しょうちゃんズ_Cafe

全力少年しょうちゃんが日々の感動と発見の中から、その心象風景とそこに織りなす人間ドラマを紹介します⌒⌒。

『橋のある風景』にようこそ!

2013年10月17日 11時52分58秒 | Weblog
『橋のある風景』
心象風景の成り立ちと、そこに織りなす熱き人間ドラマを紹介します。

これまでにアップした『情景』を俯瞰して、順に披露します。

【第13話】<神戸編(PARTⅡ)> 「被災橋脚」、そして『伝える力』
 2011/01/17~1/23
 あるはずのものが無い。無いはずのものがある。
 ある意味、正常でいることが異常に見える、そんな理不尽な光景をどう伝える?
 伝え手の「伝える力」と受け手の「想像する力」がつながった時、伝承が叶う。

【第12話】<歴史の中の橋とまち編>「古地図で見る幕末・京都伏見」
 2010/11/15~12/12
 その時、彼女は走っていた。
 今とむかしを重ねてみると・・・140年前の息づかいが聞こえる!


【第11話】<ディザスター編>「稲むらの火」
 2010/02/28~03/02
 日本流の「ノブレス・オブリージュ」か・・・
 町づくりと防災を考えてみよう。


【第10話】<舞台装置としての橋編>人と祭りと橋と(その3)
 津島ノ宮と参道橋
 2010/02/16

第14話<特別編> 「東日本大震災」その4

2011年03月18日 23時59分59秒 | Weblog
【どぼくのある風景】第14話_特別編<東北地方太平洋沖地震>その4;今日で一週間

震度7、M9.0
第一波の震源は宮城県沖約130km、深さ24kmとされる。
地震被害は東北地方に止まらず、北関東ほか首都圏でも大きな被害が報告されている。
とりわけ、東京タワーの電波塔先端頂部が変形したことは象徴的であった。
東京都区部震度5強。
大阪市内 震度3。

津波被害が被災規模をより激烈なものにした。

福島第一原発の被災は衝撃的であった。
11.3.18現在、IAEAの安全基準※1)レベル5に相当し、
1999年茨城県東海村JCO臨界事故のレベル4を凌ぎ、アメリカ・スリーマイル島原発事故に相当する重大事故となった。

原発・東電の関係者ほか、自衛隊、消防等あらゆる組織が総力を挙げて封じ込め、鎮静化に動いている。
危機的な状況が続いているが、幸いなことに、
彼らはチームとしての「闘志」を未だ失っていない。
ここが期待が持てる唯一最大の要因だと考える。※2)

何を守るのか?原子炉か?
否。
海水を使うと意思決定した時点で、すでに考えが揺れることはないはず。
原子炉を守るのではなく、日本を国民を守るのだ、ということがメンバーに共通した使命となっていることと想像できる。


 文字通り死力を尽くしての作業が続くことになるであろう。困難に立ち向かうメンバー各位に敬意を表します。また、送り出している側の家族の皆さんの勇気と克己心にも、メンバー各位に対するものと同様、感服し同時に深く感謝します。
未だ予断を許さない状況が続きますが、何とか無事に沈静化へ向かうことを念じます。



参考文献;
※1) IAEA国際原子力事象評価尺度(International_Nuclear_Event_Scale)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E4%BA%8B%E8%B1%A1%E8%A9%95%E4%BE%A1%E5%B0%BA%E5%BA%A6


参考図 IAEA国際原子力事象評価尺度
(2011.3.18 レベル5相当と公表された)

※2) 例えば、
 ・米紙NYタイムズ電子版より;「Fukusima50」(2011.3.15付け)
  「顔の見えない無名の作業員が50人残っている」とする記事を東京発で載せた。
 ・米ABCテレビも
  「福島の英雄50人-自発的に多大な危険を冒して残った原発作業員-」と報道。
 ・オバマ米大統領は17日の声明で
  「日本の作業員らの英雄的な努力」とたたえた。
 http://micro.asahi.com/w/news/TKY201103180477.php

第14話_特別編<東北地方太平洋沖地震>その3

2011年03月15日 23時59分59秒 | Weblog
【どぼくのある風景】第14話_特別編<東北地方太平洋沖地震>その3

海外でも反響が大きい。


英国大衆紙インデペンデントオンサンディより※1)


「HERO_Fukushima50」欧米メデイアが原発作業員らの決死の居残りを称賛

半分空になった店やスーパーの前で、商品購入のため列をなし人が並ぶ姿に
世界は驚愕と称賛を惜しまなかった
略奪や暴動のない,整然とした冷静な市民の有り様に・・・
AFPほか各国通信社が、こぞって写真・記事を配信した.

世界から日本の人々へ1000のメッセージ;
すべて、日本語訳を添えて発信された.2011.3.14
http://jequake1000msgs.net

「Operation Tomodachi」トモダチ作戦;
米軍の太平洋軍司令部により正式に命名されたもの.



