しょうちゃんズ_Cafe

全力少年しょうちゃんが日々の感動と発見の中から、その心象風景とそこに織りなす人間ドラマを紹介します⌒⌒。

最後のおまけ(その8-2) ※8-2)

2008年04月24日 13時02分48秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※8)父子三代:
(2)島 隆(1931-  )は、島秀雄※2)の次男であり、島安次郎※8-2)の孫に当たる。東大工学部機械工学科卒。1955年国鉄入社。
若くして新幹線グループに抜擢され、0系の台車設計に当たる。のち東北上越新幹線の車両設計責任者。世界銀行調査委員としても活躍。
「父からは鉄道をやれとは一言も言われていない。まさか父がもう一度同じ職場
に戻ってくるとは思わなかった」秀雄、隆ともに、奇しくも同じ言葉を語ってい
る。


本編および注釈※1~8)については、下記の文献・資料を参考にした。
≪参考文献≫
・高橋団吉著 「新幹線を作った男 島秀雄物語」2000.5 小学館
・碇 義朗著 「超高速に挑む」1993 文藝春秋社
・中島幸三郎著「風雲児・十河信二傳」1955 交通協同出版社
・愛媛県生涯学習センターHPより “愛媛の偉人・賢人の紹介”十河信二:
  http://joho.ehime-iinet.or.jp/syogai/jinbutu/html/071.htm
・Wikipedia(フリー百科事典)より 島 秀雄:
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%A7%80%E9%9B%84
・土木学会HPより 歴代会長紹介・大石重成:
  http://www.jsce.or.jp/outline/chair/chairman.html#chair58

以上、完。

またまた、おまけ(その8) ※8-1)

2008年04月24日 12時02分05秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※8)父子三代:
(1)秀雄の父・島安次郎(1870-1946)は、
東京帝大工学部機械工学科卒。関西鉄道を経て鉄道省入省。のち技監。
広軌改築派の理論的・技術的中心人物。
大正7年、原敬内閣で「狭軌ニテ可ナリ」という国会議決が可決され、署名捺印を拒否して辞職。
のち、東京帝大講師(秀雄も講義を受けている)、満鉄理事。戦時中の弾丸列車計
画では幹線調査会特別委員長として精力的に活躍した。

まだ、おまけ(その6~7) ※6) 7)

2008年04月22日 17時39分39秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※6)総工事費1972億円:
 昭和35年度の国家予算が総額1兆5697億円、道路事業予算が1072億円。いかに新幹線建設プロジェクトの規模が大きかったかが想像できる。

ちなみに、平成20年度当初一般会計予算は、約83兆円。
本四架橋3ルートで総額3兆3700億円といわれている。


※7)約3800億円:
 昭和39年度の予算が成立して間もない時期に工事費不足約874億円(当時)が露呈した。「全体で約2926億円、それ以上は要求しない」とした直後のことである。これが政治問題化し次期首相候補の鞘あて、思惑が交錯し、十河追い落とし派の度重なる工作もあり、十河は再々任されず新幹線開通を待たずに総裁の座を去っている。

ちなみに、
新幹線開通後、次々代総裁の時に写真のようなレンガ色の碑がつくられた。
それは、東京駅19番ホームの大阪寄り先端にある。
そしてそこには、新幹線誕生に格闘した熱血総裁・十河信二のレリーフが置かれている。「一花開天下春」(一花、天下の春を開く)という自筆の書碑とともに。

おまけ(その5) ※5)

2008年04月21日 14時43分04秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※5)東京-下関間弾丸列車計画:
「夢の超特急」ひかりは昭和39年(1964)颯爽とデビューした。
 しかし、東海道・山陽新幹線は戦前から計画され、昭和16年(1941)に部分着工していた。全線踏切のない立体交差で、レールの幅は世界標準軌(広軌)、時速150km/h、東京-大阪間4時間半、大阪-下関間4時間半を目指したが、戦況悪化により中止。東海道新幹線の東京-名古屋間、京都-大阪間のルートは、ほぼ上述の弾丸列車計画のものがそのまま引き継がれている。この中で、日本坂トンネル
(2,174m)は昭和19年(1944)9月にすでに完成、新丹那(しんたんな)トンネル(7,959m)も両側から約3割程度堀り進められていた。
 ちなみに、弾丸列車計画を推し進めた鉄道幹線調査会特別委員会委員長は島安次郎(秀雄の父、当時69歳)であった。そして東海道新幹線「ひかり0系」の設計を実際に担当したのは、島 隆(秀雄の次男)である。
 東海道新幹線の起工式(図参照)は、昭和34年4月20日、新丹那トンネルの熱海口にて行われた。戦時中の弾丸列車計画の際に入り口はすでに完成済み。
神棚の前で総裁・十河信二が鍬入れ式を行った。

おまけ(その4) ※4)

