しょうちゃんズ_Cafe

全力少年しょうちゃんが日々の感動と発見の中から、その心象風景とそこに織りなす人間ドラマを紹介します⌒⌒。

【橋のある風景】番外編<命のメッセージ>①-(3) 凝縮された思い・瞳さん語録(続編)

2009年02月25日 11時13分30秒 | Weblog
3/3

『笑顔しか思い出せないんです』
⇒(大牟田市自宅の一室の壁には瞳さんの写真がびっしりと飾られています)
 母の直美さんが語るように、教室にいるときも、車椅子に乗っているときも
 瞳さんの顔ははちきれんばかりの笑顔であふれています。



『命を何だと思っているの!』
⇒闘病する仲間が次々と亡くなっていく。15人もの身近な人々の死を受け止め
 なくてはならなかった。そのたびに深く傷つき「みんなこんなに頑張ってい
 るのに、何で・・・」と号泣した。
  人が人を殺す事件、いじめや自殺のニュースを見ては心の底から怒り、怒
 鳴った。これが(母曰く)瞳の顔かと思うほど怖い顔つきになって、強い口
 調でそう言った。

  たくさんの笑顔の影で冷静に死を見つめ、生きることに希望を見出し、
 最期まであきらめず、ひたむきに生き続けた瞳さんの別の顔がありました。
  限られた命を見つめ、最期の一日一瞬まであきらめずに生き抜いた瞳さん
 の生き方には、強い感銘を受けました。
  また、最期まで言い続けた「命さえあれば前に進んでいける」は、彼女の
 生き方とともに記憶に深く刻まれ、命のメッセージとして生を得たように思
 います。

 平成16年(2004)9月16日 午後9時52分 心停止。享年14歳。
 あらためて、故猿渡瞳さんのご冥福をお祈りします。合掌。


 参考文献:
 ・猿渡瞳 「瞳スーパーデラックス」 西日本新聞社 2005.4.20刊 
 ・猿渡瞳・猿渡直美 「ママ、笑っていてね」 アスキー 2007.12.4刊
 ・西日本新聞 平成17年(2005)2月2日付け社説


【橋のある風景】番外編<命のメッセージ>①-(2) 凝縮された思い・瞳さん語録

2009年02月24日 19時08分32秒 | Weblog
(2/3)
 彼女の強靭でたくましい行動力と、純粋で一途な信念・思いには、敬意を
表します。
また、彼女の生き方には、魂を揺すぶられる思いです。
人はここまで強くなれるのだということを中二の彼女に教えられました。
自分を見失わないこと、常に前を向いて生きること。頭が下がります。
生前の彼女の貴重な語録を掲載します。

①「ママがガンじゃなくて、私がガンで本当によかった。」
⇒小学6年の冬。右大たい骨骨肉腫、肺にも転移が発見される。
 このままでは、半年しか生きられない。厳しい宣告を受けた彼女は、現実を
 受け止めガンと闘う決意を語った。そしてあらためて、「私で良かった」と
 お母さんを思いやった。

②「生きる姿をみんなに見てもらいたい」
⇒地元の中学に通うことを決めた彼女は、「ガンに侵された右足を転んで骨折
 でもしたら命にかかわる」と通学を心配した家族にこう宣言した。
 繰り返す入退院で勉強は遅れていくが、出された宿題は徹夜してでもやって
 いくファイトがあった。

③「白血球の数、いくつにしたら卒業式行けるんですか?」
⇒抗がん剤治療のため白血球の数値は下がる。免疫力が落ちて病気にかかりや
 すくなった彼女に医師は「卒業式は無理」と告げた。
 しかし、前日白血球を上げる注射を打ったところ、奇跡的に通常の何倍も数
 値が上がり、彼女は胸を張って市立銀水小学校の卒業式に出席した。
 【冒頭の写真は、銀水小学校の卒業式を終えて(2003.3.18写)】

