goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

奈須きのこ『DDD(Decoration Disorder Disconnection』第1巻

2007-05-26 | 小説
DDD 1

講談社

このアイテムの詳細を見る


 奈須きのこの『DDD(Decoration Disorder Disconnection』第1巻を読んだ。相変わらず奈須きのこ節は僕には合わないのだが、それでもさすがに面白いというかなんと言うか。結構説明不足(かの右手義手などは誤植かと思ったが、次のエピソードでやっぱり右手義手で合っていたということが、脈絡なく確証された)や言葉足らずなところがある気がするのだが、それを上回る勢いがあるのである。

 話は、現代の悪魔憑きもの。片腕のやはり悪魔憑きらしいアリカという青年と、本物の悪魔(?)かもしれない美貌の少年カイエが、悪魔憑きの関わる事件に巻き込まれる(?)話なのだが、別に毎回悪魔払いをしていくというわけではなく、いろいろと変な話が詰め込まれている。ちなみにエグイ描写あり。

 設定的には、オリガ記念病院とか作中人物の精神異常の具合とかは、明らかに『CROSS†CHANNEL』を意識している。かつて奈須氏は『CROSS†CHANNEL』を「越えられない壁」と呼んだが、本気で壁を越えにいったのかもしれない。あとストーリーテリングについては、一人称の視点が度々変わったり、人物再登場方式っぽい感じなので、かの『ブギーポップ』シリーズを参考にしているのかもしれない。なお、この1巻には都合3つのエピソードが収められているのだが、それぞれのエピソードで用いられる叙述トリックが事実上同じものというのはいただけないかも。キャラが立ってていい感じ。なぜか、容姿に関してはほとんど叙述されていないのだが、イラストあるからそっち見ろって話なのかもしれない。僕は、久織マキナあたりかなり良い感じだと思う。いや、キャラはみんなアホなんだが。

 ということで、僕以上に奈須節がダメだという人でもなきゃ(そういや僕は『空の境界』を投げ出した)、勧められそうな本である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恩田陸『朝日のようにさわやかに』

2007-05-22 | 小説
朝日のようにさわやかに

新潮社

このアイテムの詳細を見る


 恩田陸の最新短編集『朝日のようにさわやかに』を読んだのだが、あんまり面白くない。恩田氏はこれまでハズレをださない作家だと思っていたのだが、残念。恩田氏自身もイマイチっぷりがわかっているのか、あとがきの作品解説で、言い訳じみたコメントを載せている。そもそも『一千一秒殺人事件』とか『卒業』やら意味不明な短編も少なくない。ブラック・ユーモアの利いた『ご案内』やラジオ・トークの雰囲気をうまく再現した『あなたと夜と音楽と』、『麦の海に沈む果実』『黄昏の百合の骨』という水野理瀬シリーズの番外編にしてファンサービスの『水晶の夜、翡翠の朝』などは、悪くないのだが、やはり短編集全体の出来としては、うーむ、とうならずをえない。まあ、いま何本も平行して書いている長編の単行本化を期待しようか。

 なおこの本の帯に、「(恩田陸の)入門書としても最適」と銘打たれているが、この短編集を読んで恩田陸を切られてはもったいない。入門書としては、やはり『六番目の小夜子』とか『球形の季節』とか『麦の海に沈む果実』とか『夜のピクニック』くらいのジュヴナイルぽい作品が出来がよく読みやすいだろうか。間違っても、恩田陸の本格ミステリーほど信じてはいけないものはない、と思う。なお私が好きなのは『球形の季節』と『まひるの月をおいかけて』。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三島由紀夫『金閣寺』

2007-05-20 | 小説
金閣寺

新潮社

このアイテムの詳細を見る


『これが俗世だ』と私は思った。『戦争がおわって、この灯の下で、人々は邪悪な考えにかられている。多くは男女の灯の下で顔を見つめ合い、もうすぐ前に迫った、死のような行為の匂いを嗅いでいる。この無数の灯が、悉くよこしまな灯だと思うと、私の心は慰められる。どうぞわが心の中の邪悪が、繁殖し、無数に殖え、きらめきを放って、この目の前のおびただしい灯と、ひとつひとつ照応を保ちますように! それを包む私の心の暗黒が、この無数の灯を包む夜の暗黒を等しくなりますように!』(P90)
「不安もない。愛も、ないのだ。世界は永久に停止しており、同時に到達しているのだ」(P130)
「小刻みにゆく塩垂れた帯の背を眺めながら、母を殊更醜くしているものは何だと私は考えた。母を醜くしているのは、……それは希望だった。湿った淡紅色の、たえず痒みを与える、この世の何ものにも負けない、汚れた皮膚に巣喰っている頑固な皮ぜんのような希望、不治の希望であった」(P253)

 三島由紀夫の『金閣寺』を読んだ。学部のときの同輩に勧められていたのだが、今まで読まなかったのを、一応は文学を学んだものとして読んでいないのはまずいので今さらになって読んでみたのだ。

