私の身の上も一応は落ち着いて、淡々とした毎日を送っている。ただ相変わらず貧血はあるようで、時に身動きが辛くなるほどだるくなる。
一昨日の晩であったか、NHKのプロフェッショナル仕事の流儀という番組を見ていたら、自殺防止の運動をしているという牧師さんが出てきた。確か九州かどこかの(正しくは和歌山。南紀白浜だった。後日訂正)、海に面した断崖絶壁がいわゆる自殺の名所みたいになっている所で、そこの電話ボックスに連絡先とコインを置いておいて、死にに来た人が最後の助けを求めて来ると、教会に引き取っていろいろと相談に乗ってあげて、社会復帰を支援しているのだそうである。
私としては人ごとではないと思って、つい夜更けまで見入ってしまったのだが、結論から言うと、非常に気分は沈んだ。この教会で共同生活をしているという人々を見ていると、人間こうはなりたくないもんだと思った。久しぶりにまた死にたくなったと言ってもいいほどである。
おそらくこういう所に私の性格の問題があるんだろうと思うが、同じ人間として生まれて、どうしてこう生き難さに違いがあるのかと、それこそ神さまに疑問をぶつけたくなる。この牧師さんは私の一歳上らしいが、人を救うという自分の生き方に何ら疑いを持たず、自信たっぷりに生きている。
一方で、この世における自分の人生に絶望し、この牧師さんに「救われて」教会で共同生活を送っている人々は、まあ確かに弱い人間であるのだろう。依存症があるとか、気が弱いとか自制心がないとか、一言で言えばロクデナシである。だから人生つまずいて破綻に至るのである。
そういう人らを、この牧師さんは優しくも厳しくも導いて、社会で一人で生きて行けるように自立支援をする。といえば聞こえはいいが、そこには相当〈管理〉という側面が入ってくる。たとえば、この人たちが働いて給料をもらうと、手許に残せるのは月々一万円だけで、後は全額この教会を出るまで牧師さんの預かりになるんだそうである。
これはある意味やむを得ないことであって、おそらくこうでもしないと、こういう人たちは飲んだくれたり博打に費やしたりするということがあるんだろうと思う。以前少し問題になった、光あれ何とかいうアル中の更生施設でもこういうことがあった。
定時制の高校で講師をした経験からいっても、この手の人たちは実際つきあってみるとなかなか困ったものであることは想像に難くない。そういう現実の苦労は何も知らずに言うのだが、それでも、私がどちら側に立つかといえば、この牧師さんよりはロクデナシの人々の方である。
これは価値観の問題であるが、この人たちはこの教会に居て本当に幸せなのかしらという気がした。こんな風に他人に手を差し伸べられて、魂を預けて、管理されて生かされているくらいなら、自分の意思で死ぬ方が人間らしいのではないかと思う。これはもちろん自分自身に真っ先に適用される話であって、私はこのテレビを見ていて、わざわざこの牧師さんの所の自殺の名所に行って死んでやろうかとまで思ったのである。深夜だと全く馬鹿なことを考える。
しかしこう書いているとただの分らず屋か天邪鬼であるが、芥川や太宰や川端を挙げるまでもなく、文学の世界では自殺ということについて真剣に考えた人はいたのである。たとえば菊池寛の短編に『身投救助人』(題名はあやふや)という作品があった。やはりこの牧師さんのように、河に身を投げる人を助け上げるのを仕事のようにしていた老婆が、ある事情で自分が同じように自殺に追い込まれる羽目になる。身投げをして引き上げられた、その時初めて、自分がよかれと思って助けてきた自殺者の気持ちがわかったという話だったと思う。
やっぱり自分もまたロクデナシであるという痛切な自覚がないと、人助けは傲慢にならざるをえない。何度も言うが、あの牧師さんの現実の苦労は全く知らずに言っている。さらに、自ら弱さを抱えながら、弱い人間を助けるというのは、自分も引き込まれる危険があるから至難の業なのである。しかしそれでもなお、お互いに同じ水準に立って活きる中で他人を助けるためには、どうしてもそういう〈弱さ〉を抱えた人間でなくてはならないと思う。私? 残念ながら私はそんな超人ではないです。