④「先生、闘うのは私です」
⇒副作用の強い抗がん剤治療を受け一時劇的に回復したが、同じ箇所に再発し
 た肺ガンの手術の前日。一ヶ月前の検査で約1cmのガンを確認していた医師
 は再検査を拒否するが、「検査しないと納得できない」と食い下がる。
 検査の結果、2cmに大きくなっていることがわかる。しかし、体に負担の少
 ない内視鏡手術が可能になる。(中1の3月。)

⑤「大切な仲間がいっぱい亡くなるけど私は頑張る」
⇒彼女が入院中に仲良くなった老若男女15人の患者が次々と亡くなっていく。
 その悔しさと悲しみで毎晩のように涙を流しては、彼らの分まで生きようと
 心に誓った。

⑥「私は世界一しあわせ」「毎日、超しあわせ」
⇒多いときは一日に20~30人の見舞い客が訪れた。闘病生活でたくさんの優し
 さに触れ、支えられていることを実感した彼女は感謝の気持ちを込めて、口
 癖のようにこう言った。

⑦「骨肉腫ありがとう」
⇒全身にガンが転移して手足も動かせない状にもかかわらず、骨肉腫になった
 おかげでたくさんの人たちの痛みを知り、世界中の人を助けてあげられると
 穏やかな表情で感謝の言葉を紡いだ。

⑧「治します。体育祭には間に合わせますから。」
⇒亡くなる前日、見舞いに訪れた担任の先生にこう宣言した。ベッドから起き
 上がることもかなわない状態だった。リハビリと言っては空のペットボトル
 を持ち上げようとしていた、その目の輝きだけは以前と変わることがなかっ
 た。

⑨「ママ、それぐらいのことで泣かないで。
  私はただ両手と両足が動かないだけ。
  首と背中がガンで潰れているだけ。
  口の中にガンがあるだけ。
  心はガンに侵されていないから自由でしあわせ。」
⇒悪化する病状。体の自由がきかず寝たきりになりながらも懸命にリハビリす
 る彼女の姿にお母さんは涙を抑えることが出来なかった。
 「どうしたら元の体に戻してあげられるの」と泣き崩れる母に彼女は優しく
 語りかける。

(つづく)

【橋のある風景】番外編<命のメッセージ>①-(1) “今伝えたいこと”(瞳さんの1419字)

2009年02月18日 22時42分50秒 | Weblog
【番外編】
≪命のメッセージ≫
(1/3)
“今伝えたいこと”(瞳さんの1419字)

 本稿は、いつも紹介する「橋のある風景(心象風景と人間ドラマ)」とは
やや趣向を変え、命のメッセージを正面からお伝えしたいと思います。
ずばり、『命を見つめて』。どうぞ。


「みなさん、本当の幸せって何だと思いますか」
制服姿の中学2年生の少女が、聴衆に問いかけます。
「それは『今、生きている』ということなんです」

 平成16年(2004)7月2日、福岡県大牟田市で開かれた「青少年健全育成弁論
大会」での1シーンである。

 少女は続けた。
「生き続けることが、これほど困難で、これほど偉大かと思い知らされました」
「家族や友達と当たり前のように、毎日を過ごせるということが、どれほど幸せ
 か」

『命を見つめて』と題して、渾身の発表を行った少女は、
その2カ月後の9月16日、息を引き取りました。

 小学6年の時、右大たい骨に骨肉種が見つかり既に肺にも転移、医師から『余
命半年』を宣告されました。ガンと正面から闘ってもらいたいと考えた母は、身
を切るような思いで11歳の少女に告知されたそうです。
 その時、大粒の涙を流しながら、
「教えてくれてありがとう。でももっと早く言って欲しかった。その分早く(病
気と)闘う事ができたもの」と悔しがり、
「でも、大好きなお母さんがガンじゃなくて、私がガンで本当によかった。」と。

「絶対に治る」ことを信じ、生きるため希望に向かって、1年9ヶ月ガンと正面
から闘い続けました。
 しかし、一緒に病気と闘ってきた大切な仲間が次から次に亡くなってゆくのを
目の当たりにし、「生き続ける事がこれほど困難で、これほど偉大なもの」
「たとえ、どんなに困難な壁にぶつかって悩んだり、苦しんだりしたとしても命
さえあれば必ず前に進んで行ける」そう痛感した彼女は、
「たくさんの仲間が命をかけて教えてくれた大切なメッセージを、世界中の人々
に伝えていくことが私の使命」と思うようになりました。

