拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  野巣足慈意・・・

2021年01月13日 | 写俳一撮

  何人の人がこのタイトルを『ノスタルジー』と読めただろうか・・・

  漢字が輸入された頃の日本人は日本語をこんなふうに漢字を当てはめて使ったそうだが、『鬼滅的』世界になるね、漢字だと。

  ところでスイス、ローザンヌでは今日は午後から雪が降ってきた。ローザンヌで雪が降るのは年平均3〜4回ぐらいだ。

  もちろん山国だから、標高の高い所は雪日がおおい、同じローザンヌでもレマン湖畔が372mとして私が住んでいる街中は495m、上は870mあるから

  冬雪が降る日は標高差によって違い、山側から来る車の頭に雪を乗っけているのをみると、ローザンヌは坂の街なんだなぁ…とあらためて思う。

  きょうは窓から湖の方をみても、灰色一色で近くの雪降りしか見えない。綿雪がシンシンと降っている…

  こんな日は、Googleマップで 日本の地図を広げてノスタルジーに浸る。それが『銭湯』にまでゆくと『野巣足慈意〜』なのだ。

  ああ、銭湯に入って、ヤクルトかなんか飲んで、帰りに美味しいカツ丼なんか食べて・・・などと妄想しながらGoogle Mapを見る…

  銭湯(+カツ丼)は遠くに在りて想うもの・・・

         

            雪の日は 日本の街へ Gマップ 銭湯と打ち 琴の湯のお湯・・・ : 一撮

 

  


 裏を見せ、表を見せて…

2020年12月12日 | 写俳一撮

 昨日、歴史上の人物で私が尊敬する人として5本の指にはいる『良寛』さんの俳句を披露したものの

 ちょっと、品の無い句を紹介してしまって…、良寛を知らない人が読んだら、まずいと反省。

 禅の修行を終わった良寛は、寺にも入らず、ただ巷(ちまた)を彷徨し、説教をするでもなく子供と蹴鞠して遊び

 ひたすら、俳句やら短歌や漢詩を書いて過ごした・・・こうしていつの間にか、当時の人々だけでなく、後々の人々を仏の道に感化していったのだ…

 裏を見せ 表を見せて 散る落ち葉 :良寛

 形見とて なにか残さん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉  :良寛

 世の中に 交わらぬとには あらねども 独り遊びぞ 我は勝れる  :良寛

 我が宿を いづくと問わば 答うべし 天の河原の はしの東と  ;良寛  

 僧はただ 万事はいらず 常不軽 菩薩の行ぞ 殊勝なりける  :良寛  そうそう、この詩こそ良寛の『悟り』であり生き方であったのだ。

      

              

                コロナ禍(火)で 燃えた野望の フォトグラファー 今じゃ撮るフォト 妻ばかりなり… :一撮

              

                   2020年のコロナ禍でのささやかなクリスマスの飾り付けに、子供のように喜ぶ、人…


秋深し

2020年11月11日 | 写俳一撮
昨夜の地元スイスフランス語圏のTVニュースで 新型コロナウイルスに対するワクチン準備が着々と進んでいる。
という、明るい希望をもたせるようなニュースを発表していた。でも、現実には先週木曜11月5日から地元ローザンヌの
カフェ、レストランは今月一杯まで閉鎖になっている。だから、ワクチンができるのなら一日も早く完成してもらいたいものだ。

3年前の2017年の6月で定年退職したので、それまでのように、朝5時40分に起きて6時50分の電車でジュネーブまで通勤
・・・というようなサイクルからは離脱しているからいいものの、働いている人たちは、通勤電車の中でもマスク義務が
あったりして、仕事をするにもさぞかし、いろいろ大変であろう。
90歳になる相方の両親も大変だ、というのも義母が腰骨骨折で、入院中であるが、コロナのタイミングだから、面会にも
行けず、一人で留守をする義父も寂しいだろう・・・なんだかんだで、コロナ状況というのは本当に人類に想像を絶する
試練を与えている。『諸行無常』を身を以て我々は学んでいるのだ。

