、
およそ5年ぶりに上京してまいりました。

「鋳物の街」として知られる埼玉県川口市。



川口駅に隣接する公園内には、



そこかしこに鋳物彫刻が設置されています。


                 

こちらは、師匠が現在使用中の音楽制作機材。

一見シンプルな構成ですが、考え尽くされています。
師匠がどういった人物で、
どのような音楽作品や映像作品を創造してきたのかは、
とてものこと言葉で説明できるものではありません。
是非とも師匠のYouTube channel を御視聴下さい!

イチから、いや、ゼロから、
いや、マイナスからスタートする早川に、
師匠は親身のアドヴァイスと助言を授けて下さいました。
心から感謝を申し上げます。

                 

さて翌日は、こちらもおよそ5年ぶりの浅草。



先ずは、待乳山聖天・本龍院を参拝します。



本龍院参拝後に訪れた浅草寺境内には、

未だ桜の余韻が色濃く響いていました。


5年前、関東を去るに当たり訪れた時には、
コロナ禍の予兆も気配もなく、本殿の周辺および内部は、
外国人観光客を含む大勢の参詣者で混雑しておりましたが、

現況のコロナ禍に加えて、この日は平日ということもあり、
堂内は静かで、落ち着いて参拝することが出来ました。


全ての社殿・堂宇・境内地に祀られている、
観世音菩薩を始めとした諸仏諸天に手を合わせ、

この5年、小過小病は数有れど、大過大病なく勤務できたことに、
感謝の念を捧げながら巡拝します。


こちらは、仏頂尊勝陀羅尼が刻印された石碑。

「仏頂尊勝陀羅尼」は、
呉音読みでは「ぶっちょうそんしょうだらに」
漢音読みでは「ふせいそんしだらんじ」。
阿弥陀如来根本陀羅尼(呉音:あみだにょらいこんぽんだらに)
一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼(呉音:いっさいにょらいしん
ひみつぜんしんしゃりほうきょういんだらに)と合わせて、
「三陀羅尼」もしくは「三大陀羅尼」と称され尊ばれるもの。

こちらは、宝篋印塔(ほうきょういんとう)。

その名の通り、塔内には先に記しました「三陀羅尼」の一つ、
一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経が納められています。

宝篋印塔には、独特の拝み方や礼拝作法があります。
今ここに記すと長くなりますので稿を改めますが、
宝篋印陀羅尼および宝篋印塔について書かれたものを読みますと、
どれも一様に、宝篋印陀羅尼を唱える者は、その罪障が消滅し、
宝篋印塔を拝む者は、その穢れが祓われると説かれています。

日本では、奈良時代(710~794)の頃から、
かの〈百万塔陀羅尼〉を始め、大小の塔に経巻を納めて設置したり、
それらの塔を土中に埋蔵したりする事が行われてきました。
これは経典そのものに仏威仏力が宿るとする信仰に基づくもの。
上掲の浅草寺・宝篋印塔は、宝暦11年(1761)に建立され、
安政2年(1855)の震災により破損したものが、
明治40年(1907)に修復再建され現在に至るとされています。


浅草寺弁天山弁天堂。

以前は、巳の日(弁財天御縁日)に限り開扉されて、
内部に鎮座する弁財天女尊の御姿を拝むことが出来ましたが、
コロナ禍の現在は、どのように為されているのか分かりません。

                 

隅田川両岸の景色は、時代と共に移り変わり、
一帯に暮らしを営む人々も、死生と共に移り変わり、
こうして隅田川を眺める私自身、いつかは世を去るわけですが、

墨田川の流れ・・・、
この “ 流れ ” という現象自体は不変不滅であります。

両岸に林立する建造物の数々は、一見すると強固かつ堅牢で、
ずっとそこに在り続けるようにも思われますが、
いつしか老朽化し取り壊され、栄枯盛衰を余儀なくされるもの。
人の命も同様に、一見確かに存在するようで、その実、
生老病死を免れることは出来ません。
私たちを含む全ての存在は “ 移ろいゆく ” のであり、
この “ 移ろいゆく ” という性質において、
全ての存在は “ 流れ ” であり、私たちは、
“ 流れ ” という現象を生きていると言えるのかも知れません。

先に「 “ 流れ ” という現象自体は不変不滅」と書きました。
ごく初歩的な三段論法で申し上げるならば、

1、私たちは “ 移ろいゆく ” という性質上 “ 流れ ” である。
2、“ 流れ ” という現象自体は不変不滅である。
3、私たちは不変不滅である。

などと、早川の妄想はお笑い頂くとしても、

想い尽きせぬ隅田川であります。


名古屋に帰る前に、不忍池を訪れました。

あと2ヶ月もすれば、蓮で埋め尽くされるのでありましょう。


こちらは上野恩賜公園内、東叡山・清水観音堂から、

“ 月の松 ” 越しに眺望する弁天堂。

皆様、良き日々でありますように!