 病と闘い、入退院を繰り返しながらも学校生活を続けていました。そして闘病
生活の中で得た命の尊さを、現代国語の授業の課題“今伝えたいこと”に作文
『命を見つめて』としてまとめ上げました。
 さきの弁論大会には学校代表として出場しました。それは何度も何度も手直し
を繰り返し、納得がいく作品に出来上がったのは大会当日の朝でした。

 彼女の番になり、舞台裏で担任の先生から励ましを受けました。
「先生、大丈夫。私にはテクニックは必要ありません。真っ向直球勝負です。
 私には伝えたいことがあるんですもん。」
 そして、冒頭の発表シーン(写真はそのときのもの)になります。
 はきはきと、そしてかみしめるように、本人曰く「納得」の発表でした。

 故猿渡瞳さん。享年14歳。

 瞳さんが死の2日前に残した言葉を思い起こします。
「先生、体育祭には間に合わせます。リハビリもしてますから。」
 空のペットボトルを持ち上げようとしていた。
 また、瞳さんは常々こうも言っていました。
「骨はがんに侵されているけど、心はがんに侵されていない。心は自由で幸せ」、
「命さえあれば、必ず前に進んで行けるんです」

 瞳さんの作文は、その後県大会を経て、12月の全国大会でも紹介・審査されま
した。そして、優秀賞を受賞します。瞳さんには届かなかったものの、3学期の
始業式、母直美さんが代理出席して、受賞伝達式が中学校で執り行われました。

 生前、瞳さんは一青窈さんの「ハナミズキ」が好きだったといいます。
その曲を聞き、彼女の作文(全文)を読みたいと思います。


『命を見つめて』
大牟田市立田隈中学校 2年  猿渡 瞳

 みなさん、みなさんは本当の幸せって何だと思いますか。実は、幸せが私たち
の一番身近にある事を病気になったおかげで知ることができました。それは、地
位でも、名誉でも、お金でもなく「今、生きている」という事なんです。

 私は小学6年生の時に骨肉腫という骨のガンが発見され約一年半に及ぶ闘病生
活を送りました。この時医者に、病気に負ければ命がないと言われ、右足も太も
もから切断しなければならないと厳しい宣告を受けました。初めは、とてもショ
ックでしたが、必ず勝ってみせると決意し希望だけを胸に真っ向から病気と闘っ
て来ました。その結果、病気に打ち勝ち右足も手術はしましたが残す事ができた
のです。

 しかし、この闘病生活の間に一緒に病気と闘ってきた15人の大切な仲間が次か
ら次に亡くなっていきました。小さな赤ちゃんから、おじちゃんおばちゃんまで
年齢も病気も様々です。厳しい治療とあらゆる検査の連続で心も体もボロボロに
なりながら、私達は生き続ける為に必死に闘ってきました。しかし、あまりにも
現実は厳しくみんな一瞬にして亡くなっていかれ生き続ける事がこれほど困難で、
これ程偉大なものかという事を思い知らされました。
 みんないつの日か、元気になっている自分を思い描きながらどんなに苦しくて
も目標に向かって明るく元気にがんばっていました。それなのに生き続ける事が
出来なくて、どれ程悔しかった事でしょう。

 私がはっきり感じたのは、病気と闘っている人たちが誰よりも一番輝いていた
という事です。そして健康な体で学校に通ったり、家族や友達とあたり前の様に
毎日を過ごせるという事が、どれほど幸せな事かという事です。
 例え、どんなに困難な壁にぶつかって悩んだり、苦しんだりしたとしても命さ
えあれば必ず前に進んで行けるんです。生きたくても生きられなかったたくさん
の仲間が命をかけて教えてくれた大切なメッセージを、世界中の人々に伝えて行
く事が私の使命だと思っています。