今朝、相方ニコルと近所のバス停からバスで10分坂を登ったローザンヌで一番高いところソ−バブロンという山というか
丘というか?そこの上の方に大きな池があっていつもカモとか湖の方から飛んでくるカモメなんかが、のんびりしていた。
枯れ葉はすっかり、あざやかな黄色に染まっていた・・・マスク界のことは一時すっかり忘却の『秋』


   秋深し 諸行無常の コロナ舞う それに合わせて Tai-chi舞う俺 ・・・ 一撮 (Tai-chi = 太極拳)

浮浪(はぐれ)雲…

2020年06月04日 | 写俳一撮

漫画家 ジョージ・秋山氏 77歳 死去5月12日・・・という訃報が数日前あった。

サングラスをした秋山氏のお顔を初めて拝見した。

『浮浪雲』は1973年から漫画週刊誌ビッグコミックオリジナルで連載開始し、2017年に終了し、44年の長きに渡って連載が続いたという。

この漫画が開始した時、ボクは21歳で、23歳から約10年間は昼・夕食はほとんど毎日外食生活であったので、食堂の漫画週刊誌でこの『浮浪雲』を漁るように読んだものだ。

今思えば、この漫画によってもボク等は禅の教えを知らぬ間に受けていたようだ。

日本の古本屋で200円で買った『浮浪雲』一巻だけボクの書棚にあるのを何十年かぶりで読んでみたが、禅による真に自由な行き方…が主題になっていることは間違いないと思う。

今まで全く考えもしなかったが、ボクが後に禅にハマった原因の一つには、この漫画の影響なんかも何パーセントかあるのだろうなぁ…。

そう思うと、ジョージ・秋山氏には感謝しかない。

浮浪(はぐれ)の旦那がキセルで煙草をふかし、遠くを観るともなしに眺めている眼差しの向こうでジョージ・秋山氏は微笑んでいるのだろう。

 

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 浮浪雲…に捧げる一撮の写真。ちなみに彼が亡くなった5月12日はボクの誕生日だった。


花粉症2020

2020年05月20日 | 写俳一撮

三日前の5月17日より、ついに来ましたボクの『季節のモノ』・・・花粉症。

コロナのご時世、外出時に顔をやたらに触れることはご法度なのに、必要以上に思わず顔に手がいく…眼がやたらに痒くて痒くてなんだかじっとしていられない、鼻汁がすーっと勝手に出てきてあわててティッシュで鼻をかむ、その最後の鼻出息が快感と不快、背筋がザワザワっとするのが同時に感じるのを毎回確認することが規則であるかのような思いが繰り返し繰り返し終わることなく続く。

5月はボクの誕生月であるし、春たけなわの月であるから本来は大好きな『月』であるのに…。やたらに明るい青空に殺気を覚える「狂の月」となった。

しかし、冷静に考えると、『季』のモノだよなぁ〜。実に律儀にボクの五月に来てくれる。

その最盛期は自分でも信じられないほど『集中』できない軽い『狂の時期』で正直つらいのだが反面、よく来たなぁ〜と、その律儀さを心の片隅で称賛する自分がいる。

いずれにせよ、五月さえ乗り越えれば花粉症なんてわすれてしまうのだから…。

 

 

この苦しみは、毎年『詠う』ことにした。せっかくの男の血の道なのだから…(というと女性に失礼なのかな?)

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写真は2015年の5月22日のものでパジャマ姿でのたうち回った最初の花粉症の苦しみを意識した時のもの…。 


非言語コミュニケーション

2020年04月28日 | 写俳一撮

前回のブログ『マスクの奥の一黙』の続き…

マスクが一黙の象徴とすれば、その先に『非言語コミュニケーション』の世界が広がる…という話。

そもそも、このブログ題名が『拈華微笑』であるが、これって人間の深化の最先端のあり方。

世界的ベストセラー本『サピエンス全史』の中で、ハラリ氏が言っているのは、我々サピエンスが生き残ることが出来たのは『物語る能力』…って云うことであったと思うが、ここに至って宗教の総本山的イスラエルの地でユダヤ人著者であるハラリ氏によって宗教が人間によって物語られた作り物であることを暴露されたのだ。

