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口癖は「適当に」。そんな【たあ】のひとりごと。

あの日から1年 2

2012-03-12 19:49:19 | Weblog
朝を迎えました。

散らかった家の中は、足の踏み場もないほどになりました。


本棚は倒れ、クロゼットの扉はあき、中の段ボールが崩れ落ちる寸前。

何をしたらいいのかわからなかったけれど、片付けたりしていました。
その間も余震が続き、何度も何度も怖い思いをしました。

ケータイは相変わらずつながりにくい状態がつづいていました。
それでも、メールボックスには、友人や家族からの安否を心配するメールが届いていました。

ヘリコプターが何往復も、何往復も飛びます。
ご遺体を搬送するためです…。
朝早くから、暗くなるまでずっとずっと往復しています。
今でもヘリの音を聞くたびに怖い気持ちになります。


わたしが住んでいるところは、わりと早く電気がとおりました。
(それは、大きな遺体安置所があったから、と言われています。
ご家族がご遺体との対面(確認)をするために…)

電気がとおったので、ご飯が炊けるようになりました。
ごはんを炊いては、おにぎりを握り続けました。
今でもおにぎりを握るたび、その時のことを思い出します。

テレビが見れるようになって、目に映ったものは沿岸部の津波の被害でした。
親戚の家も津波で全壊になりました。

友人の家に石油ストーブを貸しにでかけたのですが、

泥だらけの町。道路のいたるところに流されたクルマ。
そのクルマの上にクルマ。さらにその上にクルマ。
駐車場にもたくさんのクルマが流れ着いている。
歩道に打ち上げられた船。

ヘドロと瓦礫だらけになった田んぼ。
水没している道路。
おびただしい台数の消防車…
(ガスタンクが爆発・炎上していた)
昼なのに煙で空は暗く、臭いもすごい…。

あぁ………
言葉にならないよ。

毎日流れる悲しいニュース。
テレビから目が離せなくなりました。

それに加えて福島の原発…。
日本は、東北はどうなってしまうのか、と本気でおびえていました。


それからは、
トイレのタンクに入れるための水を確保するため、川に行ったり、
発電機を稼働させるために義父と夫が奮闘したり、
近所の方と食べ物を分け合ったり、炊き出しの列に並んだり、
買い物をするのにも、2~3時間並ぶのは当たり前。
お店によっては、一人10点まで、とか制限もありました。
「今日は●●スーパーが開店するみたいですよ」という情報交換をするのが
日課になりました。
ガソリンを入れるのに5~6時間並んだことも。

一生懸命に過ごしていたとおもいます。
必死だった。
だって何かしていないと、滅入ってしまいそうだったから。
四六時中来る余震に怯えて、眠れない日々。
夜が来るのが怖くて、ばんごはんを食べたあとは、
ガクッと落ち込んでいました。
お風呂も入れないので、ごはんを食べたらあとは寝るだけ。
いつまた大きな地震がくるかわからないので、
すぐに逃げることができるように、
服のまま眠っていました。
すぐそばにはスノボ用のウエア。

毎日くるしくて、人に頼ることもできなくて、ちょっと無理してがんばってた。
泣きごとなんて言えないって思ってた。
津波で、たくさんの人が犠牲になっているのに、
家が流されて、不便な避難所で生活している人もいるのに、
わたしは恵まれてるって思ってたから。
もっとツライ想いをしている人が、大勢いるのを理解してたから。



あぁ……ちょっとキツくなってきた。
一気に書きすぎると、感情が止まらなくなってしまいそう。

また後日。

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