しょうちゃんズ_Cafe

全力少年しょうちゃんが日々の感動と発見の中から、その心象風景とそこに織りなす人間ドラマを紹介します⌒⌒。

おまけ(その5) ※5)

2008年04月21日 14時43分04秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※5)東京-下関間弾丸列車計画:
「夢の超特急」ひかりは昭和39年(1964)颯爽とデビューした。
 しかし、東海道・山陽新幹線は戦前から計画され、昭和16年(1941)に部分着工していた。全線踏切のない立体交差で、レールの幅は世界標準軌(広軌)、時速150km/h、東京-大阪間4時間半、大阪-下関間4時間半を目指したが、戦況悪化により中止。東海道新幹線の東京-名古屋間、京都-大阪間のルートは、ほぼ上述の弾丸列車計画のものがそのまま引き継がれている。この中で、日本坂トンネル
(2,174m)は昭和19年(1944)9月にすでに完成、新丹那(しんたんな)トンネル(7,959m)も両側から約3割程度堀り進められていた。
 ちなみに、弾丸列車計画を推し進めた鉄道幹線調査会特別委員会委員長は島安次郎(秀雄の父、当時69歳)であった。そして東海道新幹線「ひかり0系」の設計を実際に担当したのは、島 隆(秀雄の次男)である。
 東海道新幹線の起工式(図参照)は、昭和34年4月20日、新丹那トンネルの熱海口にて行われた。戦時中の弾丸列車計画の際に入り口はすでに完成済み。
神棚の前で総裁・十河信二が鍬入れ式を行った。

おまけ(その4) ※4)

2008年04月21日 14時36分02秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※4)広軌(こうき):
国鉄(現JR)在来線は、軌間(線路の幅)1,067mmの「狭軌(きょうき)」。
これに対し世界の標準軌は1,435mm。日本ではこれを「広軌」と称している。狭軌は、もともとイギリスが植民地型規格として進めた規格である。
「狭い日本には狭軌で十分、コストも安くすむ」という大隈重信の一言で決まったとされる。しかし、高速かつ大量の輸送を実現するには、大型の車両が走行可能な広軌が大前提になる。広軌に改築すべしという軌間論争は明治以来続いていた。政党間(政友会vs憲政会)の利害と直結していて、明治42年(1909)からの10年間が最も激しく論議されている。大正7年(1918)原敬内閣で「狭軌」が国会で可決され、論争に終止符が打たれた。

おまけ(その3) ※3)

2008年04月21日 14時30分57秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※3)大石重成:
昭和5年(1930)東京帝大工学部土木工学科卒。
鉄道省建設局計画課、52年国鉄東京鉄道管理局長、54年建設部長、57年北海道支社長、幹線調査室長、58年常務理事、60年新幹線総局長となり63年退官。
64年鉄道建設業協会会長はじめ各種団体の役員を兼務。
第58代土木学会会長。