この本で、彼は故意にかは知らないけれど仏教に関しての考察はされていなかった、どころか次の本『21Lessons』で『サピエンス全史』を書けたのは仏教の瞑想法を実践したおかげである…と告白している。

今から2500年前に、釈迦は『物語能力』では人間は真実(真に幸福)に至ることは出来ないと喝破し、一黙によって至ることが出来る『非言語コミュニケーション能力』の開発と布教にその一生を傾けた…のだと思う。

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  藤と不二(ふじ)を掛けているいるオヤジ・ギャグに微笑みを!


万事休す…

2020年04月07日 | 写俳一撮

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 今朝6時過ぎのレマン湖が左、前方奥低く左右に広がるジュラ山脈の上に輝くお月さま。

 

『万事休す』…まさに万事休すを絵にした様な事態が現実に起こっている、ということを一瞬忘れさすほぼ満月の美しい月が早朝の山の上に輝いていた。

『万事休す』の原因となっている新コロナウイルスのコロナという名の由来が太陽の炎…から来ていることを先日知った。その太陽の光を受けて月が輝いているのだ・・・。

人間は本当の『万事休す』に面した時、ふだん潜在化している叡智を発揮するものであると信じたい。

 

 


諸行無常…

2020年03月25日 | 写俳一撮

諸行無常・・・この言葉を知っている日本人はどれくらいいるだろうか。

というボクも最近になるまで苦手な言葉だった。

禅修行中には一度も聞いたことなかったし、もちろん坊さんから説明も受けたことがなかった。寺では般若心経といくつかの短いお経を一緒に読むだけで、内容については一切説明がなかったが、それが不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏の禅のやり方だ。

だから、自分で禅やら仏教の本を何冊も読んだりした。でも、今から思うと禅の修行があったからこそ、それらの本の内容が少しずつ読み取れるようになったのだと思う。

たまたま今日、動画で実戦を重んじる極真会空手の黒帯少女19歳と別な流派の型だけで黒帯になった23歳の女性のコラボを見たが、腰のキレ、突きのスピードなど明らかに型を一筋に実践してきた女性の方が筋がよかった。この二人の女性は互いに教えあっていたが、数年後には型をしっかりやってきた女性の方が強くなっているとボクは感じた。

・・・・同じ様なことが、禅修行で体得した事と本で解ったつもりでいる事の間にあるのだ。

 

で、諸行無常だがこれが『三法印』といって仏教徒の免許証みたいな法で、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静…の3つ。これなんかも本だけで解ったつもりになったとしても、基礎である禅修行がなければ芯からピンと来なかったのではないだろうか、ボクの場合は。

 

で、このコロナウイルス感染騒動であるが、我々はなんとフラジャイル、Fragileな世界に住んでいるのだろうか!!と世界中の人間が思ったに違いない。

ボクなんかもAI,エーアイ、AI…シンギュラリティー・・・と一人で騒いでいたが、たかがウイルスなんかで世界中の人が死ぬ事になるなんて思いもよらなかった。

『諸行無常』・・・を物凄く実感する日々。

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森羅愛でつつ…

2020年03月14日 | 写俳一撮

当時成人だった人々で精神的に何らかの影響を受けてこれまで生きてきた者にとって忘れられない3・11 が二日前に過ぎた。

当時すでにスイスに在住していた自分には、動画を見て想像するしかない傍観者であった。

大津波と原発事故で未曾有の被害を被った地方と国民に対する援助と復興に向けた国政の信じられない不誠実な施策に、それまでノンポリで通してきた60を迎えた爺の眼が覚め、『在外投票権』を取り寄せてせっせと投票するだけではなく、奇しくも同時期に発達したネットワークをフル利用して政治の動きを凝視するようになった。

そして、あれから9年たった一昨日、WHOはコロナウイルスによる世界的感染に対してパンデミック宣言を発したのだ。ここに来て、今年の夏予定されていた東京オリンピックすら実施が危ぶまれる意見も出始めた。

