「しかし彼が天才だからといって、だれも困るわけではないし、あまりに明白すぎるものに目をつけるには、ときには天才が必要だった」(『2010年宇宙の旅』P315)
「ハルみたいに複雑なシステムにあっては、あらゆる結果を予見することは不可能です」(P332)
「そして銀河系全域にわたって、精神以上に貴重なものを見出すことができなかった彼らは、いたるところで、そのあけぼのを促す事業についた。彼らは星々の畑の農夫となり――種をまき、ときには収穫を得た。/そしてときには冷酷に、助走さえもした」(P379)
『2001年宇宙の旅』に引き続き、『2010年宇宙の旅』を読了。就活やる気ねえなあと自分に突っ込んでみる。
『2010年宇宙の旅』は映画『2001年宇宙の旅』の続編である、と断るのは、『2010年』が小説版『2001年』とは設定が異なっているからである。というのは小説『2001年宇宙の旅』ではデイブ・ボーマン艦長らは土星を目指すのだが、映画『2001年宇宙の旅』では木星を目指している。これは、もともとの話のプランでは土星に行かせるつもりだったのだが、スタンリー・キューブリック(クーブリック)が映画を撮った当時の技術では土星の環の満足な映像が撮れなかったので、木星に行くことになったためである(ちなみに、今では木星にもごく薄い環が発見されている)。というわけで、小説『2001年』の単純な続編と思って『2010年』を読むと混乱することになる(ただし、『2061年宇宙の旅』『3001年宇宙の旅』と続くこのシリーズは、執筆当時の科学の知見を積極的に取り入れているので、科学設定が前の話と後の話で食い違っていることがあるらしい)。
あらすじとしては、『2001年』のヘイウッド・フロイド博士が、ソ連の宇宙船に乗り込んで、ディスカバリー号が浮かび、デイブ・ボーマンが消えた木星圏に行って調査を行う話である。そして、同じく木星圏に向かう中国の宇宙船やスター・チャイルド(どっかで聞いた名だ(笑)。そういや『機動戦士ガンダム』の歌にも『スターチルドレン』というのがあったはずだ)になって地球圏に帰還するデイブ・ボーマン、そしてモノリスの引き起こす脅威の現象(この現象は『銀河旋風ブライガーの「大アトゥーム計画」のもとネタでもあろうが)と、色々と大変なことが起こる。いささか謎多くして終わった感の『2001年』の解決編とも読める内容である。
SFとして、小説としては実に禁欲的だった『2001年』と比べると、フロイド艦長とソ連人クルーとの掛け合いなど、人間関係がだいぶ描かれるようになったと思う。しかし、科学技術や惑星や衛星についての記述の多かった『2001年』の方が(すでに映画を観てあらすじを知っていたにもかかわらず)興奮が大きかったような気がする。同じ作者の作品に対して言うのも何だが、異星起源の生命体やHALのような人工知能という、宇宙における知性や精神というモチーフの描き方について、2番煎じという印象はある。『2001年』を読んで楽しめた人は是非読むべきだが、『2010年』を単体で読む意味はないと言っていいだろう。
あとはまあ、暗にだが、クラークは「神」や「UFO」や「宇宙人」という存在/概念についての、ありうる解釈を提示しているのもおもしろい。
僕が読んでて、クラークがうらやましいのは、当時の最先端の科学技術を参照しつつ、その知見を小説につぎ込んで、実に情報量の多いSF小説を書いているところだろうか。『2001年』の執筆時には、映画の製作を見つつそれをフィードバックして小説を書くというぜいたくな小説作法を取れたとクラーク自身述べているが、『2010年』だって、労力はあろうが、十分ぜいたくな小説作法だと思う。
というわけで、次回は『2061年宇宙の旅』たぶん、来週か再来週には読み終えるだろう。