米軍の支援活動に感銘した雨宮隆太氏(「航空ファン」編集部)が作成し
無償提供したワッペンは、一体感をより刺激した.2011.3.29記事より追記


in Japan:
大震災と巨大津波と原発事故と風評被害、強烈な四重苦といえる中で、
「絆」
助け合い,乗り越える.私たちの財産はKizuna;kizuna311.com

合唱と吹奏楽のための「明日という日が」※2)
作詞:山本櫻子
作曲:八木澤教司



参考文献;
※1) きっかけは、芸人・サンドウィッチマン伊達みきお氏のブログ
  2011.3.12 11:15am みんな頑張れ!

※2)Let's Have Hope for a Tomorrow
  YouTubeに各種掲載
  歌詞中:
  道の草→みちのくさ→陸奥さ
      ・・・そう聞こえて、さらに心にしみる
  夏川りみさんもカバー

第14話_特別編<東北地方太平洋沖地震>その2

2011年03月13日 23時59分59秒 | Weblog
【どぼくのある風景】第14話_特別編<東北地方太平洋沖地震>その2

 東日本大震災の震源域は東西約200km、南北約500km範囲と想定され、主たる地震は連続的に3回発生した。


図-1 東日本大震災の震央分布図※1)
(3月15日6時30分までの震央分布(差替済))


図-2 津波エネルギー伝播予測図※2)


図-3 津波の到達時間予測図※3)

地震直後から大津波警報が発令された。波高10m以上とされた地区は東北地方太平洋沿岸など広範囲に及んだ。


写真-1 大津波の爪あと※4)


 岩手県宮古市田老地区※5)は、これまで幾度も津波に痛めつけられてきており、そのため日本一をうたい、「万里の長城」と揶揄してきた二重の防波堤を持つ地区である。
昨年、1960年チリ地震50周年関連イベントで津波の避難訓練をするなど備えある地区であるが、その田老地区が壊滅した。
 山に避難した若者がその後、崩壊した家に戻り、唯一写真アルバムを持ち出すことが出来たという。潮によれて波打つページをめくり、泥を払いながら写真の一部をテレビ記者に紹介した。
「これが取り出せただけでも収穫ですよ。」と言った。
ほかは何も持っていない、着の身着のままであった。

 陸前高田市に住む主婦はテレビの取材にこう答えた。
 「海が憎い。もう海なんかいらない。」
 漁業従事者であり、また漁師の夫を支えてきた家族の一員である女性がこう語った。つまり“海の恵み”を糧として暮らしてきたその彼女の言葉である。
それゆえに、重い言葉であり、心にずっしりと響くことばであった。


参考文献等;
※1) 「東北地方太平洋沖地震」 Wikipe
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/92/Map_of_Sendai_Earthquake_2011.jpg
※2) 津波のエネルギー伝播予測.アメリカ海洋大気圏局 NOAAによる試算(2011.3.11)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:2011Sendai-NOAA-Energylhvpd9-05.jpg
※3) 津波の到達時間予測.アメリカ海洋大気圏局 NOAAによる試算(2011.3.11)

※4) 時事通信社2011.3.13(日)16:42配信

※5) 旧)岩手県下閉伊郡田老町、新)岩手県宮古市田老
  堤防写真:たとえば
  http://www.iwatetabi.jp/spot/detail/03202/420.html

 津波の歴史と戦ってきた田老町は津波から町を守るため、昭和9年防潮堤建設に着手しました。戦争など様々な困難を乗り越えながら昭和54年、高さ10m、延長2,433mの大防潮堤「田老万里の長城」が完成しました。民家の屋根より高いこの防潮堤は田老の歴史でもあり、町民にとって毎日安心して過ごすことのできる大切な施設となっています。

【どぼくのある風景】第14話_特別編<東北地方太平洋沖地震>その1

2011年03月11日 23時59分59秒 | Weblog
【どぼくのある風景】第14話_特別編<東北地方太平洋沖地震>その1

 2011年(平成23年)3月11日(金)14:46東北地方太平洋沖地震(以下、東日本大震災と呼称)が発生しました。地震の規模、津波の猛威、原発のシステム破綻という広域・複合・巨大災害が発生したのです。これまで考えられていた想定規模・範囲、程度・複合の事象からはまさに想像をはるかに超える被災規模になっています。被災状況が明らかになるにつれ被災者数や死亡者数も増え、さらに拡大することが心配されるところです。

 被災されました皆様にはお見舞いを申し上げますとともに、お亡くなりになった方々には心から哀悼の意を表します。また、ご家族親戚、知人等との連絡が未だ取れていない皆さんにはご心痛いかばかりかとお察し申し上げます。


