しょうちゃんズ_Cafe

全力少年しょうちゃんが日々の感動と発見の中から、その心象風景とそこに織りなす人間ドラマを紹介します⌒⌒。

伏見の今・むかし~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-6)

2010年11月28日 03時02分48秒 | Weblog
伏見の今・むかし~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-6)

まちは、大河ドラマ「龍馬伝」ブームに沸き、寺田屋は観光客が引きもきらない。
(2010.11.25付け掲載記事、幕末伏見編;付録-4 の写真-4,-5 参照)

伏見観光協会他が昨年末までに設置した各種幕末の史跡碑が案内目印になっており、
今の伏見と幕末の伏見を重ね合わせる不思議な空間が、そこには存在する。




写真-1 伏見の今に幕末碑等を重ねた図※1)


※参考文献;
1) 新創社編;京都時代MAP 幕末・維新編 光村推古書院 2003.12
  に加筆

宇治川支流の舟運 ~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-5)

2010年11月26日 02時00分00秒 | Weblog
幕末当時、大坂からの舟便が発達しており、舟客へのパンフレットも準備されていた。
(「大川便覧」;大川(旧淀川)から京都伏見までを描いたジャバラ折本。
 距離、川幅、橋梁他見印などを記した大川・三十石舟の「乗陸必携」。
 今で言うビジュアルガイド)
 例えば http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme549.html あるいは
      http://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/museum/bunko/tanbo05.html 参照



写真-01 「大川便覧」(長さ460cm、幅18.6cm)月桂冠大倉記念館にて



写真-02 「大川便覧」(伏見周辺の図)同上にて



 伏見周辺へは、宇治川から分派した支流へと舟は進み、京阪中書島駅(当時は支流に囲まれ文字通り中書「島」であった)付近や寺田屋付近で荷揚げ、上陸した。


写真-1 十石舟の遊覧に当時を偲ぶ


写真-2 十石舟と現在の支流


写真-3 当時の三十石舟の航行図(流れはほぼ無く、引き舟として航行した)


写真-4 十石舟からの目線(その1)


写真-5 十石舟からの目線(その2)

寺田屋 ~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-4)

2010年11月25日 02時51分42秒 | Weblog
寺田屋~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-4)

寺田屋とその周辺


写真-1 寺田屋周辺の幕末当時の復元模型より※1)
   (中央上に船宿・寺田屋、左手に京橋、右手に蓬莱橋が架かる)


写真-2 現地付近の案内看板より(2010.10.16撮影)


写真-3 「伏見京橋」淀川両岸一覧より※2)


写真-4 現在の寺田屋(その1)※3)


写真-5 現在の寺田屋(その2)※3)


※参考文献;
1) 三栖閘門資料館(国土交通省近畿地方整備局 淀川河川事務所の所管)
  展示物の撮影写真より
   http://www.misu-museum.jp/index.html 参照
2) 淀川両岸一覧(大阪市立中央図書館蔵 貴重図書)
   上船之巻下 暁鐘成/著 河内屋喜兵衛刊 文久元(1861)
   例えば、
   ・淀川資料館(国交省淀川河川事務所)第6回企画展
   「淀川両岸物語 今・昔・明日」
    http://www.yodo-museum.go.jp/kikaku/kikaku06/kika6_aindex.html
   ・大阪府立大学上方文化研究センター 蔵書資料HP
    http://www.human.osakafu-u.ac.jp/kamigata/books/chishi/chishi_01.html
3) 寺田屋の位置について
   幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失した。
   当時の家屋は、現在地よりやや東側にあったとされる。
   現在のものは明治期に再建されたもの。
  例えば、
   中村武生著「京都の江戸時代をあるく」文理閣 2008.10 pp.161-212 参照



材木小屋跡と濠川と薩摩藩邸跡 ~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-3)

2010年11月24日 20時00分00秒 | Weblog
材木小屋跡と濠川と薩摩藩邸 ~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-3)

寺田屋騒動の折、
龍馬が一時潜伏したという「材木小屋」からは、薩摩藩が出した舟で救出され藩邸に
戻ったという。


写真-1 大手橋の左脇に「材木小屋」跡の碑が(2010.10.16撮影、以下同様)