2008年04月21日 14時36分02秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※4)広軌(こうき):
国鉄(現JR)在来線は、軌間(線路の幅)1,067mmの「狭軌(きょうき)」。
これに対し世界の標準軌は1,435mm。日本ではこれを「広軌」と称している。狭軌は、もともとイギリスが植民地型規格として進めた規格である。
「狭い日本には狭軌で十分、コストも安くすむ」という大隈重信の一言で決まったとされる。しかし、高速かつ大量の輸送を実現するには、大型の車両が走行可能な広軌が大前提になる。広軌に改築すべしという軌間論争は明治以来続いていた。政党間(政友会vs憲政会)の利害と直結していて、明治42年(1909)からの10年間が最も激しく論議されている。大正7年(1918)原敬内閣で「狭軌」が国会で可決され、論争に終止符が打たれた。

おまけ(その3) ※3)

2008年04月21日 14時30分57秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※3)大石重成:
昭和5年(1930)東京帝大工学部土木工学科卒。
鉄道省建設局計画課、52年国鉄東京鉄道管理局長、54年建設部長、57年北海道支社長、幹線調査室長、58年常務理事、60年新幹線総局長となり63年退官。
64年鉄道建設業協会会長はじめ各種団体の役員を兼務。
第58代土木学会会長。

おまけ(その2) 参考資料 注釈※2)

2008年04月17日 21時16分46秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※2)島 秀雄(1901-1998):
 大阪市生まれ。東京帝大工学部機械工学科卒。
 大正14年(1925)鉄道省入省。D51などの蒸気機関車の設計者として活躍し、戦後は工作局長として湘南電車、ビジネス特急「こだま」などをプロデュース。桜木町事故で国鉄を辞するが、総裁・十河信二に懇請されて昭和30年(1955)技師長としてカムバック。東海道新幹線建設の指揮を執る。
 1995年文化勲章を受章。鉄道人としては史上初、エンジニアとしてはソニー創業者井深大に続いて2人目の受賞である。

 一般に「新幹線」は明るい未来、現代的で夢に向けて疾走する超特急。「蒸気機関車」D51(デゴイチ)は暗く重たい過去、戦争時代の轟音とともにバク進する黒い巨体。とのイメージではないか?そこには明らかな歴史の破断線があるかのようで、現代社会は「戦後にスタートした」、敗戦後リセットされて戦後民主主義とともにあるかのように、ともすると思いがちである。しかし、近代から現代に続く、市民生活と産業活動を支える社会装置は、大きな流れで見ると明治期以来脈々と流れる人間活動が引き継がれている。とりわけ鉄道では同じレールの上を走り続けていると言える。その証拠に戦前戦後の激動時代を股にかけ世界鉄道史上に燦然と輝く傑作を生み出した人物とそれに連なる者達がいる。

 島秀雄その人である。
 1901(明治34)年5月20日大阪に生まれる。島の生涯はほぼ20世紀の全体にわたる。エンジニアとして活躍した20代前半から70代後半まででも優に50年以上に及ぶ。蒸気機関車のD51(デゴイチ)、C62(シロクニ)、湘南電車、ビジネス特急こだま、東海道新幹線、そして宇宙ロケット(宇宙開発事業団初代理事長)まで数多くの乗り物を手掛けている。

 生前、島は自分には尊敬し敬愛する人物が二人いる、と語っている。一人は父・島安次郎、もう一人は元国鉄総裁・十河信二である。多磨霊園に作った墓は島の母・順が80歳で他界したときに島が建てたものである。その時、島は墓石に刻む書を十河信二に頼んだ。事実、クリスチャンの島は横長の墓石に「島家」と縦書きし、小さく十河信二揮毫と記されている。背面には昭和34年7月建立とある。
 昭和34年と言えば東海道新幹線建設に向けて本格的に動き始めた年である。4月には新丹那トンネルで起工式が行われ、7月には東海道本線で「ビジネス特急こだま」による最高速度試験(時速163km/h)が行われていた。当時国鉄総裁は十河信二。島秀雄が技師長である。それは島の輝かしいエンジニア人生の中でもおそらく最も充実した時期であったはずである。
 島家の墓は一族の墓所であると同時に、いずれは自分もそこへ仲間入りするが、その時に敬愛する二人の先人とともにあることを希望し、結びつける「モニュメント」として、すでに島の頭の中にあったのはなかろうか。
 1998(平成10)年3月18日没。享年96歳。東京多磨霊園15区1種2側15番「島家」の墓に眠る。合掌。


おまけ 注釈※1)

2008年04月10日 13時03分13秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※1)十河(そごう)信二(1884-1981):
愛媛県新居浜市生まれ。東京帝大法学部卒。後藤新平に認められて鉄道院に入り、満鉄理事となって大陸で活躍。終戦時は地元の愛媛県西条市市長。
昭和30年(1955)、71歳で第4代国鉄総裁に就任。当時、国鉄では難問山積みで、
洞爺丸事故(昭和29年9月)、紫雲丸事故(昭和30年5月)等もあり後任の引き受け手がなかった。高齢でもあり固辞するが、一たび総裁になるや猛然と走り出した。誰もが短命視する中で予想に反して丸々8年総裁を務める。「広軌新線」計画は、史上未曾有の大プロジェクトであり、不用意に口にすれば一気に潰されかねない。一方では、“爺さんの夢物語”と一笑に付されまともに取り扱ってもらえない状態であったが、ついには世界に冠たる東海道新幹線実現まで漕ぎ着けてしまう。
2007年11月愛媛県西条市、JR伊予西条駅横に十河信二記念館が開館した。