 ここ数年、「複合災害」ということが指摘され、集中豪雨継続時に地震が来る、ないし地震被災後に台風が襲来するなどというパターンについて研究が進みつつあった。一方、地震研究でも「固着域(アスペリティ)」が悪さをするということが知られていて、その研究も進んできていた。
 他方、三陸海岸沿岸各地では1960チリ地震の被災50周年を昨年迎え、各種のイベントや避難訓練が行われた。大学と自治体・住民が協力してハザードマップが作成されたり、避難時の留意点や避難路における危険情報を実地検証したり課題を取上げたりしていたとのことである。
 2004スマトラ島沖地震による津波や2010チリ地震による影響の把握、危機回避等減災・情報共有のための研究も進んできており、巨大災害に対する国際的な共同研究や津波情報の共有化システム等が実用化され、整備されてきている状況下にあった。 

 それらを大きく凌駕する形で今回の地震災害は発生したのである。


第13話<神戸編(PARTⅡ)> 「伝える力」;地震を考える

2011年01月23日 23時58分04秒 | Weblog
【橋のある風景】第13話<神戸編(PARTⅡ)> 震災と「伝える力」

 地震を考える。
 「伝える力」・・・を考える。

 あるはずのものが無い。無いはずのものがある。
 ある意味、正常でいることが異常に見える、そんな理不尽な光景をどう伝える?
 伝え手の「伝える力」と受け手の「想像する力」がつながった時、伝承が叶う。
 そう思う。

 無いものを展示することで、まさに見えるものがある。

 見せて、聞かせて、触れさせて、そして語り合う。
 そのためにこそ、
 切り取った実物があり、画像や書物等による記録がある。
 体験を語る人がいて、各種施設等で擬似体験を得て、その空気感や臭いを嗅ぎ取る。

 五感で感じて、想像力を発揮して、理解しイメージを自分のものにする。
 さらに、第三者に伝え、拡がれば・・・


写真-1 震災直後の再現模型(実物大ジオラマ)※1)


写真-2 野島断層をありのまま保存したもの※2)


写真-3 野島断層※2)

 結局のところ、
 伝え手から聞き手へ、さらに次の聞き手へ・・・と考えたとき
 知りたいと思わせること、知る意欲を高めることこそが、
 最高の「伝える力」なのかもしれない。

 単なる、歴史上の出来事にしてしまわないよう、継承する営みを実践したい。
 くり返し、くり返し。
 技能や技術、伝統や文化・・・、なるほど、万事同じということか。


※参考資料;
1)人と防災未来センター西館4F 震災追体験フロアの展示物

2)北淡震災記念公園・野島断層保存館 実際の断層保存ゾーン
  地震発生の際に断層南東側が南西方向に約1m~2m横ずれした横ずれ断層であり、
  同時に南東側が約50cm~1.2m隆起した逆断層となっている。


・紹介図書;
 1)板垣貴志・川内淳史編「阪神淡路大震災像の形成と受容」 岩田書院 2011.1月刊


第13話<神戸編(PARTⅡ)> おまけ(発生地震の基礎知識・その3)

2011年01月23日 23時55分42秒 | Weblog
第13話<神戸編(PARTⅡ)> おまけ(発生地震の基礎知識・その3)

 地震の空白地域、東海・東南海・南海地震を考える。
(※1)「東海道、南海道の地震」http://bo-sai.co.jp/tounankai1.htm より引用。)


写真-1※1) 推古天皇のころ、日本で初めて地震被害の記述が現れた「日本書紀」(江戸時代の活字本)東京国立博物館蔵


東海道、南海道で発生した地震※1)
(記録で見る古代地震~2009年東名高速通行止めを引起した駿河湾沖地震まで)

①地震発生年月日・②地震の規模・③震源・④地震の名称(被害概要)

1)
①416年8月23日(允恭5年7月14日)
②不明
③遠飛鳥宮付近
④大和河内地震(日本書紀に地震とのみ記載、被害の記録はないが、わが国の歴史に現れた最初の地震)

2)
①684年11月29日(天武13年10月14日)
②M8.0
③南海・東海道
④白鳳の南海・東海地震(山崩れ、家屋、社寺の倒壊多数。津波の襲来後、土佐で船が多数沈没、田畑約12平方キロメートルが沈下し海となったと記録されている)

3)
①887年8月26日(仁和3年7月30日)
②M8~8.5
③五畿七道
④仁和の南海・東海地震(京都で民家、官舎の倒壊による圧死者多数。特に摂津での被害が大きかった)

4)
①1096年12月17日(永長1年1月24日)
②M8~8.5
③畿内・東海道
④永長の東海地震(皇居の大極殿に被害があり、東大寺の巨鐘が落下、近江の勢田橋が落ちた。津波により駿河で民家、社寺400余が流失)