ボクが注目したいのは 3・11 の9年後の同日に『パンデミック宣言』がなされ、世界中の人々が感染の大津波に恐れをなしている…という図式なのだ。

9年前の『東日本大震災』の大津波には傍観者でいた多くの人類が、今回のコロナ大津波では誰もが当事者であることをま逃れない現実は、感染の問題だけではなく、経済的にも世界的打撃を引き起こしつつあるようだ。

誰もが予想不可能な状態と言うのは、それこそ9年前に日本の政府関係機関が使用していた言葉『想定外』とエクスキューズして予防を怠っていた、『人類の奢り』であることは間違いない。

 

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     ケイタイの短歌メモで発見した去年の自分の短歌より


必撮無眼流 〜 初心

2020年01月02日 | 写俳一撮

昨日元旦と今日の1月2日、ローザンヌは典型的冬天気雲鍋蓋湖水状。

相方の希望で元旦の陽を愛でようと、モントルーから登山電車で世界的に有名なリゾート地グスタードへ行ってきた。

そういえば、去年も行っていた。去年は雪が沢山あったが、今年はほんの少し。

電車で一山越えると、そこは太陽が輝いていた。

去年と同じ暖炉のあるカフェで珈琲+ケーキで計2000円なりで、ウエイター、ウエイトレスが話してくる言葉はみな英語である。流石グスタードお金持ちのリゾート地。元旦でも村の主だったブランド店は全部開店営業中で人出も田舎にしては多かった。

ところで、昨年は退職後2年目でインターネットを見る時間も増えたわけであるが、特にYoutubeでは、本来ならば有料であろう、質の高い講演や座談会、講習会など様々な分野の話をそれも繰り返し何度でも聞ける…という好時代に巡り合わせた幸運に感謝の一年であった。

これは、AIで言うところのディープ・ラーニングというものだろうか、AIとは次元が違うとは言え、我々の脳の活性化に与える影響はいかばかりであろう。

今年はそれこそ、初心に帰って学ぶべきことをしっかり学んでゆきたい。

法門無量誓願学・・・

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高校2年の時の初めての一人旅の時の自撮。将来写真撮家になるとも知らず…

 


お悟り…

2019年12月30日 | 写俳一撮

自分の頭の中では『いつも日本語』で考えているから、常に日本語で話している気になっているが、現実は『独り言』なのだ…。

 

そう思ったのは今日、久しぶりに日本人の友人と話していると、(バカ話であればそうわ思わなかっただろうけど)30年付き合っているけど、初めて宗教とか禅の話になった時に、自分とは違う考え方を示した…のだ。まぁ、当たり前のことなのに、ボクの脳は新鮮な刺激を受けたらしく、反応を示した時に、嗚呼〜やっぱり会話はするもんじゃな〜・・・とつくづく思ったものです。

自分とは違う意見の存在、それは頭ではわかっていてもライブでその存在を知ることはまた違う意味合いを持つことを痛感したように思う。

彼は宗教とかを毛嫌いし、胡散臭いと思っているかと思うと、禅の悟りを一般の人間には想像もできないような、それこそ不立文字をしっているのか、言葉では言い表すことができないもの…と認識というか本で読んで思い込んでいるようであった。

つまり、悟りを自分より数段次元の上のもの…と考えている。

それであれば、いつまでたっても絶対に悟ることはできないだろう…と思うのだ。

釈迦の『悟り』はそれこそ人間にとって第二の認識革命であったのに、『お悟り』と、崇める位置に神棚?なんかに崇め祀っていては決して分かるものではなくなるのは当然なのだ。

 

お悟りは 郷里(さとり)と読んで 覚もの 近いもなにも お前そのもの : 一撮

 

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    べつな友人の赤ちゃん・・・悟りの塊で世界を照らす子


妻の背が…

2019年09月06日 | 写俳一撮

これを書いている時点で 23:00、だからもうすぐ明日だが、9月6日は相方の誕生日。

今日、木曜日はニコルは休みなので去年のようにスイスの首都ベルンへいってイヤリングか何か誕生日プレゼントを買いに行きましょう…と、行ってきた。が、結局何も買わずに帰ってきた。

