adequately

口癖は「適当に」。そんな【たあ】のひとりごと。

あの日から1年 1

2012-03-11 18:53:42 | Weblog
今日は3月11日です。

東日本大震災から1年がたちました。
たくさんの犠牲にあわれた方々に、心からお悔やみを申し上げます。




あの日わたしは、職場のビルの地下で仕事をしていました。
突然の揺れ。
3月9日にも震度4の地震があったばかりでした。
揺れが少し強いな…と思った直後、体を強くゆさぶられてるような
揺れになりました。
立っていられないほどです。
揺れは長く、長く、続きました。

壁はポロポロと剥がれおち、尋常ではないことをすぐに察しました。
あわてて、事務室に駆け上がりました。
すぐにビルの外に出るようにとの指示があり、避難しました。

3月というのに、外は雪が降り始めました。コートも着ずに避難したわたしに、
同じ課の皆さんが交代でコートを着せてくれたり、マフラーを首にまいてくれました。

ケータイのワンセグテレビで、大津波警報が出ているとの情報。
それは、(確か)7メートルとの予測でした。
わたしは、信じられませんでした。
むしろ、その情報が間違っているんだと思っていました。
そんな津波なんて、デイ・アフター・トゥモローなどの映画での話だと思っていました。

外で待機している間も、余震は幾度となく繰り返します。
ビルの窓ガラスが激しく振動し、割れるのではないかと思いました。
しばらくたって、帰宅の許可がおり、着替えて帰ることにしました。

職場から徒歩で15分ほどで仙台駅です。
仙台駅は、立ち入り禁止になっていました。
駅舎の天井が崩れ落ち、危険だというのです。
トイレに行きたかったわたしは、駅近くのビジネスホテルでトイレを借りました。
近くで会った、隣の課の同僚と偶然会い、一緒にそのビジネスホテルで待機していました。

ケータイはずっとつながりません。
仙台駅が封鎖されているため、駅近辺にいるひとは、近くの小学校に避難するよう指示が出されていました。
避難所に行ったら、夫と合流できなくなる、と思いました。
夫の携帯に「●●ホテルロビーで待っています」というメールだけを残しました。
同僚といっしょにいる間も、余震は続き、時には外に逃げ出したくなるほどの強さのときもありました。

何時間たったでしょうか。
夫の姿が見えたときの安堵といったらなかったです。
街中の信号が全部消えて、大渋滞しており、道路の損傷も激しく、
なかなか着くことができなかった、とのこと。

同僚を車に乗せ、4号線を南下します。
道路はボコボコで、信号はおろか、街中の明かりが消えていました。
明るいのは、クルマのヘッドライトと、…火事の炎。

混んではいたものの、無事に同僚を自宅まで送り届け(前日にガソリンを満タンにしていた)、
クルマのFMラジオに耳を傾ける…。
「●●海岸近辺に、200を超える遺体がある」
その時に初めて、あの大津波警報を思い出しました。
恐怖感でいっぱいになり、寒気がするほどでした。

義父から「なんでもいいから食料を買ってきてほしい」とメールがあり、
帰り際にコンビニに寄ったのですが、店内はあちらこちらに商品が倒れ、
その中から、お菓子・パンなどを購入しました。

自宅に帰ると、家の中はグジャグジャでした。
深夜遅くの帰宅だったので、明日にしよう、と思い直して就寝することに。
寝室の隅に置いていたセミダブルのベッド2台が、寝室の中央付近まで移動していました。
不安な不安な夜を迎えました。




今日はここまで。

余談ですが…。
震災の日、明かりがすべて失われたあの日、
空には、満点の星がきらめいていました。
すごく、すごーく不謹慎だけど、キレイなキレイな夜空でした。
わたしは、あの星空を忘れないとおもいます。


最新の画像もっと見る