 話としては、仏僧を父親に生まれ、父から金閣寺をこの世の「美」の塊と聞きながら育った少年が、学生時代に終戦を迎え、金閣のある鹿苑寺の学僧として迎えながら、生まれつきの「どもり」や奇妙な友人たちとの交流、反復する金閣寺のイメージ、鬱屈する性欲、和尚との確執などのもろもろにより、遂に金閣寺を放火するまでを描く。金閣寺には「闇」のイメージが重ねられるとおり、闇の小説という雰囲気である。とはいえ、彼が遂に金閣寺に放火したあとに、遠くの山から燃え盛る金閣寺を眺めるシーンで終わるラストの一文には、妙なすがすがしさ、あるいはこう言っていいなら救いみたいなものがある。
 この小説には、「美」などについてのさまざまな考察が収められているが、「終戦」や「戦争」についての考察はごくわずかである。しかし、解説においても指摘されている通り、やはり青年やあるいはこの小説の他の登場人物について、「終戦」の影がごく深くまとわり付いていることは疑う余地がない。そういう意味では、この小説は終戦についての小説と言っていいのではないか。そして徹底して一人の学僧の人生に寄り添いながら、『金閣寺』は一つの時代を描いた小説でもある。そしてさらに、「美」という概念について考察しぬいた、普遍的な小説といっていいかもしれない。

「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」(P275)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アーサー・C・クラーク『3001年終局への旅』

2007-05-09 | 小説
3001年終局への旅

早川書房

このアイテムの詳細を見る


「どのような神的あるいは霊的存在が星のかたなにひそんでいようと、平凡な人間にとって重要なことは二つしかない――<愛>と<死>だけだ」(P288)

「もしダウンロードできなかったら、忘れないでくれ、われわれのことを」(P279)

 アーサー・C・クラークの『3001年終局への旅』を読み終えた。これで、『2001年宇宙の旅』『2010年宇宙の旅』『2061年宇宙の旅』『3001年終局への旅』という「オデッセイ」シリーズ四部作をすべて読んだことになる。

 本作は、『2001年宇宙の旅』で、HALの反乱に遭い、宇宙へと放り出されて死んでしまったフランク・プールが外宇宙へと漂っているところを捕獲され、蘇生させられて、3001年の世界にカルチャーギャップを感じながら生活し、またその世界を襲う危機に対決する話である。

 今回もクラークの未来のテクノロジーと社会予想が示され、具体的には『攻殻機動隊』シリーズでいう「電脳化」のような処置や、いわゆる「機動エレベーター」のような科学記述が示される。そして、宇宙船の駆動方法は「慣性駆動」という、物体のすべての粒子に同一方向への慣性を加えるというもの。

 単純な面白さでいえば、『2001年宇宙の旅』>『2010年宇宙の旅』>『3001年終局への旅』>『2061年宇宙の旅』といったところで、まあ面白い。とりあえず『2001年宇宙の旅』を楽しんで読めた人なら、退屈せずによめることだろう。一方で、『3001年』の世界を襲う危機への対処については、凡百のスペースオペラなら展開を二転三転させてサスペンスいっぱいに書き立たてるところだが、この小説では割とあっさり成功してて「え、それで終わりなの?」と感じる読者もいるかもしれない。僕も、割と唐突な終わり方に驚いたほうだ。それに、『2001年』でも脇役だったフランク・プールが主人公なのも、今さらという感じもしなくはない。もっとも、私たちから見て科学技術の進みすぎた『3001年』の世界を一緒に見て回るのに、1000年分の浦島太郎のプールほどうってつけの役もいなかったのだが。

 というわけで、「オデッセイ」シリーズの絶品は『2001年宇宙の旅』であり、これはちょっとSFが好きな人なら誰にでも勧められるが、それ以降のシリーズは、あえて勧めるほどでもなく、明らかにSFマニア向けだ。そして、シリーズを通して、未来の宇宙科学技術予測のカタログとしては、これ以上のSF小説はまだないかもしれない。こんなふうに、私の「オデッセイ」シリーズについてのレポートを閉めたい。

「彼らのちっぽけな宇宙はごく若く、その神はまだ幼い。しかし判定を下すには時期が早すぎる。最後の日々、われわれがもどったとき、何を救ったらいいものか考えるとしよう」(P289)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アーサー・C・クラーク『2061年宇宙の旅』

2007-05-05 | 小説
2061年宇宙の旅

早川書房

このアイテムの詳細を見る


「どうだ! わたしはハレー彗星に立っている――これ以上に何を望むことがある! いま隕石がわたしに命中したとしても、一つも不服はいわないぞ!」(『2061年宇宙の旅』P115)

 『2001年宇宙の旅』『2010年宇宙の旅』に続き、『2061年宇宙の旅』を読了。うーむ、前の二作の方が面白かったような。内容以前に、前二作とは訳者が違っているせいか、意味の取りづらい文章がいくつかあって、戸惑うことがあった。

 『2061年宇宙の旅』は、前二作の主人公でもあったヘイウッド・フロイド博士が最新鋭のミューオン駆動型宇宙船ユニバース号で、ハレー彗星に向かう話と、ヘイウッド・フロイド博士の孫のクリス・フロイドの搭乗するユニバース号の同系船ギャラクシー号がとある理由で、『2010年』の事件で着陸を禁止されたエウロパに訪れる話の二つの話がからみあいながら出来ている。作中の技術の発展はすさまじいもので『2010年』では地球圏から木星圏へ向かうのに2年以上の時間を必要としたが、『2061年』の最新鋭宇宙船ではわずか数週間で同じ距離を踏破できる。かように、テクノロジーの進歩を描いたハイテクSFとしての体裁をこのシリーズは保っている。