 当時大手橋は存在せず、大手筋は濠川の東で行き止まりであった。材木小屋への潜伏、舟での脱出には、結果的に好都合だったかも。


写真-2 昨年設置された跡の碑


写真-3 碑文の拡大写真


写真-4 現在の濠川と右手は月桂冠酒造昭和蔵(元紀州藩伏見屋敷の跡地)


図-1 当時の伏見界隈の古地図※1)


※参考文献:
1) 新創社編 「京都時代map 幕末・維新編」 光村推古書院 2003.12
  に加筆。

「材木小屋」そのとき、龍馬は身を潜めた~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-2)

2010年11月22日 19時45分21秒 | Weblog
寺田屋騒動の折、
龍馬が一時身を潜めたという「材木小屋」である。
以下に掲げる資料の古写真から見る限り、「材木倉庫」という方が近いと思う。


写真-1 龍馬が身を潜めたという「材木小屋」※1)

※参考文献:
 1)磯田道史著 「古地図で巡る龍馬の旅」趣味工房シリーズ~直伝「和」の極意
   2010年4-5月NHKテレビテキスト 日本放送出版協会
   原典は、東京大学史料編纂所所蔵

豊後橋~歴史の中の橋とまち、幕末伏見編(付録-1)

2010年11月18日 01時42分41秒 | Weblog
 寺田屋騒動のさなか、お龍が駆け出て一度到達したのがこの豊後橋。
現在の観月橋が架かる位置である。

 図-1 豊後橋※1)

大きい橋であるので、夜間でも一目でわかる。
(図中、手前右手方向が寺田屋のある方向)
しかし、本来逃げ込みたい薩摩藩伏見屋敷の方向とは異なることもまた同時に判断できたであろう。


※参考文献;
1)豊後橋 「都名所図会」巻之五 前朱雀再刻 43頁
 人物往来社 1967.7 ほか
 例えば、
 http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_441f.html

楢崎龍

2010年11月16日 22時21分16秒 | Weblog
楢崎 龍(ならさき りょう)※1)

 天保12年6月6日(1841年7月23日) - 明治39年(1906年)1月15日)
 医師の楢崎将作と貞(または夏)の長女として京都で生まれた(または実父は西陣織を扱う商人で将作の養女になったとも)。
 妹に次女・光枝、三女・起美(君江)、弟に太一郎、健吉がいる。

 龍馬の訃報は12月2日に下関に伝えられ、
覚悟をしていたお龍は髪を切って仏前に添えて大泣きしたという。


写真-1 科学警察研究所の鑑定により「楢崎龍」であるとされた女性の写真(明治5年頃撮影)※1)

 龍馬暗殺の後は各地を流転の後に大道商人・西村松兵衛と再婚して西村ツルを名乗る。晩年は落魄し、貧窮の内に没した。


写真-2 晩年のお龍さん

 墓は横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)にある。長く墓碑を建てることができなかったが、田中光顕や香川敬三の援助を受けてお龍の死の8年後の大正3年(1914年)8月に妹の中沢光枝が施主、西村松兵衛らが賛助人となりこの墓を建立した。

写真-3 お龍さんの墓(信楽寺 神奈川県横須賀市大津町)

 墓碑には夫の西村松兵衛の名ではなく「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。
 また、龍馬の眠る京都霊山護国神社にも分骨された。



演じた主な女優たち※2);
・映画
  吉永小百合:『幕末』         (1970年、東宝)
  原田美枝子:『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年)
  高橋惠子 :『ゴルフ夜明け前』    (1987年)
  鈴木京香 :『竜馬の妻とその夫と愛人』(2002年)
・テレビドラマ
  浅丘ルリ子:『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ)
  川口晶  :『勝海舟』  (1974年、NHK大河ドラマ)
  島本須美 :『花神』   (1977年、NHK大河ドラマ)
  岸惠子  :『葉蔭の露』 (1979年、朝日放送)
  大谷直子 :『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京)
  夏目雅子 :『幕末青春グラフィティ 坂本竜馬』(1982年、日本テレビ)
  洞口依子 :『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ)
  麻生久美子:『新選組!』  (2004年、NHK大河ドラマ)
  市川実日子:『篤姫』   (2008年、NHK大河ドラマ)
  真木よう子:『龍馬伝』  (2010年、NHK大河ドラマ)

