車輪を再発見する人のブログ

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知識人バイアス

2009年06月19日 | 論理

知識人というのは自分達が大衆よりも優れている、頭がいいと思っている。だから、無知蒙昧な大衆を指導しようといつもする。自分達は頭がいいと考えているので、高度な方法論によって完全な答えが導き出せると知識人は考える傾向がある。そして問題が発生する。

知識人は、素朴な政策よりも複数の要因を考慮した正しい政策を好む。現実の世界においては、相反する複数の価値観の対立や、複数の要因を考慮した答えが必要なことがよくある。だから、ただし答えを出すために、単純な政策ではなく複数の要因をちゃんと考慮した政策を採用する必要があると知識人は大抵考えることになる。

しかし、複数の要因を妥協する言は非常に難しい問題である。知識人は平等は極めて重要な問題であるとひたすら考えてきた。しかし、他方では努力を推奨することも重要であると考えた。その結果、努力していると思われる階層に対しては徹底的な保護と援助を行い、怠惰な階層に対しては徹底的な罰を与えた。結果、労働組合によって守られている労働者に対しては徹底的な補助を行い、最底辺の労働者や途上国に対しては暴力的な収奪を行うことになった。客観的に考えると一見、高所得者をひたすら保護し、低所得者から収奪しているので平等の原理に反しているようにも思えるが、努力をちゃんと考慮した高度な平等の観点からはそれが正しかったために、その政策に反対するものは差別主義者として弾圧された。社会的な影響力が高く差別されているとはとても思えないユダヤ人や在日朝鮮人に対する保護と特権が絶対的な善とされたのも同じ理由からであった。

つまり、知識人にとっては平等は非常に大事なものであるが、努力も大事かも知れないので、努力していると思われる階層に対しては最大限の平等を提供し、努力していないと思われる階層に対しては徹底的に環境を悪化させることによって努力させようとした。しかし、問題はその判断が本当に正しかったのかどうかである。さらに言うと、平等の観点からは所得の低いものほど支援の緊急度と重要度が高いはずである。そのことを考慮せずに知識人が勝手に決めた基準によって本来の原則をほとんど逆とも言える方向に捻じ曲げることが許されるのかという問題もある。

結局のところ、知識人は自分達が優れていると考えていたので、自分達が考えた複数の要因を考慮した高度な方法が優れた結果をもたらすだろうと考えた。知識人にはこのようなバイアスが常にある。しかし、問題は知識人も利害関係者に過ぎないのに、複数の要因を考慮する行為が自分達知識人の利益誘導に過ぎないのかどうかという観点からの分析がなかった。結果として、不思議なことに知識人にとって非常に都合のいい結論が複数の要因を考慮した、絶対的な善に基づく結論として出てくることになった。

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