 しかしまあ、テクノロジーが発展しすぎてしまって、逆におもしろみを失ってしまったような気もしなくはない。というのも、木星まで数年かかるという技術の設定は、困難さに伴うリアリティがあったが、数週間しかかからないとなんだかありがたみが薄れてしまう。端的には、フロンティア・スピリットみたいなものが、シリーズを重ねるにつれ薄れてきているような気がする。それに、『2061年』では、このシリーズのSF設定のミソである、知的生命体を生かしあるいは殺すシステムであるモノリスの神秘性をまとった存在感が薄れてしまって、ここも物足りなさを感じる(考えてみれば、『宇宙の旅』シリーズは、SFながらモノリスを神とした「神話=サーガ」として読める)。

 というわけで、『2001年』『2010年』と比べると、特に勧めるほどのSF小説でもないかなあと思う。今、シリーズの最終巻『3001年終局への旅』を読んでいるが、それが面白かったら、『3001年』を読むための一種のプロセスとして『2061年』もやっぱり読んだほうがいいと勧めることもあるかもしれない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アーサー・C・クラーク『2010年宇宙の旅』

2007-04-25 | 小説
2010年宇宙の旅

早川書房

このアイテムの詳細を見る

「しかし彼が天才だからといって、だれも困るわけではないし、あまりに明白すぎるものに目をつけるには、ときには天才が必要だった」(『2010年宇宙の旅』P315)
「ハルみたいに複雑なシステムにあっては、あらゆる結果を予見することは不可能です」(P332)
「そして銀河系全域にわたって、精神以上に貴重なものを見出すことができなかった彼らは、いたるところで、そのあけぼのを促す事業についた。彼らは星々の畑の農夫となり――種をまき、ときには収穫を得た。/そしてときには冷酷に、助走さえもした」(P379)

 『2001年宇宙の旅』に引き続き、『2010年宇宙の旅』を読了。就活やる気ねえなあと自分に突っ込んでみる。

 『2010年宇宙の旅』は映画『2001年宇宙の旅』の続編である、と断るのは、『2010年』が小説版『2001年』とは設定が異なっているからである。というのは小説『2001年宇宙の旅』ではデイブ・ボーマン艦長らは土星を目指すのだが、映画『2001年宇宙の旅』では木星を目指している。これは、もともとの話のプランでは土星に行かせるつもりだったのだが、スタンリー・キューブリック(クーブリック)が映画を撮った当時の技術では土星の環の満足な映像が撮れなかったので、木星に行くことになったためである(ちなみに、今では木星にもごく薄い環が発見されている)。というわけで、小説『2001年』の単純な続編と思って『2010年』を読むと混乱することになる(ただし、『2061年宇宙の旅』『3001年宇宙の旅』と続くこのシリーズは、執筆当時の科学の知見を積極的に取り入れているので、科学設定が前の話と後の話で食い違っていることがあるらしい)。

 あらすじとしては、『2001年』のヘイウッド・フロイド博士が、ソ連の宇宙船に乗り込んで、ディスカバリー号が浮かび、デイブ・ボーマンが消えた木星圏に行って調査を行う話である。そして、同じく木星圏に向かう中国の宇宙船やスター・チャイルド(どっかで聞いた名だ(笑)。そういや『機動戦士ガンダム』の歌にも『スターチルドレン』というのがあったはずだ)になって地球圏に帰還するデイブ・ボーマン、そしてモノリスの引き起こす脅威の現象(この現象は『銀河旋風ブライガーの「大アトゥーム計画」のもとネタでもあろうが)と、色々と大変なことが起こる。いささか謎多くして終わった感の『2001年』の解決編とも読める内容である。

 SFとして、小説としては実に禁欲的だった『2001年』と比べると、フロイド艦長とソ連人クルーとの掛け合いなど、人間関係がだいぶ描かれるようになったと思う。しかし、科学技術や惑星や衛星についての記述の多かった『2001年』の方が(すでに映画を観てあらすじを知っていたにもかかわらず)興奮が大きかったような気がする。同じ作者の作品に対して言うのも何だが、異星起源の生命体やHALのような人工知能という、宇宙における知性や精神というモチーフの描き方について、2番煎じという印象はある。『2001年』を読んで楽しめた人は是非読むべきだが、『2010年』を単体で読む意味はないと言っていいだろう。
 あとはまあ、暗にだが、クラークは「神」や「UFO」や「宇宙人」という存在/概念についての、ありうる解釈を提示しているのもおもしろい。

 僕が読んでて、クラークがうらやましいのは、当時の最先端の科学技術を参照しつつ、その知見を小説につぎ込んで、実に情報量の多いSF小説を書いているところだろうか。『2001年』の執筆時には、映画の製作を見つつそれをフィードバックして小説を書くというぜいたくな小説作法を取れたとクラーク自身述べているが、『2010年』だって、労力はあろうが、十分ぜいたくな小説作法だと思う。

 というわけで、次回は『2061年宇宙の旅』たぶん、来週か再来週には読み終えるだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アーサー・C・クラーク『決定版 2001年宇宙の旅』

