@distancefilm
@distancefilmjp
『ディスタンス』を観てきた。
この作品はドキュメンタリー映画じゃない。
とても重い結婚披露宴の余興ビデオだ。
父、母、兄、自分、ときどきお婆ちゃん。
親父方の婆ちゃんは、凄い苦労人で、
日本で生まれて、満州に渡って、そこで結婚して子供が産まれて、
終戦時に子供と一緒に日本に帰ってきて、
こっちで再婚して子供が産まれて、
離婚して、
再婚して子供が産まれて。
と、愛新覚羅溥儀に負けず劣らずの人生を送ってる人だ。
そんな婆ちゃんの最後の夫、つまり僕の爺ちゃんは、僕が9歳の時に死んだ。
葬式で婆ちゃんは、樒を置いて(爺ちゃんは神道式でおくられた)、大きく拍手を二回打ち、
「ご苦労さんでした!」
と言った。
人が誰かと一緒に居続けるためには、相応の努力がいる。たぶんあの台詞は何よりも重い婆ちゃんからの別れの言葉だったんだろう。
人が誰かと一緒に居続けるためには、相応の努力がいる。これに僕が気付いたのは、数年前のこと。知ってたはずだけど、さっぱり気付いてなかった。残念だ。
「この長さ」と、浴槽の淵に左右の人差し指を置いた。指と指の間の距離は20センチぐらい。
「これを半分にして」
10センチぐらいに指が近づく。
「半分にして、半分にして、ずーっと続けて行っても指は重ならない」
子供の頃、一緒に湯船に浸かりながら親父が僕に話したことだ。
何でそんなことを話したのか?
何でそんなことを覚えているのか?
どっちもサッパリ分からない。でも覚えている。
そして、確かに指は重ならない。
もし、岡本まな監督がこの作品で、カメラの向こうからそしてカメラのこちらから、家族を撮り、家族だったものを撮り、自分と家族の距離を測ろうとしたのなら、お兄ちゃんにそして監督自身に問うて欲しかったことがある。
「お父さんとか、お母さんとかみたいにならない自信、ある?」と。
ディスタンス。
絶対に重ならない二本の指。
その距離を、指を重ねようとする努力が、監督自身に出来るだろうか。
@distancefilmjp
『ディスタンス』を観てきた。
この作品はドキュメンタリー映画じゃない。
とても重い結婚披露宴の余興ビデオだ。
父、母、兄、自分、ときどきお婆ちゃん。
親父方の婆ちゃんは、凄い苦労人で、
日本で生まれて、満州に渡って、そこで結婚して子供が産まれて、
終戦時に子供と一緒に日本に帰ってきて、
こっちで再婚して子供が産まれて、
離婚して、
再婚して子供が産まれて。
と、愛新覚羅溥儀に負けず劣らずの人生を送ってる人だ。
そんな婆ちゃんの最後の夫、つまり僕の爺ちゃんは、僕が9歳の時に死んだ。
葬式で婆ちゃんは、樒を置いて(爺ちゃんは神道式でおくられた)、大きく拍手を二回打ち、
「ご苦労さんでした!」
と言った。
人が誰かと一緒に居続けるためには、相応の努力がいる。たぶんあの台詞は何よりも重い婆ちゃんからの別れの言葉だったんだろう。
人が誰かと一緒に居続けるためには、相応の努力がいる。これに僕が気付いたのは、数年前のこと。知ってたはずだけど、さっぱり気付いてなかった。残念だ。
「この長さ」と、浴槽の淵に左右の人差し指を置いた。指と指の間の距離は20センチぐらい。
「これを半分にして」
10センチぐらいに指が近づく。
「半分にして、半分にして、ずーっと続けて行っても指は重ならない」
子供の頃、一緒に湯船に浸かりながら親父が僕に話したことだ。
何でそんなことを話したのか?
何でそんなことを覚えているのか?
どっちもサッパリ分からない。でも覚えている。
そして、確かに指は重ならない。
もし、岡本まな監督がこの作品で、カメラの向こうからそしてカメラのこちらから、家族を撮り、家族だったものを撮り、自分と家族の距離を測ろうとしたのなら、お兄ちゃんにそして監督自身に問うて欲しかったことがある。
「お父さんとか、お母さんとかみたいにならない自信、ある?」と。
ディスタンス。
絶対に重ならない二本の指。
その距離を、指を重ねようとする努力が、監督自身に出来るだろうか。