5)
①1099年2月22日(康和1年1月24日)
②M8~8.3
③南海道・畿内
④康和の南海地震(興福寺、摂津天王寺で被害があった。土佐で田畑1,000町余が海に沈んだ。津波によるものらしい)

6)
①1185年8月13日(文治1年7月9日)
②M7.4
③近江・山城大和
④文治の京都地震(京都の白河辺の被害が最も大きく、宇治橋が落ちた。社寺、家屋の倒壊で死者多数)9月まで余震続く)

7)
①1361年8月3日(正平16年6月24日)
②M8~8.5
③畿内・土佐阿波
④正平の南海地震(摂津四天王寺の金堂が転倒し圧死者が出た。津波で摂津、阿波、土佐に被害があった。阿波の雪(由岐)湊で家屋1,700戸余が流失、60人余が流死)

8)
①1498年9月20日(明応7年8月25日)
②M8.2~8.4
③東海道全域
④明応の東海地震(紀伊から房総にかけてと甲斐に大きな揺れがあった。津波の被害が大きく、伊勢大湊で家屋1000戸、溺死者5000人。伊勢志摩で溺死者10000人、静岡県志太郡で溺死者26000人などの被害)

9)
①1586年1月18日(天正13年11月29日)
②M7.8
③畿内・東海北陸
④天正の飛騨美濃近江地震(飛騨白川谷で大山が崩れ、民家300以上が埋没。死者多数。余震は翌年まで続いた)

10)
①1596年9月5日(慶長1年閏7月13日)
②M7.1
③畿内
④慶長の京都地震(三条から伏見で最も被害が大きく、伏見城天守閣大破、石垣が崩れ約500人が圧死。堺で600人以上が亡くなり、奈良、大阪、神戸でも被害があった。余震が翌年4月まで続く)

11)
①1605年2月3日(慶長9年12月16日)
②M7.9
③東海南海西海
④慶長の東海・南海地震(犬吠崎から九州までの太平洋沿岸に津波が来襲し、八丈島で死者57人、紀伊西岸広村で700戸流失、阿波宍喰で死者1500人、土佐甲ノ浦で死者350人、、室戸岬付近で400人以上が死んだ)

12)
①1662年6月16日(寛文2年5月1日)
②M7.6
③山城駿河信濃
④寛文の琵琶湖西岸地震(比良岳付近で被害が大きく、滋賀唐崎で田畑が湖中に没し、倒壊家屋1570、大溝では倒壊で1020戸以上、死者37人、彦根で倒壊家屋1000戸、死者30人以上、榎村で死者300人、戸川村で260人以上死亡、京都で倒壊家屋1000戸、死者200人以上の被害があった)

13)
①1707年10月28日(宝永4年10月4日)
②M8.4
③5畿7道
④宝永地震(死者2万人余、倒壊家屋6万戸余、土佐を中心に大津波が襲った。わが国最大級の地震)

14)
①1854年12月23日(安政元年11月4日)
②M8.4
③中部、紀伊
④安政の東海地震(死者2000人~3000人余、倒壊及び焼失家屋3万戸余、津波多数発生)

15)
①1854年12月24日(安政元年11月5日)
②M8.4
③近畿中南部
④安政の南海地震(32時間前の安政東海地震と区別が明確でないが、死者は1000人余、串本では11mの津波)

16)
①1899年(明治32年)3月7日
②M7.0
③三重県南部
④紀和地震(奈良、三重県南部、和歌山県南東部で被害)

17)
①1935年(昭和10年)7月11日
②M6.4
③静岡県中部
④静岡地震(死者9人、倒壊家屋363戸、道路、鉄道に被害)

18)
①1944年(昭和19年)12月7日
②M7.9
③東海道沖
④昭和の東南海地震(静岡、愛知、三重で甚大被害、死者行方不明1,223人、倒壊家屋17,599戸、流失家屋3,129戸、津波発生、地盤沈下あり)

19)
①1945年(昭和20年)1月13日
②M6.8
③愛知県南部
④三河地震(死者2,306人、倒壊家屋7,221戸、深溝断層出現、津波発生、地震の規模の割りに被害甚大)

20)
①1946年(昭和21年)12月21日
②M8.0
③南海道沖
④昭和の南海地震(中部以西で被害甚大、死者1,330人、倒壊家屋11,591戸、焼失家屋2,598戸、津波発生、地盤沈下あり)

21)
①1965年(昭和40年)4月20日
②M6.1
③静岡県中部
④静岡地震(清水平野地域で被害甚大、死者2人、倒壊家屋9戸、清水港で27cm沈下)

22)
①2009年(平成21年)8月11日
②M6.5
③駿河湾沖
④静岡駿河湾地震(震度6弱:静岡県伊豆市、焼津市、牧之原市、御前崎市)死者1名、負傷者245名、東名高速道路牧之原インター付近で路肩崩落。