特にこれといって欲しいものが見つからなかった。

二人とも、やはり歳がいったせいか物欲が低下しているようだ。

ボクに至っては、着るものなんかは全く興味がなく、引っ越し屋をしていたときに着ていたモノを着心地がいいので今でも着ているが、相方がこのまま特に文句も言わなければこのままの状態を継続していくつもりだ。その点相方はまだ身につけるものには興味があるらしく、時折ひとりで街をぶらついてセールだと言っては何かを買っている。

(ちょっと待て…!、そういえば今、新しいカメラを欲しがっていたっけ俺!)

 

彼女はこの誕生日で64歳になり、いよいよ退職年齢ということになり10月で退職する。

そういった意味では今年の誕生日は彼女にとってもボクにとっても特別だ。

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     この日の朝、相方はなにかをスケッチしている図…


花粉症お見舞い

2019年04月29日 | 写俳一撮

先日の一泊二日のイタリアはパビア旅行中、二日目の郊外にある修道院を訪ねたあたりから、なんだかよくクシャミがで洟水がで、それで鼻をかんだら必ずクシャミが二回でることで・・・あゝ、花粉症…っと思った。

花粉症はボクにとって『5月病』ということになっているので、若干早くそれがきてしまったか。

それで、ローザンヌに帰ってから薬を買って飲んだら効果てきめんで、怖いぐらい。

一応、漢方を勉強した者としては、症状がでるにはそれなりの理由があり、それを一方的に抑える…というのは良くない、という考えも加味して一錠の半分を摂取することにした。だいたい外人の体はでかいのだし。

花粉で集中力が阻害されるほどの症状をだし、薬でそれをストップする薬物成分が身の回りにあるということは、考えてみると案外怖ろしいことだと思う。

人の心の持ちようを、精神のスピリットレベルだけで抑制できないものであるということが可能であれば、精神の安定した安楽を持ち続けることは並大抵のことではないのが当たり前なのかもしれない…と、4,5年前に花粉症になってから毎年この季節になるとこの同じテーマに思いが及ぶのだ。ほんのちょっとのケミカル(ホルモン分泌)加減で心が左右される人間の儚さ脆さも、十分自覚することも対策としてはアリエルのだろう。

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4,5年前に花粉症になった時撮った写真で、その時も花粉症を短歌で詠んでみたが、同じ写真でほんのちょっと心変を加えた短歌にしてみた図(五月生まれの自分がその五月の花粉なんぞのために、意識を朦朧と過ごしてたまるか!の意気込みを示したもの)

 


サマータイムで花見かな

2019年04月01日 | 写俳一撮

今朝、恒例の我が家の全時計一時間進め作業。今日よりサマータイムが始まった!

来瑞したばかりの頃、時計の針を一時間進めるのか遅らすのかよくわからなくて頭を悩ませたものだが、今はスマホやPCが自動的に時間を調整してくれているので楽だ。

我が家には11個ほど大小の時計があるが、2年前に退職したので以前ほど時間に神経質ではない…というか、結構ルーズを楽しんでいる。

 

今日は、タンデム(日仏語交流会)のメンバーによる『花見』が行われた。

花見というと、日本での花見の思い出があまりない…

道産子でしかも北見という北東の田舎では、桜は5月遅くに遠くの山の所々にチラチラと見かける程度で、花見などという発想すらわかない土地柄であった。

だから19歳のときに、神戸の王子動物園で目のさめるような桜を観た時、『日本の桜』という意味がよくわかったものだ。その後、花見をしたのかしなかったのか?あまり記憶がないが、東京に住んでいた時、井の頭公園や他の公園で花見をしている人々をよく見かけたことはよく覚えている。

だから、今日の『花見』というのはもしかしたら初めてなのかもしれない…。といってもスイス人が主催する花見には、内心期待したい『団子類』『すし詰め弁当』『お稲荷さん』『おはぎ類』等など・・・連想するわけだが、スイスの花見でそれは望みすぎ!