2007-04-13 | 小説
決定版 2001年宇宙の旅

早川書房

このアイテムの詳細を見る

 今さら『決定版 2001年宇宙の旅』なぞを読んでみた。『涼宮ハルヒ』シリーズがバカ売れで、本当のSFとはなんだろうかと(作者がSFだと思って書いているかは知らないが、あれがSFだと勘違いしている読者はいるだろう)まじめに考えてしまったせいである。それに最近、木星とその衛星がマイブームなのだ。Wikipediaで検索して写真などを見てみると、「イオ怖ー」とかなぜか思ってしまう。虚空に浮かぶ異様な物体だからだろうか。

 さて、小説版『2001年宇宙の旅』を読む人のほとんどは、スタンリー・キューブリックの名作映画『2001年宇宙の旅』を観た人だろうと思う。僕もそうだ。この映画の製作の迷走っぷりや小説版との関係については、小説版のまえがきなどを参照していただくとして、やはり小説と映画にはかなりの違いがある。映画は訳の分らんイメージフィルムみたいなものだったが、小説はSF的な考証の説明が充実しておりわかりやすい。また、映画では木星が目的地だったが、小説では土星の衛星が目的地と話の内容にちょっとした違いがある。
 小説自体の完成度だが、世界三大SF作家の一人の代表作だけあって、ごく面白い。なんで、SF設定の解説ばかりやっていて、人間ドラマがほとんどないのに、小説としてこんなに面白いんだ…。読む人間の素質も関係あるのだろうか。とにかく、異星人とのファーストコンタクトを描いたSF作品としては、『コンタクト』をも上回る望外のリアリティを獲得している。

 というわけで、すごく面白かった。惑星や衛星の描写など、夜空を見上げるのとはまったく違う、星の見方を提供していて、それだけでも面白い。願わくば、こういうSFが見直される環境出来て欲しいものだが。
 ちなみに『2010年宇宙の旅』『2061年宇宙の旅』『3001年終局の旅』とシリーズを近いうちに読破していくつもりなので、レビューを期待していただきたい。しかし『カラマーゾフの兄弟』なみに長いな…。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恩田陸『ネクロポリス(上・下)』

2007-04-10 | 小説
ネクロポリス 上

朝日新聞社

このアイテムの詳細を見る
ネクロポリス 下

朝日新聞社

このアイテムの詳細を見る


「世界から死者は消える。これからは、生きている者だけの世界になるのさ」『ネクロポリス(下)』P328

 恩田陸の『ネクロポリス』を読んだ。なんと僕はこの小説に1年以上もかけている(読み始めたのは、去年の正月くらい)。恩田陸は最近の作家では一番好きな人の一人だが、今回は…。

 『ネクロポリス』は、伝奇とファンタジーとホラーとミステリーとSFをみんな一緒くたにつめこんだ、恩田陸の一つの集大成でもあり、より正確な言い方をすれば、小説の書き方がかなり定まってきてしまった恩田氏が自身の小説に新たな展望を示すべく書いた実験作ではないかと思う。舞台は、おそらくイギリスの近くのある島にあるV.ファーという国で、この国は土俗の文化とイギリス文化と日本の文化が混じるという妙な国。さらにこの国の奇妙さは、それだけにとどまらない。なんと、この国では一年のある時期に「お客さん」と呼ばれるその年の死者が霊として帰ってくるアナザーヒルという土地があるのである。そこで、V.ファーの人たちは一年のその時期をアナザーヒルで過ごし、「お客さん」たちと交流するのである。そしてこの年、それまで外部に閉ざされていたV.ファーに、血縁を持つジュンという東大の文化人類学の院生が来、調査をしようとするのだが、その年はとりわけ奇妙な年で…という話。
 正直いって、あまりおもしろくない…。たぶん恩田氏は自分に出来上がってしまった殻を破ろうとしているのだが、うまくいかず、結果迷走に迷走を重ねる出来となっている。おなじようなはっちゃけ具合なら『ロミオとロミオは永遠に』というサブカルチャーの世紀、20世紀を総括するインチキSF小説のほうが面白かった。何せ『ネクロポリス』はいろいろなジャンルを詰め込んだ末、結局どのジャンルにおいても中途半端という出来なのだ。僕がこの小説を読むのに時間がかかったのは、単に面白くなくて、先が気にならなかったというわけなのだ。
 正直、これまでハズレなしだった恩田氏がこの小説を出してしまったことはイタイかもしれない。現に、それまで恩田氏の小説を発売から一週間以内に読んでいた僕は、このところ恩田氏の小説を積読ばかりしている。
 それでも恩田氏の執筆の量はすごいもので、今後出てくるなかにそれなりの当たりはあるのだろう。積読を片つけるのはツライが次に期待したい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森岡浩之『星界の断章Ⅱ』

2007-04-02 | 小説
星界の断章 2 (2)

早川書房

このアイテムの詳細を見る


読んでいてまず思ったのが、『星界の断章Ⅰ』ってこんなに面白かったっけ?というのである。過去ログを検索したところ『星界の断章』について書いたレビューは見当たらなかったので、自分の感想を思い返せなくて残念。まあ、森岡氏の遅筆からして、過去1年以内に同種の短編を出していたことは考えられなかったのだが。