出典;防災システム研究所HP http://bo-sai.co.jp/index.html より
※1)「東海道、南海道の地震」 http://bo-sai.co.jp/tounankai1.htm

第13話<神戸編(PARTⅡ)> おまけ(発生地震の基礎知識・その2)

2011年01月21日 18時51分51秒 | Weblog
第13話<神戸編(PARTⅡ)> おまけ;発生地震の基礎知識(その2)

 「発生地震の基礎知識(その1)」に示した各地震の分布マップを掲載します。

地震調査研究推進本部※1)が、地震に関するかなりの情報を発信している。※2)3)
(例えば、全国地震動予測地図※3)のリーフレットなど)
「日本の地震活動」※2)から、抜粋。1885-1995年代を中心に。


 図2-1 世界のM4以上の地震(1993 深さ100km以浅)



 図2-3 日本列島とその周辺のM6以上の地震(1885-1995 深さ100km以浅)



 図2-4 日本列島とその周辺のM6以上の地震の発生回数の積算グラフ(1885-1995 深さ100km以浅)



 図2-6 日本列島とその周辺のM7以上の地震(1885-1995 深さ100km以浅)

図2-3,2-6 を見て判るのが、南海・東南海・東海、の地震想定域における時間軸でみた空白状態だ。
駿河湾~四国沖の南海トラフに沿った地震は、過去をさかのぼってみると繰り返しM8程度の
巨大地震が発生してきたことが知られている。
例えば、1854年 安政東海M8.4 安政南海M8.4 は、1日違いで起きている。
(本シリーズ:第11話「稲むらの火」 参照
 稲むらの火の館(「濱口梧陵記念館」「津波防災教育センター」併設)が詳報している)
 http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/

 その発生のメカニズムの解明が進められているが、そこには「固着域(アスペリティ)」と呼ばれる
箇所が強く関係していることが判ってきた。※4)5)


 活断層が動いた、都市直下型といわれる阪神淡路大震災における地震動の発生・伝播は以下で確認できる。

 図2-13B 1995の兵庫県南部自身における断層運動(破壊)の進行方向と余震分布

 明石海峡付近(○印)で破壊が開始して、北東方向(神戸市方向)と南西方向(淡路島方向)に断層運動が
進行した。※2)



※参考文献:
1)地震調査研究推進本部:
   本部長・文部科学大臣、事務局:文部科学省研究開発局地震・防災研究課
   http://www.jishin.go.jp/main/index.html
2)「日本の地震活動」 地震調査研究推進本部編 平成11年(1999)4月1日発行
   http://www.hp1039.jishin.go.jp/eqchr/eqchrfrm.htm
 なお、第二版が平成21年(2009)3月に発行されている
  http://www.jishin.go.jp/main/p_koho05.htm
3)「全国地震動予測地図 平成22年(2010) -わが国の地震の将来予測-」
   文部科学省研究開発局地震・防災研究課(地震調査研究推進本部事務局)発行
4)「固着域(アスペリティ)と東海地震」:
  山岡耕春著(名古屋大・地震火山観測研究センター教授)
  http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/yamaoka/nnsl/nnsl-notes/yamaoka-20010521.pdf
5)NHKスペシャル 【MEGAQUAKE 巨大地震】
  (第1回;2010.1.10放送 全4回)
  http://www.nhk.or.jp/megaquake/p_schedule.html


第13話<神戸編(PARTⅡ)> おまけ(発生地震の基礎知識・その1)

2011年01月19日 16時53分40秒 | Weblog
第13話<神戸編(PARTⅡ)> おまけ;発生地震の基礎知識(その1)

●1850年以後に発生した日本の主な大地震・被害地震

・1850-1899;
1853小田原M6.7
1854伊賀上野M7.4 安政東海M8.4 安政南海M8.4
1855飛騨M6.8 宮城沖M7.3 安政江戸M6.9
1856十勝沖M7.7
1857芸予M7.3
1858飛越M6.7 青森東方沖M7.3
1861宮城沖M7.3
1872浜田M7.1
1877(イキケM8.3)
1881国後沖M7.0
1889熊本M6.3
1891濃尾M8.0
1892能登M6.4
1893色丹沖M7.0
1894根室沖M7.9 明治東京M7.0 庄内M7.0
1895茨城南部M7.2
1896明治三陸M8.5 陸羽M7.2
1897宮城沖M7.4 三陸沖M7.7
1898宮城沖M7.2
1899紀和M7.0 日向灘M7.1