 十河信二は、昭和56年(1981)11月3日に亡くなったが、葬儀後、遺骨を持って新居浜へ帰るとき、十河五男氏の記述によると、生前、「今一度自分が育てた新幹線に乗りたい」と言っていたのを思い出し、飛行機をとりやめて急遽、新幹線で新居浜へ帰ることにした。
 途中、車掌のはからいで「グリーン車に、遺影を安置する場所を設けておりますので、そちらにお移りください」と言われた。車内では乗客も、鉄路一筋に生涯を捧げた信二に拝霊し、また車掌に「各停車駅で、幹部職員が見送りに出ておりますので、車窓から遺影を掲げてくださるように」といわれ、それに従いホームでは、多くの職員の丁寧な葬送を受けたという。このように部下には非常に慕われていた「カミナリ親父」だった。

<どぼくのある風景>第3話 夢の超特急編『SHINKANSEN』

2008年04月09日 12時05分31秒 | Weblog
<どぼくのある風景>
  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
 1964(昭和39)年10月1日午前6時ひかり1号新大阪行きは警笛とともに静かに東京駅9番ホームを出発した。

 東京オリンピック開催を9日後に控え、日本中の期待と希望を乗せて新幹線時代が幕を開けた。先立つことホームでは出発式が挙行された。運転士には花束が贈られ、国鉄総裁の式辞、テープカット等盛大な式典が行われた。新聞各紙は一面トップで新時代の幕明けを報じた。
 東海道新幹線は、開業と同時に大成功する。営業日数約1000日で早くも乗客一億人(昭和42年7月)、3000日(昭和47年9月)で5億人を運んでいる。開業からの35年間で実に延56億人。単純に考えると日本人一人当たり43回も新幹線に乗った計算である。日本の高度経済成長は東海道新幹線に大きく依存しているといって過言ではない。
 経済ばかりか日本人のライフスタイルまで大きく様変わりさせたのである。「SHINKANSEN」は世界に通じる単語であり、日本のみならず世界の鉄道・交通に“新風”をもたらした。高速化を断念していた各国国鉄はこれに倣い、奮起した。フランスTGV、ドイツICE、スペインAVEなど都市間高速鉄道の花が開いた。「SHINKANSEN」は鉄道斜陽化という当時の世界の常識を覆し、鉄道をよみがえらせたのである。
 国鉄総裁・十河(そごう)信二※1)、技師長・島秀雄※2)、新幹線総局長・大石重成※3)、この3人は「新幹線三羽がらす」と称される。資金・技術・建設それぞれを分担して、不可能を可能に変えてきた。
 しかし、建設当時、国鉄内部では反対論の方が根強かった。これからは高速道路による自動車輸送の時代であり大規模な広軌※4)新線の建設は国鉄の致命傷になりかねないという上述の鉄道斜陽論であった。反対派は、採算性のない道楽息子と考え、超高速で走る実績のなさや安全性に対する不安を語るのが常であった。開業後のドル箱営業も、その後の安全神話も、まだ見ぬ夢物語に過ぎなかった。
 世間からは「世界に四大バカあり。万里の長城、ピラミッド、戦艦大和に新幹線」つまり無用の長物と嘲笑されたこともしばしばであった。
 日本国有鉄道(国鉄)は、鉄道省の流れを引く職員40万人を要する巨大官僚組織である。その内部抗争・主導権争いは政治家を巻き込み政争の具としてもてあそばれ、翻弄された。それは戦前も同様であり、明治・大正期も例外ではない。「我田引鉄」と言われ、政治家たちは「橋三年鉄道一生」とそしられつつ地元に線路を引き、駅を作ることに奔走した。
 工期5年。
 戦前の東京-下関間弾丸列車計画※5)を踏襲する形で用地買収、工事引継ぎ等が行われ、驚くほど短期間に建設されている。一方、工事費は当初から膨大な費用不足を抱えていた。つまり、反対派からの事業中止という横槍を回避するため、建設予算を少なめに申告し、国会を通すというきわどいことをしていた。昭和34年度の国会予算審議では総工事費1972億円※6)で可決、承認されている。最終的に工事費は約3800億円※7)。ありていに言えば、国会つまりは国民を欺いた上での見切り発車であった。政治家から持ち込まれるローカル線建設の話は、予算を浮かすため蹴り続けることになる。我田引鉄を公約に当選してきた政治家たちからは目の敵とされることになった。

 冒頭10月1日の出発式、テープカットした国鉄総裁は十河ではなかった。新幹線慎重派の後任総裁がそこにいた。新幹線技術の生みの親と称され、奇しくも父子三代※8)にわたり広軌新線建設に情熱を注いだ島も、十河に殉じる形で国鉄を去っていた。
 後年、東京駅19番ホームの大阪寄り先端にレンガ色の碑ができた。そこには、新幹線誕生に格闘した熱血総裁・十河信二のレリーフが置かれている。「一花開天下春」(一花、天下の春を開く)という自筆の書碑とともに。