しょうちゃんズ_Cafe

全力少年しょうちゃんが日々の感動と発見の中から、その心象風景とそこに織りなす人間ドラマを紹介します⌒⌒。

【第2話】『Y市の橋』 おまけ

2007年12月20日 14時49分46秒 | Weblog
<橋のある風景>第2話『Y市の橋』 おまけ
◆参考文献、補遺等
図-1,2は、
『Y市の橋』1944(昭和19年) 油彩65.0×80.5cm
『Y市の橋』1947(昭和22年) 油彩41.0×53.0cm
※7)新潮日本美術文庫45「松本竣介」新潮社1996より

写真-1は、
現在の月見橋である。(撮影;日本ときめき研究所)
戦火の中、耳が聞こえないにも関わらず新宿区下落合の住まいから横浜まで、空襲の恐怖にさらされつつも竣介が通っては描き続けた「Y市の橋」は、今は鋼橋に架け替えられている。国道1号や上を越す高速道路、JR・私鉄に囲まれ、車と電車の喧騒と行きかう人の流れの中で、竣介が生きていれば何を感じるであろうか。前作から60年の歳月を経て、5作目は描いただろうか?
年月の中で戦禍、風雪に耐え歴史を刻むとともに、人が思い入れを感じ、スキャンしたくなるそんな“心象風景”をつくることに我々も参加、貢献できればと、日々思う。

※本文中の注記
1)夭折の画家;中野淳著「青い絵具の匂い」中公文庫1999
2)郷愁の画家;洲之内徹著「絵の中の散歩」新潮社1973
3)求道の画家;宇佐美承著「求道の画家松本竣介」中公新書1992
4)生きてゐる画家;小沢節子著「アヴァンギャルドの戦争体験」青木書店1994
5)人間風景への愛;朝日晃著「松本竣介」日動出版部1977
6)青春-夢と孤独の空間の青-;月刊 「一枚の繪」 2004年 5月号
特集;青の魅力 「青春 松本竣介 -夢と孤独の空間の青- 」(文・小林康夫)
http://www.ichimainoe.co.jp/cover/0405.html
セザンヌ、ピカソ、東山魁夷、東郷青児とともに紹介。
7)新潮日本美術文庫45「松本竣介」新潮社1996

◇その他参考URL
8)テレビ東京;EPSON MUSEUM「美の巨人たち」
  松本竣介「Y市の橋」2003(平成15年)8月23日放送
 http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/f_030823.htm
9) アートなギャラリートーク
松本竣介の風景
 http://home.h03.itscom.net/angeniex/index.htm
 http://home.h03.itscom.net/angeniex/mat/yshihashi.htm
 http://home.h03.itscom.net/angeniex/mat/yokohama.htm
10) 「いわて21世紀への遺産」(岩手日報ホームページより)
 http://www.iwate-np.co.jp/
11) 岩手県立美術館
 http://www.ima.or.jp/collection/matsumoto.html#
12) 横浜市西区ホームページ : 橋の概要   より 41.月見橋
洋画家・松本竣介(1912-1948)が何作も描き続けた代表作「Y市の橋」のモデルの橋で、今も多くの人が通勤、通学に行きかう。
 http://www.city.yokohama.jp/me/nishi/midokoro/hashi/hashi02.html
13) 文化遺産オンライン(文化庁・総務省の合同一般公開版HP)
 http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=90109

図・写真添付できず、ゴメンなさい

橋のある風景 【第2話】・・・・『Y市の橋』 (後編)

2007年12月20日 13時51分58秒 | Weblog
第2話<Y市の橋>

(前編から続く)・・・

好青年にして学業優秀。
一番の成績で旧制盛岡中学(現岩手県立盛岡一高)に入学する。
「技師」になりたいという夢は叶う・・・はずだった。
入学式当日に感染症に罹らなければ。
流行性脳脊髄膜炎(のうせきずいまくえん)。

医師は脊椎の間に注射針を刺し込んで混濁した液を取り出し、そのあとに血清液を注入した。竣介は悲鳴をあげ脂汗を流した。父の頭髪は真っ白になり、母は病院の中庭にうずくまり耳をおおった。生死の境から奇跡的に生還を果たすが、聴力を失う、完全に。
父勝身は動揺した。勤勉で信心深い父親はできることは何でもした。有名な医者がいると聞くと仙台や東京へも連れて行った。クリスチャンであったが親戚の行者の勧めで日蓮を信じ団扇太鼓を破れるまで叩く日々であった。とうとう、生きた蛭を竣介の耳の後ろに貼り付け悪い血を吸い取らせようとした。竣介は「もういいよ。耳が聞こえなくても困らないよ。雑音が入らないから、かえっていいかもしれない。」と言った。2歳年上の兄彬は、竣介に時間つぶしにでもと画材を贈った。