・1900-1949;
1900宮城北部M7.0
1901奄美沖M7.3 青森東方沖M7.4
1902青森東部M7.0
1905芸予M7.2
1906熊野灘M7.5
1909房総沖M7.5 江濃M6.8 沖縄M6.2 宮崎西部M7.6
1911喜界島M8.0
1913日高沖M7.0
1914桜島M7.1 秋田仙北M7.1
1915十勝沖M7.0 宮城沖M7.5
1916明石海峡M6.1
1917静岡M6.3
1918(ウルップ沖M8.0)
1921茨城南部M7.0
1922浦賀水道M6.8 島原M6.9
1923茨城沖M7.3 種子島近海M7.1 関東(関東大震災)M7.9
1924丹沢M7.3
1925北但馬M6.7
1927北丹後M7.3
1930大聖寺M6.3 北伊豆M7.3
1931西埼玉M6.9 日向灘地震

・1950-1999;
1952十勝沖M8.2 大聖寺沖M6.5 吉野M6.7
1953房総沖M7.4
1955徳島南部M6.4
1956白石M6.0
1958石垣近海M7.2 択捉沖M8.0
1960(チリM9.5)
1961長岡M5.2 日向灘M7.0 釧路沖M7.2 北美濃M7.0
1962十勝沖M7.1 宮城北部M6.5
1964新潟M7.5
1965静岡M6.1
1966与那国近海M7.6
1968えびのM6.1 日向灘M7.5 十勝沖M7.9
1969北海道東方沖M7.8 岐阜中部M6.6
1972石垣南方沖M7.4 八丈島東方沖M7.2
1973根室沖M7.4
1974伊豆沖M6.9
1978伊豆大島近海M7.0 択捉沖M7.5 宮城沖M7.4
1980千葉中部M6.0
1982浦河沖M7.1
1983日本海中部M7.7 山梨東部M6.0
1984鳥島近海M7.9
1987日向灘M6.6 長野西部M6.8
1987千葉東方沖M6.7
1989岩手沖M7.0
1993釧路沖M7.5 北海道南西沖M7.8
1994北海道東方沖M8.2 三陸はるか沖M7.6
1995兵庫南部(阪神・淡路大震災)M7.3 択捉沖M7.7
1998石垣南方沖M7.7

・2000~
2000根室沖M7.0  三宅島M6.5  鳥取西部M7.3
2001芸予M6.7  与那国近海M7.3
2003三陸南M7.1  宮城北部M6.4  十勝沖M8.0
2004紀伊南東沖M7.4  中越M6.8  釧路沖M7.1
2005福岡西方沖M7.0 宮城南部M7.2 三陸沖M7.1
2007能登半島M6.9 中越沖M6.8 茨城沖M7.0 岩手・宮城内陸M7.2 岩手北部M6.8 十勝沖M7.1
2009駿河湾M6.5
2010沖縄近海M7.0


※参照文献;
1)「兵庫県南部地震」 wikipediaより
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%9C%B0%E9%9C%87

【橋のある風景】第13話<神戸編(PARTⅡ)> 被災橋脚

2011年01月17日 20時52分52秒 | Weblog
【橋のある風景】第13話<神戸編(PARTⅡ)> 被災橋脚

 また、今年も1月17日がめぐってきた。
 忘れてはならない日の一つ「1.17メモリアル・デー」である。
 平成7年(1995)1月17日(火)午前5時46分52秒JST。
 それは起きた。
 「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」である。※1)

 平成世代が成人式を迎え、社会人として巣立っていく社会の世代交代のさなか、
忘れてはならない日が、また、めぐってきた。
 今回で、16回目である。
 忘れまい、忘れさせまいとしても、形あるものは風化し、記憶は深く沈殿してゆく。

 神戸の冬の風物詩「ルミナリエ」は、もともとこの鎮魂の意味で始まったが、
今では観光化して年月の経ったことを実感させる。もとより「ルミナリエ」に責任はない。

 教訓を次代に残すため神戸市中央区に「人と防災未来センター」※a)がある。
震災のつめ跡を残すため、津名郡北淡町(現在の淡路市北部)には兵庫県南部地震の震源と
なった野島断層を保存する「北淡震災記念公園」※b)がある。
また、
神戸市中央区のメリケンパークには崩壊したメリケン波止場を保存する「神戸港震災
メモリアルパーク」※c)が整備された。

 写真-1 神戸港震災メモリアルパーク※3)
 (奥に見える浜手バイパスの橋梁群も被災した)


 写真-2 浜手バイパスの被災橋脚モニュメント※4)
 (直径3.1mコンクリート製円柱橋脚の一部、所在地;神戸市中央区新港町17 )


 写真-3 被災橋脚ほかモニュメントの全景※5)


 写真-4 被災伸縮継手※5)


 写真-5 被災支承※5)

  被害の姿を後世に残すことを望む声や、防災意識の高揚に資するため、
 ここに被災した2号浜手バイパスの「RC橋脚、伸縮装置、支承」を保存すること
 にしました。(※5) 国交省・兵庫国道事務所HPにあるコメントから抜粋)