 今の世の中、人と人が殺し合う戦争や、平気で人の命を奪う事件、そしていじ
めを苦にした自殺等、悲しいニュースを見る度に怒りの気持ちでいっぱいになり
ます。一体どれだけの人がそれらのニュースに対して真剣に向き合っているので
しょうか。
 私の大好きな詩人の言葉の中に
『今の社会のほとんどの問題で悪に対して「自分には関係ない」と言う人が多く
なっている。自分の身にふりかからない限り見て見ぬふりをする。それが実は、
悪を応援する事になる。私には関係ないというのは楽かもしれないが、一番人間
をダメにさせていく。自分の人間らしさが削られどんどん消えていってしまう。
それを自覚しないと悪を平気で許す無気力な人間になってしまう。』
と書いてありました。
 本当にその通りだと思います。どんなに小さな悪に対しても、決して許しては
いけないのです。そこから悪がエスカレートしていくのです。今の現実がそれで
す。命を軽く考えている人達に、病気と闘っている人達の姿を見てもらいたいで
す。そしてどれだけ命が尊いかという事を知ってもらいたいです。

 みなさん、私達人間はいつどうなるかなんて誰にも分からないんです。だから
こそ、一日一日がとても大切なんです。病気になったおかげで生きていく上で一
番大切な事を知る事が出来ました。今では心から病気に感謝しています。私は自
分の使命を果たす為、亡くなったみんなの分まで精一杯生きていきます。みなさ
んも、今生きている事に感謝して悔いのない人生を送って下さい。
(原文そのまま)


 あらためて、瞳さんのご冥福をお祈りいたします。合掌。


ぜひ読んでほしい文献等一覧:
・猿渡瞳 「瞳スーパーデラックス-13歳のがん闘病記-」
      西日本新聞社 2005.4.20刊
・猿渡瞳・猿渡直美
     「ママ、笑っていてね-ガンと向き合い、命を見つめた娘の贈り物」
      アスキー 2007.12.4刊
・福岡県大牟田市役所HP
  猿渡瞳さん「命のメッセージ」
  -命のメッセージを、世界中の人々に伝えたい-
  http://www.city.omuta.lg.jp/kouhou/inochi.html
・AflacアフラックHP
  生きる.comより 「生きる」ストーリー(猿渡瞳・猿渡直美さん編)
  http://www.aflac-ikiru.com/?banner_id=live69
 (弁論大会発表時の瞳さんの肉声がお聞きいただけます)

<橋のある風景> 第6話 夢のかけはし編 『明石海峡大橋』 (おまけ)

2009年02月12日 00時27分00秒 | Weblog
<橋のある風景> 第6話 夢のかけはし編 『明石海峡大橋』(おまけ)

「橋の科学館」をご存知だろうか?
http://www.jbec.or.jp/kagakukan/1kagakutop.htm

明石海峡大橋神戸側アンカレッジ(橋台)近くにある橋の博物館である。
昨今の外郭団体・組織の統廃合の波をもろに受け、存続の危機にある。
JR神戸線・舞子駅すぐ。
海上プロムナード(有料)では、橋桁内部から海峡が眼下に見下ろせる。

 写真は、神戸方アンカレッジ付近にあるモニュメント「夢リング」碑
明石海峡大橋生みの親、原口忠次郎の遺業を讃えて建立された碑である。
向こう側に(霧にむせぶ)橋が望めるビューポイントでもある。

ご参考になれば、
1)橋の科学館「第58回講演会」『本四公団初期の手探りの架橋調査の思い出』
       2009.1.31開催 講演者;島田喜十郎(橋の科学館 マイスター)
2)島田喜十郎著「明石海峡大橋-夢は海峡を渡る-」鹿島出版会 1998.3刊

<橋のある風景> 第6話 夢のかけはし編 『明石海峡大橋』(その3)

2009年02月11日 21時03分00秒 | Weblog
【その3】
 古来、須磨の浦から明石・屏風ヶ浦にかけては(神戸市須磨区~
明石市)、夕日が美しく淡路島を望む風光明媚な地であり、また同
時にその海流の速さから汐待ちの地ともなっていた。