 というわけで、『星界の断章Ⅱ』は、意外なほど面白かった。『断章』というタイトルが示す通りに12の短編が集められた短編集(ちなみに、うち書き下ろしは1掌のみ。他は過去のアニメのフィルムブックなどのおまけとして掲載されていたもの)なのだが、話の構成がうまくて、短編集としての完成度が高い。僕が特に気に入ったのは「嫉妬」「童友」「球技」あたりだろうか。完成度の理由としては、森岡氏独特のユーモアを含んだ独特の文体が、地の文でも会話文でも遺憾なく発揮されている点。正当なSF魂。それに、ちゃんと終わりにオチを持ってくる構成力。このオチのおかげで、話が終わりに近づくと最後の一文が気になって仕方ない。ライトノベル関係の短編て、『スレイヤーズ!』あたりからの伝統で、ナンセンス・ギャグを詰め込めるだけ詰め込んで、最後にオチもあるんだけど、ちょっとグダグダした終わり方、というのが定番なのだが、この『星界の断章』にはそういうラノベくささというのはほとんどないのである(「童友」でエクリュア十翔長が微妙に萌えキャラっぽくなっているが、許容範囲だろう。そういや、『星界の断章Ⅰ』では、アーヴにコミケがあるという話があったと思うし、森岡氏もそういうのは嫌いではないのだと思う)。

 というわけで、『星界の断章』は『星界』シリーズのなかではあまり面白くない、『星界の戦旗Ⅱ・Ⅲ』よりはよっぽどお勧めできる、出色の短編集。各短編の主人公はほとんどが別々の人物なので、キャラクター性は少ないが、まあ『星界』ファンはあまりそういうのを求めていないと思うので、問題なし。また、『星界』ファンでない人でも、設定のとっつきにくさはあるが、人工の星間種族をモチーフにした短編SF小説としてある程度読めるのではないかと思う。個人的には、最近のグダグダしたライトノベルよりは、もっと骨のある本シリーズのような小説がたくさん出てきて欲しいと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋源一郎『虹の彼方に』

2007-02-27 | 小説
 高橋源一郎が初期に書いた、三作目の小説『虹の彼方に』を読んだ。高橋源一郎というのは、一般向けにはそれほど知られていないが(何せ一般向けな小説を書いていない)、文学好きには有名な名物小説家/文芸評論家である。書く小説は、日本の文豪やウルトラマン、あられちゃんなどなど、様々な実在の(?)人物が登場する、引用に満ちたもので、話の筋も割とでたらめ(?)な、わかりにくいポストモダン小説、アヴァンギャルド小説である。何を隠そう、僕はこの作家が好きで、デビュー前に書いた小説をデビュー後に2番目の小説として発表した『ジョン・レノン対火星人』は僕の好きな日本近代文学の5位くらいには入ってきそうな勢いである。ま、実はこの影響を受けて大学の卒業制作の小説を書いたら(まあ、『ジョン・レノン…』ほどわかりにくくないが)、見事に失敗してしまったという、ちょっと僕にとっては恥ずかしい思い出がありもするのだが。

 で『虹の彼方に』だが、引用を駆使して、意味の消去、無意味の羅列によって軽い宙に浮くような楽しさをもたらそうとしている小説に読める(ただし、哀しみは、ある)。まあ、正直「意味に抵抗」しているので、理解はしづらいし解説も書きにくい(解説の矢作俊彦も逃げている)。だから端的に「印象」として感想を書くなら、ちょっと楽しいしちょっと苦しい。また、読む意味がないとは感じない。変な小説。高橋氏自身が最近になって書いた「あとがき」のような文章には、若い高橋氏が「全世界」を書くつもりで書き、失敗すべくして失敗したというような旨が書かれている。これを読むと、なるほど、とちょっとうなずいてしまうところはある。具象的なことを書いて「全世界」を書ききるのは容量などの物理的な制限によって不可能であるが、高橋氏の一見意味不明な文章、つまり「抽象絵画」のような一見意味のない文章ならば、迂回しながら、それでも実はショートカットとして、「全世界」の記述に漸近できるのではないかというような気がする。ふむ、「抽象絵画」のような、とは我ながらうまい言い方のような気がする。あるいは、現実にすでに存在するものから、そのエッセンスを取り出してきて過剰に表現するという意味では、「印象派絵画」に近いかもしれない。実際に高橋氏の小説の雰囲気は「印象派絵画」の明るく軽やかなイメージに近い感じもする。
 「意味」ではなく「印象」、少なくとも僕は高橋氏の小説をある程度までこう定義づけて良いように思う。高橋氏はそんな稀有な小説を描ける作家だが、まあ、一般受けしないのは当然という気はする。何せ、ついてくのがちょっと大変。好きなんだけどなあ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大江健三郎『ピンチランナー調書』

2007-02-03 | 小説
「他人の言葉にちがいなく、それを他人が発した情況も覚えているのに、あれこそは自分の魂の深奥から出た言葉だと感じられる言葉。もっとも言葉がふたりの人間の関係の場に成立する以上、自分の存在こそ、他人の言葉の真の源泉たることを主張しえぬはずはない」(本文P.7)

「おれはいまや着実に、いかなる唐突さの印象もなく、あのリー、リー、リー(筆者注:野球において塁上のランナーにランナーコーチがかける掛け声。リード、リード、リード)の声の真の到来を自覚したよ。内側にはその叫喚の鳴りともよしてるおれの肉体も精神も、すぐさま走り出すことを渇望しており、かつ恐怖しており、しかもなおその恐怖をこえて走り出したいという、もうひとつの渇望に動かされていたんだ」(P.188)