一昨日の晩であったか、NHKのプロフェッショナル仕事の流儀という番組を見ていたら、自殺防止の運動をしているという牧師さんが出てきた。確か九州かどこかの(正しくは和歌山。南紀白浜だった。後日訂正)、海に面した断崖絶壁がいわゆる自殺の名所みたいになっている所で、そこの電話ボックスに連絡先とコインを置いておいて、死にに来た人が最後の助けを求めて来ると、教会に引き取っていろいろと相談に乗ってあげて、社会復帰を支援しているのだそうである。
私としては人ごとではないと思って、つい夜更けまで見入ってしまったのだが、結論から言うと、非常に気分は沈んだ。この教会で共同生活をしているという人々を見ていると、人間こうはなりたくないもんだと思った。久しぶりにまた死にたくなったと言ってもいいほどである。
おそらくこういう所に私の性格の問題があるんだろうと思うが、同じ人間として生まれて、どうしてこう生き難さに違いがあるのかと、それこそ神さまに疑問をぶつけたくなる。この牧師さんは私の一歳上らしいが、人を救うという自分の生き方に何ら疑いを持たず、自信たっぷりに生きている。
一方で、この世における自分の人生に絶望し、この牧師さんに「救われて」教会で共同生活を送っている人々は、まあ確かに弱い人間であるのだろう。依存症があるとか、気が弱いとか自制心がないとか、一言で言えばロクデナシである。だから人生つまずいて破綻に至るのである。
そういう人らを、この牧師さんは優しくも厳しくも導いて、社会で一人で生きて行けるように自立支援をする。といえば聞こえはいいが、そこには相当〈管理〉という側面が入ってくる。たとえば、この人たちが働いて給料をもらうと、手許に残せるのは月々一万円だけで、後は全額この教会を出るまで牧師さんの預かりになるんだそうである。
これはある意味やむを得ないことであって、おそらくこうでもしないと、こういう人たちは飲んだくれたり博打に費やしたりするということがあるんだろうと思う。以前少し問題になった、光あれ何とかいうアル中の更生施設でもこういうことがあった。
定時制の高校で講師をした経験からいっても、この手の人たちは実際つきあってみるとなかなか困ったものであることは想像に難くない。そういう現実の苦労は何も知らずに言うのだが、それでも、私がどちら側に立つかといえば、この牧師さんよりはロクデナシの人々の方である。
これは価値観の問題であるが、この人たちはこの教会に居て本当に幸せなのかしらという気がした。こんな風に他人に手を差し伸べられて、魂を預けて、管理されて生かされているくらいなら、自分の意思で死ぬ方が人間らしいのではないかと思う。これはもちろん自分自身に真っ先に適用される話であって、私はこのテレビを見ていて、わざわざこの牧師さんの所の自殺の名所に行って死んでやろうかとまで思ったのである。深夜だと全く馬鹿なことを考える。
しかしこう書いているとただの分らず屋か天邪鬼であるが、芥川や太宰や川端を挙げるまでもなく、文学の世界では自殺ということについて真剣に考えた人はいたのである。たとえば菊池寛の短編に『身投救助人』(題名はあやふや)という作品があった。やはりこの牧師さんのように、河に身を投げる人を助け上げるのを仕事のようにしていた老婆が、ある事情で自分が同じように自殺に追い込まれる羽目になる。身投げをして引き上げられた、その時初めて、自分がよかれと思って助けてきた自殺者の気持ちがわかったという話だったと思う。
やっぱり自分もまたロクデナシであるという痛切な自覚がないと、人助けは傲慢にならざるをえない。何度も言うが、あの牧師さんの現実の苦労は全く知らずに言っている。さらに、自ら弱さを抱えながら、弱い人間を助けるというのは、自分も引き込まれる危険があるから至難の業なのである。しかしそれでもなお、お互いに同じ水準に立って活きる中で他人を助けるためには、どうしてもそういう〈弱さ〉を抱えた人間でなくてはならないと思う。私? 残念ながら私はそんな超人ではないです。