一年後復学した竣介は耳が聞こえないにもかかわらず教練、武道以外はすべて「甲」であった。同級生のみならず学校内で感嘆のため息が漏れた。三年次終了後、竣介は兄彬が東京外国語学校(現東京外国語大学)に進学するのに合わせて一緒に上京した。
画家になる決意を秘めて。まもなく17歳になろうとしていた春のことである。

                ▽▽
「街」1938.8「都会」1939.2「N駅近く」1940「街角」1941.5「盛岡風景」1941.7「ニコライ堂と聖橋」1941.10「市内風景」1941.12「議事堂のある風景」1942.1「鉄橋付近」1943.3「並木道」1943「Y市の橋」1942、1943、1944などを世に送り出した※7)。冴えた透明感のある色調、ぎゅっと詰まった質感と絵具の肌合いが感じ取れる。人物や建物が重複する構図は、都会風景を切り取った画面の中に静謐な空間や時代の不安定な様相が読み取れる。さまざまである。しかしいずれにしても見る者を魅了せずにはおかない。

実は、「Y市の橋」には4作目がある。1947(昭和22年)画。油彩41.0×53.0cm 
1945(昭和20年)5月29日そこは徹底的な空襲を受け焦土と化した。好んでモチーフとしたこの橋も同様であった。おどろおどろしい赤い光景にどす黒くよどんだ川、何事もなかったかのような白けた空。現実の無残な姿を晒すY市の橋がそこにあった。
               ▽▽▽
「Y市の橋」それは、横浜市神奈川区金港町5番地先、市道「月見橋」である。JR横浜駅北改札東口そば、新田間川(あらたまがわ)を跨ぐコンクリート橋(当時)である。後方には京急・JRの鉄道が通る。
現在、首都高速三ツ沢線金港JCTが直上を通過し、当時の面影はない。左後方にある人道橋の鉄道架線を支える枠型支柱がわずかに当時のイメージを付してくれるのみである。
「技師」になりたかった少年時代の眼差しが、都市の風景を好んで描かせたのであろうか。
               ▽▽▽▽
聴失の画家、松本竣介(1912-1948)。
昭和初期・戦前戦中を駆け足で駆け抜けた青年画家竣介は持病の気管支喘息に起因する心臓衰弱でこの世を去った。享年36歳。法名、浄心院釋竣亮居士。島根県松江市奥谷町、真光寺 妻方松本家の菩提寺に眠る。合掌
文・構成;P.N.日本ときめき研究所・所長


橋のある風景 【第2話】カンヴァスの中の橋編『Y市の橋』(前編)

2007年12月03日 19時00分12秒 | Weblog
<橋のある風景>第2話: カンヴァスの中の橋編 『Y市の橋』(前編)

Y市?はて。や、や、山形市?、山口市?・・・。どこだろうか?この作者の思い入れの橋は。同じ構図で3点も描いたという馴染みの場所とは?それともいわくありげな集合体・フィクション(虚構)なのだろうか?何が作者にそうさせた。戦中の殺伐としたさなかに都市の風景をスキャンする(切り取り描く)、その本心は何処に・・・。
『Y市の橋』1944(昭和19年)画。油彩65.0×80.5cm 松本竣介作。
現在の竣介評を探ると、夭折の画家※1)、郷愁の画家※2)、求道の画家※3)、生きてゐる画家※4)、人間風景への愛※5)、青春-夢と孤独の空間の青-※6)、などと評されている。※6)では特集記事が組まれ、人々が魅かれる「青の魅力」についてセザンヌ、ピカソ、東山魁夷や東郷青児とともに松本竣介を語っている。松本竣介とは一体・・・。 
                   ▽
竣介は、1912(大正元年)佐藤勝身・ハナの次男として東京に生まれる。幼少期を父の故郷岩手県ですごす。父勝身は林檎酒製造業で身を起こし竣介は何不自由することなく育った。“イーハトーヴ”を心の故郷として豊かに成長した。岩手師範付属小学校に進んだ。いつも級長であった。図画は受け持ちの教師の方針で、手本を写させる当時の文部省流をやらずに自由画を描いた。竣介はとりわけ上手であったが、算術や理科が好きで将来は「技師」になりたいと思っていた。

あるとき母に連れられて北海道を旅したあと、寝床で大好きな兄の彬に「青森と函館の間にトンネルを掘ればいい」と言った。一笑されても「モグラの働きを研究すればいい、大きな鉄管をつないでもいい」と言い張った。「僕は大きくなったら技師になるんだ」とも言った。好青年にして学業優秀。一番の成績で旧制盛岡中学(現岩手県立盛岡一高)に入学する。
「技師」になりたいという夢は叶う・・・はずだった。
入学式当日に感染症に罹らなければ。
流行性脳脊髄膜炎(のうせきずいまくえん)。

以下、次回に続く・・・