※参考文献:
 1) 中村武生;京都の江戸時代をあるく 文理閣 2008.10
 2) 楢崎龍 wikipe ほか


坂本龍馬

2010年11月15日 21時00分00秒 | Weblog
坂本龍馬
今日は、龍馬の誕生日にして命日である。
地元高知では生誕祭が行われ、
他方京都河原町通りの「遭難の碑」では法要が執り行われている。

その存在がすでに幕末の奇跡!と言われる坂本龍馬は
天保6年11月15日(1836年1月3日)現在の高知県高知市上町一丁目に生まれ、
 写真-1 生誕の碑

慶応3年11月15日(1867年12月10日)京都河原町近江屋に没した。
 写真-2 遭難の碑

享年31歳。
京都市東山区霊山護国神社に眠る
 写真-3 墓所(左が坂本龍馬、右中岡慎太郎のもの)




龍馬を演じた主な作品と俳優※1):
・映画
『人斬り』    (1969年 監督:五社英雄 竜馬:石原裕次郎)
『幕末』     (1970年 竜馬:萬屋錦之介)
『竜馬暗殺』   (1974年 監督:黒木和雄 竜馬:原田芳雄)
『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年 監督:河合義隆、脚本・主演:武田鉄矢)
『竜馬を斬った男』(1987年 竜馬:根津甚八)
『ゴルフ夜明け前』(1987年 原作:桂三枝、監督:松林宗恵、竜馬:渡瀬恒彦)
『幕末純情伝』  (1991年 竜馬:渡辺謙)
『竜馬の妻とその夫と愛人』(2002年 原作・脚本:三谷幸喜、監督:市川準、竜馬:トータス松本)
・TVドラマ
坂本龍馬を主人公とした作品
『竜馬がゆく』   (1968年、NHK大河ドラマ 脚本:水木洋子、竜馬:北大路欣也)
『幕末青春グラフィティ 坂本竜馬』(1982年、日本テレビ 脚本、主演:武田鉄矢)
『竜馬がゆく』   (1982年、テレビ東京 脚本:下飯坂菊馬、竜馬:萬屋錦之介)
『坂本龍馬』    (1989年、TBSテレビ 脚本:中島貞夫、龍馬:真田広之)
『竜馬におまかせ!』(1996年、日本テレビ 脚本:三谷幸喜 竜馬:浜田雅功)
『竜馬がゆく』   (1997年、TBSテレビ 脚本:長坂秀佳、竜馬:上川隆也)
『竜馬がゆく』   (2004年、テレビ東京 脚本:長坂秀佳、竜馬:市川染五郎 (7代目))
『龍馬伝』     (2010年、NHK大河ドラマ 脚本:福田靖 龍馬:福山雅治)
その他の作品
『三姉妹』  (1967年、NHK大河ドラマ 原作:大佛次郎、脚本:鈴木尚之、竜馬:中村敦夫)
『天皇の世紀』(1971年、朝日放送 原作:大佛次郎、竜馬:山口崇)
『勝海舟』  (1974年、NHK大河ドラマ 脚本:倉本聡、竜馬:藤岡弘)
『花神』   (1977年、NHK大河ドラマ 脚本:大野靖子、竜馬:夏八木勲)
『俺達の明日』(1980年、日本テレビ 脚本:小川英、竜馬:中村雅俊)
『幕末青春グラフィティ 福澤諭吉』(1985年、TBSテレビ 脚本:矢島正雄・河合義隆、竜馬:武田鉄矢)
『影の軍団IV』(1985年、関西テレビ、竜馬:世良公則)
『白虎隊』  (1986年、日本テレビ 脚本:杉山義法、竜馬:中村雅俊)
『田原坂』  (1987年、日本テレビ 脚本:杉山義法、竜馬:竹脇無我)
『奇兵隊』  (1989年、日本テレビ 脚本:野上龍雄、竜馬:武田鉄矢)
『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ 脚本:小山内美江子、竜馬:佐藤浩市)
『勝海舟』  (1990年、日本テレビ 脚本:野上龍雄、竜馬:梨本謙次郎)
『幕末高校生』(1994年、フジテレビ 脚本:中村功一・武上純希、竜馬:仲村トオル)
『壬生義士伝〜新選組でいちばん強かった男〜』
       (2002年、テレビ東京新春ワイド時代劇 原作:浅田次郎、脚本:古田求、龍馬:筧利夫)
『新選組!』  (2004年、NHK大河ドラマ 脚本:三谷幸喜、龍馬:江口洋介)
『篤姫』   (2008年、NHK大河ドラマ 脚本:田渕久美子、龍馬:玉木宏)
『日曜劇場 JIN-仁-』(2009年、TBSテレビ 脚本:森下佳子、龍馬:内野聖陽)
・舞台
『坂本龍馬』    (1989年・1991年 / ミュージカル 龍馬:西城秀樹)
『硬派・坂本竜馬!』(1989年 / 宝塚歌劇花組 脚本・演出:石田昌也 竜馬:真矢みき)
『また逢おうと竜馬は言った』
          (演劇集団キャラメルボックス 脚本:成井豊、竜馬:川原和久(199)・上川隆也(1995)・
岡田達也(2000・2010)・大内厚雄(2010))
『Ryoma ~硬派・坂本竜馬!II~』
          (1996年 / 宝塚歌劇花組 脚本・演出:石田昌也 竜馬:真矢みき)