ということで、その手の期待は一切あきらめていたが、案の定、ポテトチップスやらビスケット類、それにペットボトルのジュース類、それと極めつけは20歳ぐらいの日本大好きギャルソンの手作り感満載の無骨なおにぎり…には泣けた。冷凍庫から出してきたばかりなのかまだ半冷凍のままで、コチコチなのがカワイイ!あまりにでかいので日本女性と半分こして食したのであるが、味が何もなく、おにぎり型のプラスチックに御飯を思いっ切り詰めたようで密度が尋常でなく、おにぎりからはみ出るようにキノコをどうゆう味付けをしたのかしらないが、黄緑色した具が散見し、ただ帯状の海苔が巻いてあることで、かろうじておにぎりと認識できる代物であった。それでも皆で分け合って食べましょう…という花見精神はしっかり見て取れ、それが嬉しい。

20人ほど集まったが、大学生が半数以上いて、日本からの留学生が男女2人ずつ4人いた。そのうちの一人女性が初めて作ったという、ミニどら焼きを持ってきてくれた。

それと中年の日本人女性が満開の桜の木の下で、抹茶を立ててくれたのは、一服の和風を吹かせて、絵になっていた。

場所はオリンピック博物館そばの一角に咲いている7本の桜があるところで、19度までに上がった気温の快晴の空の下、満開の桜のここだけは日本そのものの気がした。

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   ちょっと数年前のパジャマ姿の自分を貼って遊んでみた花見図

場所はまさにここで、午後も深まると散歩に来た人々で特にアジア人たちが盛んに桜の枝に手をかけて引っ張ってインスタグラム用写真を撮ったり、わざと桜を散らして写真を撮って、我が日本人女性の顰蹙を買っていた…

ところで明日から『元号』が変わるそうだが、ネットでは安倍の『安』が入るのでは…という懸念をしているようであるが、どういうことになるのだろうか??

とにかく、ボクの眼からは悪くなる一方の日本政治、経済、それと対象的な大半の国民の無関心ぶりに、今年の大切な選挙はどのような結果をもたらすのであろうか…などと考えると桜の花に浮かれている場合か〜とは正直思う。

 

 

 


侘び寂びの景色

2018年12月31日 | 写俳一撮

あ〜ぁ、今年もついに最後の一日になったか…

今年一年を振り返ると、やはり2017年6月で退職してから後の人生ということで否応なく章を改めることになり多少の戸惑いもあったが、徐々にむかし自分が目指していた道へと自然と立ち戻る形に落ち着いてきた気がする。

それは何かというと、ボクを欧米に突き動かした本当の理由というのは実は『禅』のミッション…ではなかったかと思うのだ。

それってボク自身が考えても『だいそれた志(こころざし)』であり、禅僧でもなく、底抜けの悟りを開いたわけでもないただの凡人の自分がする仕事ではないと解っていながらも、たとえ微力でも自分ができる形で何か出来はしまいか???(鈴木大拙の影響をまともに受けたオッチョコチョイの自分がいる)…と、中国気功体操『練功十八法』をたずさえて渡欧したが、肝心な禅にしても、語学にしても、夫婦の生計の面でも、なにより人として、とてもとても人前に立つことなど無理…と渡欧直後にそれこそすぐ悟った自分は『禅』のゼの字も発せずに30年の歳月が流れた。

その間、ガイド13年、引っ越し屋15年の社会生活の中で円覚寺で自分の中に蒔いた『悟りの種』を意識的、無意識的に育んで来たのだと思う。

片足を棺桶に突っ込んでいる年齢に至り、いよいよ何かの形で自分の言葉を発しなければ、見渡す限りでは誰一人としてその任を果たす者のいないこの地で、自分が悔いを残すばかりでなく、菩薩の誓願(衆生無辺誓願度)をないがしろにしてしまうのでは・・・と近年強く思い至たった。

これまで、なんだかんだと意気地がない自分に言い訳を云って避けてきたが、いよいよ正念場に自分自身を立たせなければ…との覚悟を新たに持って来たるべき新年を迎えようと思う。

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   2019年、皆様にとって素晴らしい年でありますように!