 大江健三郎の『ピンチランナー調書』を読み終えた。長かった。時間がかかった。ちょっと苦しかった。でも面白かった。
 この小説は大江健三郎のライトモチーフ、知的障害をもった子供とその父親、を扱った最後の作品、らしい。ある日、知的障害の子をもった父親同士、片方は元・原発技師、片方は作家が出会い、元・原発技師は作家に自らの体験を手紙で伝え、それを小説にすることを求める。元・原発技師は自分が被爆したいきさつ、そして8歳の子供と38歳の自分がそれぞれ、28歳と18歳に「転換」し、宇宙の意志に突き動かされ、それぞれ原爆を開発する革命党派と反・革命党派の抗争に巻き込まれ、その黒幕でああった自らの「親方(パトロン)」と対決をするという、分けのわからない話。さまざまな騒動に次から次へと巻き込まれる、ほとんど冒険小説まがいの荒唐無稽な喜劇である。今となっては想像も難しい、学生の政治党派同士の抗争が面白く、特に第九章の主人公の森と森・父の演説が面白い。さまざまなものを道化として諧謔する、デカい小説だった。私も、それほど大江健三郎の小説を読んでいるわけではないが、大江健三郎の長編のなかでは比較的読みやすい小説なので、初期の短編の次くらいに大江健三郎の入門としての役をはたす。
 小説についてはこれだけなのだが、巻末の解説がやたらと大々的なことを言っていてちょっとなーと思った。言っていることはもちろん正しいのだろうし、読む人によってはかなり有益な文章になるのだが、せっかく楽しんで読んだ(読みやすい)小説について、堅苦しく解説してあって、小説を読み終わったあとの興を削がれた気がする。
 文学の読み方もいろいろあろうが、とりあえず文学部の学生が読むような体系的で背景知識のある読み方と、僕のような下手の横好きのような読み方の二つがとりあえず挙げられていいと思う(もっとも、最近の文学部学生はろくな読書をしていないのは、もぐりこんだ文学部の授業の雰囲気でわかる。ちなみに、私は文学部の心理学科だったのでちょっと雰囲気が違う)。前者のような読み方をしないことには、自分が今読んでいる小説がどのような先行作品を踏まえ、どのような情勢のなかで書かれたかという、作品についての深い理解が得られない。だから、もちろんこうした読み方は必要である。しかし一方で、文学が書籍としてこれだけ世に広まれば、その小説が読まれる状況も実にさまざまであり、それら無数の読み方を保証するには、そもそもその小説自体に、ある程度の自己完結的な普遍性が必要とされる。それゆえに、小説には実にさまざまな読み方、誤読のされ方がありうるのだが、それらは決して放逐されるようなものではないはずだ。小説の書かれた当時の人々が受け取るものと、現在のわれわれが受け取るものは当然別のものでもあるのだから。
 そういうことで、結局何が言いたいかと言えば、頼むからもっと自由に、静かに小説を読ませてくれということである。文学は、書斎にこもって何度も精読し、批評の一つもしたため、同好の士と語り合うものとかいうもの(偏見?)ではなく、私のように電車の中でとかバイトの休憩時間に気分転換のために、とかいうのも当然、特に今のような世の中ではあっていいはずなのに、気がつくと文学好きの人からも文学嫌いの人からも妙にツツかれる感じなのである(私だけ?)。『ピンチランナー調書』などは、読みやすいし楽しいし不真面目な雰囲気で、特にそういう読み方を含めたキャパシティを広くもっているはずなのに、「文学」という制度や社会的なイメージのせいで、そのキャパシティが妙に狭められている。それは、不本意だ。どうにかしてほしいものである。そこで、SFもミステリーも恋愛小説も文学も、もちろんライトノベルも読む私は、「文学ファン」を名乗りたい。その心は、あくまでミーハーに文学を読むことである。文学は読む、文学ばかり読まない。なんじゃそりゃって感じだが。

 大江健三郎については、僕は『個人的な体験』と『万延元年のフットボール』と初期の短編集のいくつかを読んだので、とりあえずもういいかなと思う。『同時代ゲーム』なんかも気になるが、いろいろと他に読みたい小説もあるし。とりあえずはたまりにたまった恩田陸コレクションをどうにかせねばなぁ。

「森ガアノヨウニ静カナ悲シミノ予感ノ底カラ、ナントカ楽シミノ期待ヲスクアゲテ、ソノ上デチャレンジシヨウトシテイルコト、ソノ冒険ヲ今度コソオレモカレト一緒にヤッテヤル!」(P363)

「しかし森の右手のなんと優しく率直な励ましをあらわしていたことか! それはおれの十八歳の肉体と精神に、あの夢の中でのようなリー、リー、リーの最良の声をつたえた! そしておれは新たに確信をこめて、そのように「転換」している自分と森こそが、決定的な人類のピンチランナーに選ばれた人間だと主張する意志をかためたのさ。おれたちに向けて笑ったり鼻を鳴らしたりしているすべての他者に! どのような資格をわれわれがもっているゆえにそのピンチランナーに選ばれたか、そう自問することはない。もしわれわれがひとよりすぐれた選手であるならば、つとにレギュラー・メムバーとして、人類救出の試合に出ていたはずだから。またいまさらわれわれの能力に自身を喪って、ためらっていてはならない。すでにピンチランナーに選ばれてチャンスの塁上にあるのだから。森とおれとは宇宙的な意志のコーチャーに指示を受けながら、いま走り出すか、一瞬警戒して待機するかに集中していなければならぬ。しかも最後には自分の勘で選択し、そしてわれわれ自身が走るのだ! リー、リー、リー、リー、リー、リー、リー、リー、リー」(P392-393)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大江健三郎『万延元年のフットボール』

