しょうちゃんズ_Cafe

全力少年しょうちゃんが日々の感動と発見の中から、その心象風景とそこに織りなす人間ドラマを紹介します⌒⌒。

おまけ 注釈※1)

2008年04月10日 13時03分13秒 | Weblog
<土木のある風景③>  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
注釈>>
※1)十河(そごう)信二(1884-1981):
愛媛県新居浜市生まれ。東京帝大法学部卒。後藤新平に認められて鉄道院に入り、満鉄理事となって大陸で活躍。終戦時は地元の愛媛県西条市市長。
昭和30年(1955)、71歳で第4代国鉄総裁に就任。当時、国鉄では難問山積みで、
洞爺丸事故(昭和29年9月)、紫雲丸事故(昭和30年5月)等もあり後任の引き受け手がなかった。高齢でもあり固辞するが、一たび総裁になるや猛然と走り出した。誰もが短命視する中で予想に反して丸々8年総裁を務める。「広軌新線」計画は、史上未曾有の大プロジェクトであり、不用意に口にすれば一気に潰されかねない。一方では、“爺さんの夢物語”と一笑に付されまともに取り扱ってもらえない状態であったが、ついには世界に冠たる東海道新幹線実現まで漕ぎ着けてしまう。
2007年11月愛媛県西条市、JR伊予西条駅横に十河信二記念館が開館した。

 十河信二は、昭和56年(1981)11月3日に亡くなったが、葬儀後、遺骨を持って新居浜へ帰るとき、十河五男氏の記述によると、生前、「今一度自分が育てた新幹線に乗りたい」と言っていたのを思い出し、飛行機をとりやめて急遽、新幹線で新居浜へ帰ることにした。
 途中、車掌のはからいで「グリーン車に、遺影を安置する場所を設けておりますので、そちらにお移りください」と言われた。車内では乗客も、鉄路一筋に生涯を捧げた信二に拝霊し、また車掌に「各停車駅で、幹部職員が見送りに出ておりますので、車窓から遺影を掲げてくださるように」といわれ、それに従いホームでは、多くの職員の丁寧な葬送を受けたという。このように部下には非常に慕われていた「カミナリ親父」だった。