期間限定の独り言

復興の道のりはつづく。

いじめの話続き

2012-07-31 21:40:21 | 日記
 本稿は自分の個人的な話。
 大津で中学生が自死に追い込まれた件についての報道が続くうち、ある時ふと思い当たったのが、この四月に勤め始めて二週間で辞めたあの学校で、私はいじめられていたのだなということであった。その時はもちろん、辞めてからもずっと意識できなかった。ただあのつらい感覚は子供の頃から非常に馴染みぶかいもので、逃げ出すほかないと考えたのは生物的本能といってよい。
 私は子供の頃から、いくらいじめられても登校拒否になったことは一度もなかったが、そうしてひたすら耐えていくことは、自分の魂のある部分をしだいに壊死させていくことにしかならない。
 そのようにして生涯のある時間を切り抜けた人間というのは、その後の精神のありようが、いわば復員兵のようになるのではないかと思う。作家の小説やエッセイを読むと、従軍経験は人によってさまざまな影響を残すことがうかがえるが、たとえば大岡昇平は、ある日そば屋に一人で入って、四人がけのテーブルに座ろうとしたら店員にカウンターに移るように言われて、逆上して店を飛び出したという。命令されるのはもう御免だという思いが、平和に戻った日常の中でふと噴出する。
 私なんかも、なかなか一口では言いがたいが、何かこういわれなく相手を支配してやろうという底意には非常に敏感になっている。あの学校の管理職は、生徒に対してもそうであったが、配下の教員にも、とにかく余計なことを考えさせずに、まず威圧して服従させるというのが方針であったと思われる。
 特に私という人間に対しては、いいかげん歳は食っているし、特殊な履歴を経てきたことではあるし、学校に忠誠を尽くすように根性を叩き直してやるという考えがひそんでいたに違いない。最初だからガツンと言ってやるみたいな。
 そうでなければあの、人が授業をしている教室に断りもなく入り込んで来て、居眠りしている生徒を勝手にひっぱたいて起こした上に叱りつけ、私がその生徒に言葉を掛けたことまで後で文句をつけるという行為は説明がつかない。
 日本におけるいじめという所業の始末の悪さは、必ず正当化を伴うということである。いじめられる方にも原因がある。いじめに耐えることで精神が鍛えられる。あらゆる組織にいじめは存在するのだから無くすことはできない。
 こういう、盗人にも三分の理みたいな屁理屈がつねにあるから、いじめられる方も加害側が勝手に作った世界観の中に閉じ込められて、一人で苦しむことになる。
 あの管理職も表面上は、平教員の指導監督という正当な意味があるから、それを受け付けない私が悪いと基本的に考えていた。しかし考えてみると、教育実習の時も駆け出しの常勤の時も、あんなむちゃくちゃな〈指導〉をされたことは一度もない。
 いじめとして自覚することにもう一つ効用があると思うのは、いじめというものは、本質的にきわめて個別的で特殊な状況だということである。いわれなく迫害されていると、相手が絶対的に正しくて、まちがっているのはすべて自分だと思いがちだが、決してそんなことはない。
 私の場合、他の教員はまともに働いているのに、辞めるに追い込まれたのは私だけだから、やはり私が悪いんだろうと思っていたが、あの管理職の意識が特に私を標的にしていたのだと考えれば、他の教員がどうあろうと関係はないのである。要するに状況を高い視点から客観的に見るということであるが、渦中にあると実にむつかしい。
 大人としていちいち辞職しているわけにも行かないので、いじめをどう克服するかという問題はさておいて、見も知らぬ大津の中学生に今の私はひそかに感謝している。いじめられている人々よ我々は決して一人ではないのだ。