2006-12-10 | 小説
「本当の事をいおうか。これは若い詩人の書いた一節なんだよ、あの頃それをつねづね口癖にしていたんだ。おれは、ひとりの人間が、それをいってしまうと、他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか、そのいずれかを選ぶしかない、絶対的に本当の頃を考えてみた。その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ。蜜はそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?」(『万延元年のフットボール』p.258)

 世評では大江健三郎の最高傑作とされる『万延元年のフットボール』(ちなみに、講談社学芸文庫1500)を読んだ。1ヶ月くらいかかったかな、文体が難解でちょっと苦しかった。まさにドストエフスキーのような「近代小説」である。しかし、その迫力といったら、最近の純文学なぞ勝負にならんということかな。なんというか、切実な小説なのだ。
 友人の奇妙な自殺と妻の産んだ障害児に、「期待」の感覚を失ってしまった「僕」が、アメリカから帰ってきた弟の「鷹四」とともに四国の奥地の郷里に戻り、自身が「草の家」と呼ぶ新生活を試みるのだが、鷹四は地元の青年たちとつるみどんどん以上な行動を積み重ねていく…というような話である。話の中で、この土地で行なわれた万延元年の一揆と安保闘争が重ねられたり、時空の歪むような感覚がある。鬱屈とした森に囲まれた村落で、無力な主人公がますます無力さを積み重ねていき、さらに最後にはほんの希望を見出しながらも、やはり無力だという陰湿さ。
 ただ、この小説を読みながら僕が歯がゆいのは、登場人物たちの「苦しみ」(これが作中で繰り返し克明に描かれるのだが)に呼応するものが僕自身のうちに見出せないことである。つまり、僕には登場人物たちの切実さが理解できない。これはおそらくアニメやライトノベルのフレームでばかり喜びや悲しみを学んでしまった僕自身にも問題のあることだろうが、今日のドラマなどを見る限り、世間一般からそうした「切実な苦しみ」の感覚がリアリティとしては喪われてしまっているのではないかと思う。まあ、端的には僕も世間も内面がからっぽになっているということかもしれない(これが世に言う「文学の危機」か?)。こういう点をどういう風にこれから評価していくかは、難しいところだが、少なくとも文学と現実(それは文学になど無関心な現実、ということだが)の解離ってのは激しいものだろう。
 加藤典洋の解説によれば、『万延元年のフットボール』は前期の大江と後期の大江をつなぐ「かすがい」のようなものとされるが、今は文学と現実の「かすがい」こそ必要になっているのだろう。僕自身、少し前までは文学は読めば読むほどよい、と思っていたが、文学なんか読んでる暇はない、というような感じもしてきて、どんなものかなあと。とりあえず、『万延元年のフットボール』はチャレンジする価値のある小説であることは確か!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上春樹はどうか 「芸術/娯楽としての『文学』」