 伝える場所、語り継ぐ空間が、そこここにある。
 何を伝えるか?どう感じてもらえるか?
 「伝える力」が今、試される。


 以下、年に一度は再確認したい。※2)
・死  者:6,434名
・負傷者 :重軽傷合せ 43,792名
・全壊家屋:104,906棟
・被災家屋:半壊・一部破壊含め計 639,686棟
・公共建物等非住家被害:40,917棟

・被災道路:7,245ヶ所
・被災橋梁:330ヶ所
・被災河川:774ヶ所
・がけ崩れ:347ヶ所

・断  水:約130万戸(ピーク時)
・停  電:約260万戸(  〃  )
・ガス供給停止:約86万戸( 〃 )
・電話不通:30万回線超( 〃 )


※参考資料・文献;
 1)気象庁命名による正式名称
  英語名;The South Hyogo Prefecture Earthquake in 1995
  なお、災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称する事が同年2月14日の閣議によって口頭了解されている。

 2)阪神・淡路大震災教訓情報資料集
  http://www.bousai.go.jp/1info/kyoukun/hanshin_awaji/earthquake/index.html

 3)神戸港震災メモリアルパーク 写真集
  http://kobe-mari.maxs.jp/kobeport/earthquake_memorial.htm

 4)2011.1.15付け 神戸新聞掲載記事「伝える場所(4)」より

 5) 国交省兵庫国道事務所HPより
  「阪神・淡路大震災モニュメント」
  http://www.kkr.mlit.go.jp/hyogo/bousai/jishin/monyu/index.html


※参考HP;
 a)人と未来防災センター
  http://www.dri.ne.jp/
 b)北淡震災記念公園
  http://www.nojima-danso.co.jp/
 c)神戸港震災メモリアルパーク
  http://www.city.kobe.lg.jp/culture/leisure/history/daishinsai/shousai/023.html

異説!異聞!そのとき龍馬はどこに身を潜めたか?~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-7)

2010年12月12日 18時24分54秒 | Weblog
異説!異聞!そのとき龍馬はどこに身を潜めたか?~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-7)

龍馬は、そのとき「材木小屋」に身を潜めたという。
その「材木小屋」に2枚目の写真があった。


写真-1 2枚目の「材木倉庫」※1)

上記写真-1が前掲のもの(写真-2参照)と同じだとすると、左後方に見える橋は何橋か?
あの角度で橋が見えるとすると・・・
その位置はいずこが正解なのか?



写真-2 前掲の写真※2)

「三吉慎蔵日記」によると案内の碑の場所から左岸(東側)へ渡ったその南方だと言う。

写真-3案内の碑

磯田道史氏は著書・NHKテキスト※2)で上述の「左岸」を支持している。


写真-4 伏見古地図※2)
②伏見奉行所、③薩摩藩邸、④材木倉庫←※、⑤寺田屋、⑥京橋
(オリジナルは京都大学付属図書館蔵)

ちなみに、その場所の現在は下記の写真である・・・


写真-5 「材木倉庫」跡地?(筆者2010.10.16撮影)
(手前の大手橋は当時まだ架かっていない)

西方寺(写真-6参照)に一時隠れたという説もあり、奉行所に橋を固められて、逃げ場に窮したとしたら
確かに濠川の東側であることは、合理性がある。


写真-6 伏見界隈の案内看板より(筆者2010.10.16撮影)
(中央上方に西方寺がある)

しかし、
三吉慎蔵が日記に「左岸」と記述しているというが現在の表現と同じか?この頃、濠川は両方向に舟が
行き来していたはずで、どちらを左岸、右岸(一般に川の流れる方向に対し左側を左岸)と呼んでも、
おかしくは無い・・・とも言える。

「材木倉庫」の左後方に見える橋は何橋か???
賢明なる読者諸氏は如何に想像しますか?

で、よくある話しだが・・・
上述の写真-1、-2が裏焼きであったとすると・・・
また、違った位置が見えてくる。


図-1 「材木倉庫」位置の推定図

 確かなようで不確かなそんな物語ではあるが、伏見の今とむかしを、橋とまちを中心にして
見たとき、幕末と今を往復することが少し出来たような気がする。
もう少し言うと、
140年のタイムスリップが出来るそんなまちであった。
やはり、伏見は幕末が似合う!