※1)参考文献:
坂本龍馬 wikipe ほか


【橋のある風景】第12話<歴史の中の橋とまち>(古地図で見る幕末京都伏見)編

2010年11月15日 02時00分00秒 | Weblog
【橋のある風景】
<歴史の中の橋とまち(古地図で見る幕末京都伏見)編>

 その夜、彼女は走っていた。振り返ると捕り方の提灯がたくさん見える。捕り物騒動に町中がざわついている。起き出してきて何があったのかいぶかる人たち、あっちの方らしいぞと駆けつける野次馬たち、笛を吹き町中に捜索の手を拡げる捕り方衆。湯上りのままで目立つ格好の彼女は気取られないように人がいるところではゆるゆると歩いた。人波が途切れると下駄を脱いで一生懸命に走った。
 気がついたら、そこは豊後橋であった。(図中の右下周辺部参照)

                     図-1 伏見周辺の古地図※2)

とりあえず、そこまで走り着いたが、彼女は町へ引き返して目的地へ急いだ。夜も更けてきたからもう大丈夫かと思っている矢先に捕り方に出会った。とぼけた顔をしてごまかし、急場をしのいだ。また、ゆるゆるとそして一生懸命に行った。竹田街道に出た時分は、明け方になり東はほんのり白んできた。たなびく雲にかたむく月を見ながら行った。途中で男に出会った。薩摩屋敷の場所を聞いた。彼女の風体を見ていぶかる男に、急病の主人のところに急いでいるが、薩摩屋敷を目印にと聞いたと説明した。
そうかそうかと丁寧な説明を受けた。そうして、ようやく、たどり着いた。
 その時、龍馬も三吉慎蔵もまだ来ていなかった。再び、探しに飛び出そうとする彼女・お龍を制し、薩摩藩が舟を出して探すと言う。そうこうしている内に三吉が到着した。「捕り方が道を塞いでいて二人一緒には来られなかった」と言う。大山彦八たち藩士が薩摩の旗を立てて舟で迎えに出て行った。
 寒いからと火を焚いて暖まっているところへ、龍馬たちが帰って来た。お龍は嬉しくて飛び出していくと、龍馬は「お前は早や来ておるか」と言った。※1)
慶応二年1月23日未明(1866年3月8日)の出来事であった。世に言う寺田屋騒動である。
※参考文献;
1)一坂太郎;わが夫坂本龍馬 -おりょう聞書き- 朝日新書205 朝日新聞出版 2009.11
2)新創社編;京都時代MAP 幕末・維新編 光村推古書院 2003.12
 (原典は京都大学付属図書館蔵)