2006-11-16 | 小説
 村上春樹がフランツ・カフカ賞を獲ったそうな。村上春樹は国内のみならず国外でも非常にファンの多い小説家で、筆者も主な作品はほとんど読んでいるほど好きな小説家でもある。しかし、こうした人気の一方で、文学業界的には村上春樹の評価はかなり明確に分かれており、福田和也のような「夏目漱石以来もっとも重要な作家」という批評家がいれば、柄谷行人のような「文学ではなくて物語」の作家と批判的な意見を述べる批評家も多い。というか、「文学」に対してまじめな人ほど村上春樹に対して否定的な人が多いようにさえ思われる(もっとも、多くの「文学」好きは村上春樹に対して、両者のアンビバレンスな評価の両方をもっているような気がするが、少なくとも筆者はそうだ)。僕が大学の学部で卒業指導してもらった教授は、村上春樹についてそれなりに有名な評論を出している教授だったが、僕が酒の席で『アフターダーク』は良いと思うと言ったところ、「村上春樹はいつからあんなにからっぽになったのかな、もともとか」というようなことを(確か)言っていたので、あまり評価はしていないようだった。
 たとえば僕が今読んでいる八柏龍紀の『「感動」禁止!』とう本も、村上春樹の小説には悪意や憎悪とかが存在せず(もっとも『海辺のカフカ』以降の小説では、村上自身もこのことに自覚し、「心の闇」を描くと宣言しているが)、ブランド的な記号の快適な世界ばかり描いていると批判され、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』と同型だとされている。この批判は、村上春樹批判として言われ続けたことであり、陳腐化しているが、確かに今でも通じる批判ではあるだろう。果たして、こうした村上春樹の世界(あまり文学を読んだことがない人が、大学生になっていっちょ本でも読んでみるかと思って手に取ったとたん、ハマってしまう世界!)の評価が文学的にどうなされるのかということを、僕が深く語ることはできないが、少なくとも高度成長期以降の社会や人間の気分に適合した小説だということは確かだろう。それは事後追従的であり、反批判的な気分であるのだが。そのために、柄谷行人のように、近代批判としての文学に賭ける人にとっては、村上春樹は評判が悪いのだ。このことについて、一応僕としての立場を述べとくならば、社会学者のN・ルーマンが「文学が芸術かという論議は昔からなされてきたが、少なくとも今日では文学は娯楽となっている」とかなんとかいうとおり、そんなもんじゃないかなあ、とかそれこそ村上春樹的な気分で思ってしまうのである。しかし、最近読んだドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とか、アゴタ・クリストフの三部作とかを思い出すにつけ、娯楽とは言い切れない独特の魅力をもったものを、文学と呼びたいのではある。ただし、村上春樹をこれらと同列には並べたくないねい。昔「文学」はあった。けれど、少なくとも日本ではそれはすでに死んでしまった、のかもしれない(このあたりの可能性は、私には阿部和重くらいにしか託せそうにない)。
 ただ、イヤなのは、村上春樹の存在が最もノーベル文学賞に近い日本人作家としてばかり扱われしまうことだ。これは、オリンピックやワールドカップという国際的祭典が、ナショナリズムを賭けた代理戦争のような様相を呈していることと相同で、結局「ガイジン」をやっつけるのは楽しいというだけの話になってしまう。できれば、海外の文芸批評家がどのように村上春樹を評価しているのかという批評がもっと日本に入ってくればいいのだが。もっぱら、売れ行きだの、大衆的な人気だのの話ばかりだからなあ(別に、文学に大衆娯楽としての側面がないというわけではないが)。
 ついでに書いちゃうが、今日のバレーボールの放送は酷かった! 試合自体はどっちが勝とうと構いやしないのだが、日本側がホームの特権を乱用で、休憩時間に観客総動員で日本の応援をしたりと大人気ない。しかも、アイドルふたり組みがコメンテーターになっているし、どうみてもアイドルや観客やナショナリズムを利用したパフォーマンスでテレビ局が人気取りをしているようにしか見えない。テレビ局は、人気とそのバロメーターの視聴率にしか興味がないにしても、どこかで反省する必要はあるんではなかろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アゴタ・クリストフ『第三の嘘』

2006-11-14 | 小説
「私は彼女に、自分が書こうとしているのはほんとうにあった話だ、しかしそんな話はあるところまで進むと、事実であるだけに耐えがたくなってしまう、そこで自分は話に変更を加えざるを得ないのだ、と答える。私は彼女に、自分の身の上話を書こうとしているのだが、私にはそれができない、それをするだけの気丈さがない、その話はあまりにも深く私自身を傷つけるのだ、と言う。そんなわけで、私はすべてを美化し、物事を実際にあったとおりにではなく、こうあってほしかったという自分の思いにしたがって描くのだ、云々」(P14)

 アゴタ・クリストフの三部作の最後、『第三の嘘』を読了。シリーズ三作目で『第三の嘘』というのは、前二作の権利にも関わるものなので、かなり挑発的な題名。かっこいい!
 内容だが、前作の『ふたりの証明』の最後を引き継ぐかたちで、もはや作品のどの出来事が本当にあったことなのか、判然としなくなっている。そもそも、双子は実在するのか? 全体に謎めき、時系列が頻繁に入れ替わるので、わかりにくいところもあるが、(シリーズの他の作品を考えず)この作品の内部に書かれていることのみを頼りにするならば、一貫したストーリーとなっているようである。ある意味では、文章を書くことで書き手のアイデンティティを確認していく話なのだが、その話にはいろいろな偏向がかかって、読み手を惑わせてしまう。
 小説としての単純な面白さ、インパクトで言えば『悪童日記』が一番で、ここで読むのをやめてもいいのだが、シリーズのメタフィクション的要素が登場するのは、『ふたりの証拠』のラストなので、微妙なところ。『第三の嘘』は『ふたりの証拠』よりも面白い。読みやすい小説なので、やはりシリーズ三作読んでしまったほうがいいか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アゴタ・クリストフ『ふたりの証拠』

2006-11-09 | 小説
 アゴタ・クリストフの『ふたりの証拠』を読了。面白かったが、シリーズ前作の『悪童日記』と比べると、よく出来た普通の小説(最後にひねりがあるが)、という感じは否めない。今作は、双子のうちの自分の国に居残った方の話であり、文体も三人称である。そして、双子の片割れにせよ、前作のキレた天才ぶりはなりをひそめ、変わってはいるが、それでも普通の、小説の主人公らしい主人公になっている。僕などは、村上春樹らしさほど感じてしまったくらいだ。さらに、文体こそ極めて簡潔であるが、ミラン・クンデラの小説(とその主人公)(こちらは、ものすごく重厚)に似た雰囲気さえ感じたのである。なんというか、主人公が、弱くなった、あるいは悩むようになってしまって、前作の「脱臭」された双子の雰囲気と比べると、(僕としてはあまり評価できない意味で)人間くさくなっているのである。それでも、そんじょそこらの小説よりは、よっぽど面白く読めるのだが、前作の形式のインパクトと双子のキレっぷりの鮮烈さを思い返すと、まあまあ、という感じ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする