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全力少年しょうちゃんが日々の感動と発見の中から、その心象風景とそこに織りなす人間ドラマを紹介します⌒⌒。

<どぼくのある風景>第3話 夢の超特急編『SHINKANSEN』

2008年04月09日 12時05分31秒 | Weblog
<どぼくのある風景>
  夢の超特急編  『SHINKANSEN』
 1964(昭和39)年10月1日午前6時ひかり1号新大阪行きは警笛とともに静かに東京駅9番ホームを出発した。

 東京オリンピック開催を9日後に控え、日本中の期待と希望を乗せて新幹線時代が幕を開けた。先立つことホームでは出発式が挙行された。運転士には花束が贈られ、国鉄総裁の式辞、テープカット等盛大な式典が行われた。新聞各紙は一面トップで新時代の幕明けを報じた。
 東海道新幹線は、開業と同時に大成功する。営業日数約1000日で早くも乗客一億人(昭和42年7月)、3000日(昭和47年9月)で5億人を運んでいる。開業からの35年間で実に延56億人。単純に考えると日本人一人当たり43回も新幹線に乗った計算である。日本の高度経済成長は東海道新幹線に大きく依存しているといって過言ではない。
 経済ばかりか日本人のライフスタイルまで大きく様変わりさせたのである。「SHINKANSEN」は世界に通じる単語であり、日本のみならず世界の鉄道・交通に“新風”をもたらした。高速化を断念していた各国国鉄はこれに倣い、奮起した。フランスTGV、ドイツICE、スペインAVEなど都市間高速鉄道の花が開いた。「SHINKANSEN」は鉄道斜陽化という当時の世界の常識を覆し、鉄道をよみがえらせたのである。
 国鉄総裁・十河(そごう)信二※1)、技師長・島秀雄※2)、新幹線総局長・大石重成※3)、この3人は「新幹線三羽がらす」と称される。資金・技術・建設それぞれを分担して、不可能を可能に変えてきた。
 しかし、建設当時、国鉄内部では反対論の方が根強かった。これからは高速道路による自動車輸送の時代であり大規模な広軌※4)新線の建設は国鉄の致命傷になりかねないという上述の鉄道斜陽論であった。反対派は、採算性のない道楽息子と考え、超高速で走る実績のなさや安全性に対する不安を語るのが常であった。開業後のドル箱営業も、その後の安全神話も、まだ見ぬ夢物語に過ぎなかった。
 世間からは「世界に四大バカあり。万里の長城、ピラミッド、戦艦大和に新幹線」つまり無用の長物と嘲笑されたこともしばしばであった。
 日本国有鉄道(国鉄)は、鉄道省の流れを引く職員40万人を要する巨大官僚組織である。その内部抗争・主導権争いは政治家を巻き込み政争の具としてもてあそばれ、翻弄された。それは戦前も同様であり、明治・大正期も例外ではない。「我田引鉄」と言われ、政治家たちは「橋三年鉄道一生」とそしられつつ地元に線路を引き、駅を作ることに奔走した。
 工期5年。
 戦前の東京-下関間弾丸列車計画※5)を踏襲する形で用地買収、工事引継ぎ等が行われ、驚くほど短期間に建設されている。一方、工事費は当初から膨大な費用不足を抱えていた。つまり、反対派からの事業中止という横槍を回避するため、建設予算を少なめに申告し、国会を通すというきわどいことをしていた。昭和34年度の国会予算審議では総工事費1972億円※6)で可決、承認されている。最終的に工事費は約3800億円※7)。ありていに言えば、国会つまりは国民を欺いた上での見切り発車であった。政治家から持ち込まれるローカル線建設の話は、予算を浮かすため蹴り続けることになる。我田引鉄を公約に当選してきた政治家たちからは目の敵とされることになった。

 冒頭10月1日の出発式、テープカットした国鉄総裁は十河ではなかった。新幹線慎重派の後任総裁がそこにいた。新幹線技術の生みの親と称され、奇しくも父子三代※8)にわたり広軌新線建設に情熱を注いだ島も、十河に殉じる形で国鉄を去っていた。
 後年、東京駅19番ホームの大阪寄り先端にレンガ色の碑ができた。そこには、新幹線誕生に格闘した熱血総裁・十河信二のレリーフが置かれている。「一花開天下春」(一花、天下の春を開く)という自筆の書碑とともに。