 万葉集をはじめ古今和歌集、新古今和歌集など多くの歌人に歌わ
れてきた。
 明石の君は、光源氏が須磨へ都落ちした巻に登場する。
 芭蕉も明石を訪れ句を残しており、芭蕉の顕彰碑「蛸壺塚」があ
る。

 百人一首には、よくご存知の次の句がある。

 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守(源兼昌)

 来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ(藤原定家)


写真は、淡路側主塔塔頂から神戸方を望む

<橋のある風景> 第6話 夢のかけはし編 『明石海峡大橋』(その2)

2009年02月10日 09時08分06秒 | Weblog
【その2】
 明石海峡大橋を語るとき、外せない話がもう一つある。
 20年の長きにわたり神戸市長を務めた原口忠次郎(1889-1976)
その人である。大正5年(1916)京都帝国大学を出た生粋の土木
技術者である。
 昭和24年(1949)市長就任後は、港湾機能復興・拡張や人工島
ポートアイランドの計画・造成をはじめアイデア市長として鳴ら
した。

 原口が明石、鳴門両海峡に架橋して本土と四国を地続きにする
構想を発表したのはゴールデンゲート橋竣工の3年後、昭和15年
(1940)内務省神戸出張所長(現国土交通省・近畿の一部と中国
・四国地方整備局長を兼務した役職)のときだった。
 海軍の猛反対に遭って架橋構想は一時引っ込めざるをえなかっ
たが、構想は心の中に息づいていた。

 昭和31年(1956)原口は神戸市独自に行う明石海峡連絡橋の架
橋調査費を市議会に提案した。猛然と反対の声がわきあがった。
「明石海峡に橋をかけて神戸市に何の役に立つのか?」
「国の仕事だ!」
「技術的可能性はあるのか?工事費はどうなる?非現実的だ!」
「市長は白昼夢を見ているのではないか?」
という質問まで飛び出した。
 原口はこのとき悠然と
「人生すべからく夢がなくては叶いません」と答弁した。
 また長年にわたる架橋の技術的可能性研究には迫力と説得力が
あった。
 その後、技術調査成果は本四公団に引き継がれた。

 昭和51年(1976)3月22日、原口は橋を見ないまま86年の波乱
の人生を終えた。神戸市文化ホールで行われた神戸市葬には雨に
もかかわらず2000人の市民が参列したという。
(続く)

写真は、故原口忠次郎氏の胸像

<橋のある風景> 第6話  夢のかけはし編 『明石海峡大橋』(その1)

2009年02月09日 19時22分26秒 | Weblog
<橋のある風景⑥>
 夢のかけはし編 『明石海峡大橋』(その1)

 昭和20年(1945)12月9日、明石海峡は荒天で強風が吹き荒れていた。
連絡船は運行見合わせ、欠航の予定であった。淡路島から対岸の明石市
や阪神方面へ行くにはこの航路しかなく、待合室はごった返していた。

 闇市に買出しに行く人や生鮮食料品の行商人にせがまれ、朝9時前、
「せきれい丸」(34t・定員100名)は定員の3倍を超える乗客を乗せ、
岩屋港(現淡路市)を出た。
 客室に入れない乗客は北西の強い季節風を避け波がかかりにくい右舷
に集中していた。船は右に傾いたまま5分遅れでの出港であった。
 淡路・松帆の浦沖合い2kmに至った時、船は復元力を失い転覆、沈没
した。付近で操業中の漁船が45人を救助したものの死者・行方不明者304
名を出す大惨事となった。

 明石海峡への架橋は淡路島民の悲願であり、四国から見たときまさに
その名のとおり阿波(徳島)路(あわじ)でもあった。後に「夢のかけ橋」
と呼ばれ、工学的技術的裏づけ調査や実証実験などを繰り返し、工事完
成までに半世紀を要することになる。
(続く)

写真-1 明石海峡大橋と初日の出