拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

   『虚想(バーチャル)自己』と道

2023年10月25日 | 東洋自分なり研究所

  映画マトリックス(1999年)以降、バーチャルリアリティ(仮想現実)という現象が広く意識され始めたが、現在では日常的なものになりつつある。

 

  あの第一作目『マトリックス』の衝撃は、なんだったのだろう・・・日本での禅修行を切り上げ、スイスに渡って8年目の映画公開で、

  『仮想現実』という意味深な問題提議は、初心の禅者として立ち向かうべき『公案』の如きものとして捉え、大いに興奮させられたのだ。

  今、私の中で『色界、空界』というイメージが少しくクリアーになってみれば、『仮想現実』…という問題提起はタイミングとして絶妙であり

  これを『公案』のような『問」として心に温めている人は幸運であると思うようになった。

              

                 高校時代の一人旅の図・・・友達が一人もいなかったが、孤独ではなかった。

                  それより飛ぼうとしても飛べない自分に、何時までかわからない忍耐を強いる天運にいらついていた…かも。

  

  『仮想現実』ということで、ちょっと気がついたことがあった・・・

  私たち人間は自分の肉眼で『自分の顔』を一生涯観ることが出来ない・・・という事実。

  鏡や映像でかなり精細に『自分の顔』を見ることが出来ようになったと言っても、それはしょせん『虚想の自己』・・・なのである。

 

  どんなに科学が進歩しても、肉眼で自分自身を見ることは出来ないであろう・・・と、考えた時『考えるな、漢字ろ!』の声がして『道』の字が観えた。

               

  『道』の字について、馬骨流解字の解析はもう御披露したであろうか?

  であれば、これは新パージョンとなるかもしれないが、『道』の『辶』部分が、『首』を中心にして円を描き、完全『円相』となった時

  『本来の自己』を映す『鏡』となる・・・過程を表し、それまでは『首(真我)』を求めて三千里の『道』(己事究明)の旅にでるわけである。

 

  人は、『虚想の自己』に不安を抱くように、『真我』を求めるように、『道』という遺伝子が組み込まれているようだ。

  仮想と実相との『差』をとる『道』にこそ『悟り』という『差取り』の境涯があるのだろうか。

  



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