今日は3月11日です。
東日本大震災から1年がたちました。
たくさんの犠牲にあわれた方々に、心からお悔やみを申し上げます。
あの日わたしは、職場のビルの地下で仕事をしていました。
突然の揺れ。
3月9日にも震度4の地震があったばかりでした。
揺れが少し強いな…と思った直後、体を強くゆさぶられてるような
揺れになりました。
立っていられないほどです。
揺れは長く、長く、続きました。
壁はポロポロと剥がれおち、尋常ではないことをすぐに察しました。
あわてて、事務室に駆け上がりました。
すぐにビルの外に出るようにとの指示があり、避難しました。
3月というのに、外は雪が降り始めました。コートも着ずに避難したわたしに、
同じ課の皆さんが交代でコートを着せてくれたり、マフラーを首にまいてくれました。
ケータイのワンセグテレビで、大津波警報が出ているとの情報。
それは、(確か)7メートルとの予測でした。
わたしは、信じられませんでした。
むしろ、その情報が間違っているんだと思っていました。
そんな津波なんて、デイ・アフター・トゥモローなどの映画での話だと思っていました。
外で待機している間も、余震は幾度となく繰り返します。
ビルの窓ガラスが激しく振動し、割れるのではないかと思いました。
しばらくたって、帰宅の許可がおり、着替えて帰ることにしました。
職場から徒歩で15分ほどで仙台駅です。
仙台駅は、立ち入り禁止になっていました。
駅舎の天井が崩れ落ち、危険だというのです。
トイレに行きたかったわたしは、駅近くのビジネスホテルでトイレを借りました。
近くで会った、隣の課の同僚と偶然会い、一緒にそのビジネスホテルで待機していました。
ケータイはずっとつながりません。
仙台駅が封鎖されているため、駅近辺にいるひとは、近くの小学校に避難するよう指示が出されていました。
避難所に行ったら、夫と合流できなくなる、と思いました。
夫の携帯に「●●ホテルロビーで待っています」というメールだけを残しました。
同僚といっしょにいる間も、余震は続き、時には外に逃げ出したくなるほどの強さのときもありました。
何時間たったでしょうか。
夫の姿が見えたときの安堵といったらなかったです。
街中の信号が全部消えて、大渋滞しており、道路の損傷も激しく、
なかなか着くことができなかった、とのこと。
同僚を車に乗せ、4号線を南下します。
道路はボコボコで、信号はおろか、街中の明かりが消えていました。
明るいのは、クルマのヘッドライトと、…火事の炎。
混んではいたものの、無事に同僚を自宅まで送り届け(前日にガソリンを満タンにしていた)、
クルマのFMラジオに耳を傾ける…。
「●●海岸近辺に、200を超える遺体がある」
その時に初めて、あの大津波警報を思い出しました。
恐怖感でいっぱいになり、寒気がするほどでした。
義父から「なんでもいいから食料を買ってきてほしい」とメールがあり、
帰り際にコンビニに寄ったのですが、店内はあちらこちらに商品が倒れ、
その中から、お菓子・パンなどを購入しました。
自宅に帰ると、家の中はグジャグジャでした。
深夜遅くの帰宅だったので、明日にしよう、と思い直して就寝することに。
寝室の隅に置いていたセミダブルのベッド2台が、寝室の中央付近まで移動していました。
不安な不安な夜を迎えました。
今日はここまで。
余談ですが…。
震災の日、明かりがすべて失われたあの日、
空には、満点の星がきらめいていました。
すごく、すごーく不謹慎だけど、キレイなキレイな夜空でした。
わたしは、あの星空を忘れないとおもいます。
東日本大震災から1年がたちました。
たくさんの犠牲にあわれた方々に、心からお悔やみを申し上げます。
あの日わたしは、職場のビルの地下で仕事をしていました。
突然の揺れ。
3月9日にも震度4の地震があったばかりでした。
揺れが少し強いな…と思った直後、体を強くゆさぶられてるような
揺れになりました。
立っていられないほどです。
揺れは長く、長く、続きました。
壁はポロポロと剥がれおち、尋常ではないことをすぐに察しました。
あわてて、事務室に駆け上がりました。
すぐにビルの外に出るようにとの指示があり、避難しました。
3月というのに、外は雪が降り始めました。コートも着ずに避難したわたしに、
同じ課の皆さんが交代でコートを着せてくれたり、マフラーを首にまいてくれました。
ケータイのワンセグテレビで、大津波警報が出ているとの情報。
それは、(確か)7メートルとの予測でした。
わたしは、信じられませんでした。
むしろ、その情報が間違っているんだと思っていました。
そんな津波なんて、デイ・アフター・トゥモローなどの映画での話だと思っていました。
外で待機している間も、余震は幾度となく繰り返します。
ビルの窓ガラスが激しく振動し、割れるのではないかと思いました。
しばらくたって、帰宅の許可がおり、着替えて帰ることにしました。
職場から徒歩で15分ほどで仙台駅です。
仙台駅は、立ち入り禁止になっていました。
駅舎の天井が崩れ落ち、危険だというのです。
トイレに行きたかったわたしは、駅近くのビジネスホテルでトイレを借りました。
近くで会った、隣の課の同僚と偶然会い、一緒にそのビジネスホテルで待機していました。
ケータイはずっとつながりません。
仙台駅が封鎖されているため、駅近辺にいるひとは、近くの小学校に避難するよう指示が出されていました。
避難所に行ったら、夫と合流できなくなる、と思いました。
夫の携帯に「●●ホテルロビーで待っています」というメールだけを残しました。
同僚といっしょにいる間も、余震は続き、時には外に逃げ出したくなるほどの強さのときもありました。
何時間たったでしょうか。
夫の姿が見えたときの安堵といったらなかったです。
街中の信号が全部消えて、大渋滞しており、道路の損傷も激しく、
なかなか着くことができなかった、とのこと。
同僚を車に乗せ、4号線を南下します。
道路はボコボコで、信号はおろか、街中の明かりが消えていました。
明るいのは、クルマのヘッドライトと、…火事の炎。
混んではいたものの、無事に同僚を自宅まで送り届け(前日にガソリンを満タンにしていた)、
クルマのFMラジオに耳を傾ける…。
「●●海岸近辺に、200を超える遺体がある」
その時に初めて、あの大津波警報を思い出しました。
恐怖感でいっぱいになり、寒気がするほどでした。
義父から「なんでもいいから食料を買ってきてほしい」とメールがあり、
帰り際にコンビニに寄ったのですが、店内はあちらこちらに商品が倒れ、
その中から、お菓子・パンなどを購入しました。
自宅に帰ると、家の中はグジャグジャでした。
深夜遅くの帰宅だったので、明日にしよう、と思い直して就寝することに。
寝室の隅に置いていたセミダブルのベッド2台が、寝室の中央付近まで移動していました。
不安な不安な夜を迎えました。
今日はここまで。
余談ですが…。
震災の日、明かりがすべて失われたあの日、
空には、満点の星がきらめいていました。
すごく、すごーく不謹慎だけど、キレイなキレイな夜空でした。
わたしは、あの星空を忘れないとおもいます。