相変わらず大衆は愚かだというような主張がそこらじゅうで見られる。その隠れた意図は大衆は馬鹿だ、合理的で賢明な知識人が先導しないといけないというものだ。しかし、歴史的に見るとここ二世紀の悲劇の大部分は知識人が愚かな理想や幻想、自己中心的な思想に支配されたことが原因だった。また、マスコミが馬鹿だ、政治家が馬鹿だ、ああこれは愚かな大衆の責任だというのもあるが、それも知識人の大部分が愚かであることを棚に上げて大衆に責任を擦り付けているだけである。
このような主張が行われるのには、大衆に対しては完全無比な合理性が要求されていると言うのがある。選挙であれ、日常の経済行動であれ、完全な合理性が認められなければ非合理的とされ大衆は愚かだとされる。しかし、問題はそのことは大衆が愚かで間違って選択を必ずするということを意味しないし、知識人が完全に合理的で正しい選択をすると言うことも意味しない。つまり、大衆に対して非常に厳しい基準で合理性を判断し、それに達していなければ知識人の愚かさの結果起こった失敗に対しても大衆がすべてを予見して合理的な判断を行わなかったという理由で責任を擦り付けているのである。
行動経済学の大衆行動の非合理性の実験結果も同じような性質を持っている。実験をする側の研究者は問題を完全に知り尽くしているために問題の設定条件での正しい答えを知っている。それに対して、被験者は限定的な情報を与えられるだけである。その条件で実験をした結果、「はい合理的には行動しませんでした」というのが結論である。それぞれの実験自体には意味があるのであるが、問題はそこからは大衆が完全には合理的に行動しないことしか明らかにならないということである。決して大衆が非合理的な行動を取るということではないし、ましてや知識人が合理的な行動を取るということでもない。
だから、愚民思想というのは実のところ根拠のない主張に過ぎないと言っていいだろう。知識人たちは昔から大衆は愚かだといい続けてきたが、現実には知識人の方が愚かであった事例で溢れかえっている。それを、特定の事例を元にに大衆の愚かさを主張し責任を擦り付けようとする非論理的な主張に過ぎない。
大衆が判断を誤る社会というのは、情報の流れが逼塞していたり、独占・寡占されている社会であり、その情報の流れを牛耳っている知識人にこそ罪の大半はある。
また知識人はそれを実際に社会で実践したらどうなるかもわからないような事を平気でバラ撒いて、それが理解されないと、「民度が低い」と言って罵倒している。
幣ブログにて、貴ブログの記事を引用させていただきました。
記事の内容に、その通りだと思いました。