映画マトリックス(1999年)以降、バーチャルリアリティ(仮想現実)という現象が広く意識され始めたが、現在では日常的なものになりつつある。
あの第一作目『マトリックス』の衝撃は、なんだったのだろう・・・日本での禅修行を切り上げ、スイスに渡って8年目の映画公開で、
『仮想現実』という意味深な問題提議は、初心の禅者として立ち向かうべき『公案』の如きものとして捉え、大いに興奮させられたのだ。
今、私の中で『色界、空界』というイメージが少しくクリアーになってみれば、『仮想現実』…という問題提起はタイミングとして絶妙であり
これを『公案』のような『問」として心に温めている人は幸運であると思うようになった。
高校時代の一人旅の図・・・友達が一人もいなかったが、孤独ではなかった。
それより飛ぼうとしても飛べない自分に、何時までかわからない忍耐を強いる天運にいらついていた…かも。
『仮想現実』ということで、ちょっと気がついたことがあった・・・
私たち人間は自分の肉眼で『自分の顔』を一生涯観ることが出来ない・・・という事実。
鏡や映像でかなり精細に『自分の顔』を見ることが出来ようになったと言っても、それはしょせん『虚想の自己』・・・なのである。
どんなに科学が進歩しても、肉眼で自分自身を見ることは出来ないであろう・・・と、考えた時『考えるな、漢字ろ!』の声がして『道』の字が観えた。
『道』の字について、馬骨流解字の解析はもう御披露したであろうか?
であれば、これは新パージョンとなるかもしれないが、『道』の『辶』部分が、『首』を中心にして円を描き、完全『円相』となった時
『本来の自己』を映す『鏡』となる・・・過程を表し、それまでは『首(真我)』を求めて三千里の『道』(己事究明)の旅にでるわけである。
人は、『虚想の自己』に不安を抱くように、『真我』を求めるように、『道』という遺伝子が組み込まれているようだ。
仮想と実相との『差』をとる『道』にこそ『悟り』という『差取り』の境涯があるのだろうか。