ちなみに、
京都人は、「さきの大戦で何も残っておへん」と言いますが、
そういう時の大戦とは、「太平洋戦争」ではなく、「応仁の乱」を指すそうな。(笑)
歴史が違いますな。⌒⌒;




おまけの図:


図-2 豊後橋※3)




図-3 京橋※3)


※参考文献;
1)木村幸比古著「龍馬語録」pp.125 PHP研究所 2009.5刊
2)磯田道史著 「古地図で巡る龍馬の旅」NHKテキスト2010.4-5月 NHK出版 2010.4刊

3)暁晴翁著・松川半山画 淀川両岸一覧 宇治川両岸一覧 柳原書店 1978.4刊
(淀川両岸一覧は文久元年(1861)、宇治川両岸一覧は文久三年(1863)刊の影印・活字翻刻)




伏見の今・むかし~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-6)

2010年11月28日 03時02分48秒 | Weblog
伏見の今・むかし~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-6)

まちは、大河ドラマ「龍馬伝」ブームに沸き、寺田屋は観光客が引きもきらない。
(2010.11.25付け掲載記事、幕末伏見編;付録-4 の写真-4,-5 参照)

伏見観光協会他が昨年末までに設置した各種幕末の史跡碑が案内目印になっており、
今の伏見と幕末の伏見を重ね合わせる不思議な空間が、そこには存在する。




写真-1 伏見の今に幕末碑等を重ねた図※1)


※参考文献;
1) 新創社編;京都時代MAP 幕末・維新編 光村推古書院 2003.12
  に加筆

宇治川支流の舟運 ~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-5)

2010年11月26日 02時00分00秒 | Weblog
幕末当時、大坂からの舟便が発達しており、舟客へのパンフレットも準備されていた。
(「大川便覧」;大川(旧淀川)から京都伏見までを描いたジャバラ折本。
 距離、川幅、橋梁他見印などを記した大川・三十石舟の「乗陸必携」。
 今で言うビジュアルガイド)
 例えば http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme549.html あるいは
      http://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/museum/bunko/tanbo05.html 参照



写真-01 「大川便覧」(長さ460cm、幅18.6cm)月桂冠大倉記念館にて



写真-02 「大川便覧」(伏見周辺の図)同上にて



 伏見周辺へは、宇治川から分派した支流へと舟は進み、京阪中書島駅(当時は支流に囲まれ文字通り中書「島」であった)付近や寺田屋付近で荷揚げ、上陸した。


写真-1 十石舟の遊覧に当時を偲ぶ


写真-2 十石舟と現在の支流


写真-3 当時の三十石舟の航行図(流れはほぼ無く、引き舟として航行した)


写真-4 十石舟からの目線(その1)


写真-5 十石舟からの目線(その2)

寺田屋 ~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-4)

2010年11月25日 02時51分42秒 | Weblog
寺田屋~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-4)

寺田屋とその周辺


写真-1 寺田屋周辺の幕末当時の復元模型より※1)
   (中央上に船宿・寺田屋、左手に京橋、右手に蓬莱橋が架かる)


写真-2 現地付近の案内看板より(2010.10.16撮影)


写真-3 「伏見京橋」淀川両岸一覧より※2)


写真-4 現在の寺田屋(その1)※3)


写真-5 現在の寺田屋(その2)※3)


※参考文献;
1) 三栖閘門資料館(国土交通省近畿地方整備局 淀川河川事務所の所管)
  展示物の撮影写真より
   http://www.misu-museum.jp/index.html 参照
2) 淀川両岸一覧(大阪市立中央図書館蔵 貴重図書)
   上船之巻下 暁鐘成/著 河内屋喜兵衛刊 文久元(1861)
   例えば、
   ・淀川資料館(国交省淀川河川事務所)第6回企画展
   「淀川両岸物語 今・昔・明日」
    http://www.yodo-museum.go.jp/kikaku/kikaku06/kika6_aindex.html
   ・大阪府立大学上方文化研究センター 蔵書資料HP
    http://www.human.osakafu-u.ac.jp/kamigata/books/chishi/chishi_01.html
3) 寺田屋の位置について
   幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失した。
   当時の家屋は、現在地よりやや東側にあったとされる。
   現在のものは明治期に再建されたもの。
  例えば、
   中村武生著「京都の江戸時代をあるく」文理閣 2008.10 pp.161-212 参照



材木小屋跡と濠川と薩摩藩邸跡 ~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-3)

2010年11月24日 20時00分00秒 | Weblog
材木小屋跡と濠川と薩摩藩邸 ~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-3)

寺田屋騒動の折、
龍馬が一時潜伏したという「材木小屋」からは、薩摩藩が出した舟で救出され藩邸に
戻ったという。


写真-1 大手橋の左脇に「材木小屋」跡の碑が(2010.10.16撮影、以下同様)

 当時大手橋は存在せず、大手筋は濠川の東で行き止まりであった。材木小屋への潜伏、舟での脱出には、結果的に好都合だったかも。


写真-2 昨年設置された跡の碑


写真-3 碑文の拡大写真


写真-4 現在の濠川と右手は月桂冠酒造昭和蔵(元紀州藩伏見屋敷の跡地)


図-1 当時の伏見界隈の古地図※1)


※参考文献:
1) 新創社編 「京都時代map 幕末・維新編」 光村推古書院 2003.12
  に加筆。