車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

理論と事実

2009年06月13日 | 論理

理論から導き出される結論と、結果として起こっている客観的な事実が違うことはよくあることだ。そういう場合にどのように対応するかということは非常に重大な問題だ。一つの対応として、理論を信じて理論からすればこうなっていなければならないから、きっと事実が違っているのは他の要因が関与しているせいだと考えるのがある。それに対して、客観的な事実を信じて理論をそのケースにおいて捨てるのも手だ。

しかし、実はこれら以外にもう一つの選択肢がある。理論の前提や論理展開を検証することによって理論の範囲内で部分的な修正によって、客観的な事実と整合的な理論を考えることである。これが出来れば、もうすでに様々な角度から分析してきた理論であるために信頼性があると同時に、客観的な事実とも整合的であるため現実にも対応している。しかし、このような理想的に考えるといいことばかりにも思えるこのような方法が忌避されることはよくある。

例えば、日本の左翼はひたすら平等を主張してきたが、現在の大企業正社員とそれ以外との身分制社会という現実に直面しても、平等の理念を少し修正してすべての労働者に平等な待遇を求めようとはしない。それは、左翼の主要支持母体が労働組合であるために、平等というのは組合員内の平等でなければならず、それが全体としても絶対的な善である平等を意味しなければならないという全体的な真理があるためである。同じように、過去のヨーロッパや現在のアメリカにとっても、それぞれの行動が他の社会を破壊し、民主的な政治の出現を妨げていたとしても、ヨーロッパ人やアメリカ人によって行われている民主制にとっては、それはすべて現地人が悪いのであってヨーロッパとアメリカは常に民主的で善でなければならないので、他の民主主義の選択肢を受け入れることが出来ない。

このような問題は、ヨーロッパにおいてキリスト教教会が信者に聖書を見せることを禁止することによって、自らの権威を維持しようとしたことに代表されるように色々な分野において起こってきていることである。理論や理想を目指そうと上辺ではするが、集団内の政治や私利私欲が絡むことによって、特定の解釈が絶対化され、客観的な事実との妥協が阻止される。このようなことが知識人がひたすら間違い続けている理由の一つである。

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