拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  れんほ〜!

2024年07月05日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

                

 

  気ぜわしい・・・。

  この半年いろいろな事があって、天気のことも気にせずにいたが、確かにパットしない天気が続いていたのに、今日は一転この写真のような快晴。

  

  散歩から帰宅して12時(スイス時間)。

  Youtubeでは都知事選の日本時間19時、蒲田でのライブ放送・・・蓮舫候補の応援演説(立憲小川氏、共産小池氏)につづき

  蓮舫候補自身の熱い演説がはじまった。

  スイスの天気と同じで、日本の政治もパットしない出来事ばかりで、ニュースを聞くたびに気落ちする毎日であったが

  この都知事選に蓮舫氏が立候補し、日を追うごとに『もしや?・・・』という一抹の希望が見えてくる気がして・・・。

 

          

 

  日本からみればほぼ地球の裏側、のスイスにいながらライブで盛り上がる都知事選挙街宣演説を分かち合える不思議に歓喜し

  これまでの政治的腐臭を払拭して、清浄な政治の風がせめて東京に吹きまくることを願う。


  義父の葬儀

2024年07月04日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  一昨日、7月2日義父の2回目の葬儀が無事終わった。

 

  6月17日に、わけあって相方ニコルがひとり取り仕切った、親族、親しい友人だけで行った葬式。

  相方にとっては大変な心労であったが、父への個人的思いを十分に込めることができ、友人等と気持ちを分かつ親密な葬儀であった。

 

  義父(93歳)の死は、地元の新聞などに取り上げられ、どの新聞も『黄金の歌声の終焉・・・』的な書き出しで、義父のオペラ歌手としての

  功績を称えるもので、読めば読むほど私の知らない義父の一面が語られていた。

 

  私が彼と出会った頃は、オペラ歌手としての華々しいキャリアに終止符を打ち、一歌唱指導者として音楽学校に勤めていた頃で

  私も自分の事で忙しく、まして音楽(クラッシック)にはまったく興味がなかったこともあって、彼が築いたオペラ界での功績など知る由もなく

  また相方も断片的に、少女時期を父の公演に伴って各都市を旅した・・・思い出話話をするぐらいであったから、今回新聞の記事を読むことで

  彼が社会に与えていた影響の大きかった事を知り、改めて義父とのいろいろな思い出に思いを馳せてみた。

 

  一昨日の二度目の葬儀は、若きマリンバ奏者2人組の深淵な演奏が教会内に響いたが、義父が生前深交のあった彼らに自分の葬儀の際に演奏することを依頼、

  それを実行、彼らと義父とのエピソードでは、晩年にあってなお音楽の本質について情熱的に語り合う姿が語られた。

 

  最期に詩人である相方の姉による『父に捧げる詩』が朗読され、参加するもの一様に義父の面影を偲び、静かで厳かな葬儀を終えた。

 

   

 

  4年前、音楽専用TVチャンネルにてたまたま見かけた、カラヤン指揮による(左図)、交響曲? にて唱歌する義父(4人並ぶ右端)の姿に見入る相方図

  


  Formidable ! (フォーミダブル)

2024年06月12日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  昨日、6月11日 義父は娘である相方の腕の中で、静かに息を引き取った・・・。

  直後に私は、テラスに通じる大きなガラス戸を少し引き開けると、昼の12時を告げる村の教会の鐘が遠くから聞こえてきた。

 

  私には、育ての親と生みの親それぞれ4人の親がいたわけだが、その誰一人として『親の死に目』を眼にした事がなく

  これまでずーっと、『親不孝』のレッテルを自分に貼り付けてきたが、最期の最期・・・私と相方とで『父の死に目』に立ち会う事ができた。

  2週間ほど前、義父は室内で転倒してから様態が変わり、食事もだんだん摂らなくなり、93歳の寿命も尽きる予感はあった…。

  だから相方はしばしばホームに父の様子を観に行っていたわけだが、昨日は私も同行し、一時間ばかりの間に文字通り『息を引き取った』のだ。

 

  今思うと『義父』は私にとって、私とは真反対、ある意味『西洋』の典型のような人だったように思う。

  彼が50歳のとき、突然自分で幕を下ろした著名な『オペラ歌手』という経歴・・・からしても、娘婿、義父という間柄で垣間見た日常の

  彼の人柄は喜怒哀楽を隠せない『我思う、ゆえに我あり・・・』を生きて来た、西欧の中の『西欧』のような人であったように思う。

 

  彼と会う時がいつも、私のバカンス中であったり、クリスマスや誕生日・・・ということもあったせいか、彼との思い出は『Formidable』という

  彼の口癖と共にあった気がする。

  私は、『Formidable(素晴らしいね)』・・・というフランス語を彼から学んだ。

  義父は、それまでの私の『親不孝ぶり』をどれだけ知っていたか?どうか知らないが、自分の『親の死に目』に立ち会わせることで

  最期の『Formidable!』を身を以て東洋人の娘婿に示してくれたのだ。

 

               

               同日の夜、私達のアパートのテラスから見事な虹が観えて、私は『Formidable!』と義父に応えた。 

 

  


  花粉賞

2024年05月12日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  12年前だから60歳ぐらいの時から花粉症に罹り、以来毎年のごとくこの季節になるとブログに愚痴をこぼすようになったが

  それにとどまらず、何時の日か短歌でその苦しい心境を短歌に詠むようになっていた。→   2016年5月30日〜五月とは・・・

 

  それまで五月は私の生まれ月であり、明るい陽ざしに若葉の緑が眩しい、私にとって誇らしい月であったのに

  五月の皐月(さつき)というロマンチックな語感は、むしろ『殺気』の響きをもって私の神経を逆撫でる季節になってしまい

  自分にとって『花粉症』は季語なんていう生易しいものではなく、『狂気語』と言う言葉こそがふさわしい呪われた季節であった。(大袈裟)

 

  しかし、今日私は72回目の誕生日を迎え、あらためて私の生まれ月、5月と『花粉症』の事を考えると、また別な観方もあるようにも思えてくる。

  『花粉症』以前は、何気なく春を迎え、何気なく過ぎ去っていた春というものが、『花粉症』以後『そうは問屋は卸しませんよ』とばかり

  克明な爪痕を残す形で過ごす春の1,2ヶ月とでは、その重みというか、深みというか、このあと何度春を迎えるのかわからない年齢になれば

  あんがいそれもまた『良し…』と受け入れ、たっぷり『春』を味わうくらいな気持ちでいれば、それまでの『花粉症』が『花粉賞』にまで昇華するというものよ。

 

              

               『 花粉賞 春と俺との 息吹きあい 五月生まれの 誕生祝えば  』 一撮 (花粉症で喘息になるとは…)

  

 

 

 

 


  ガラスの棲家

2024年04月26日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  一昨日の木曜日、我がアパートの居間のヒビのはいった大ガラス(三層)が約2年半ぶりに交換された。(やっと・・・)

  本来、水曜日の予定であったが強風のため木曜日に延期されたのだ。

  我がアパート住民のネットワーク情報によると、ガラスにヒビが入ったのは我々のアパートだけではなく、19件もあったそうだ。(未確認)

 

  その中で、我が家は入居後、わずか2ヶ月目で、フランス語の『ショック・テルミック(熱衝撃)』で三層のガラスの真ん中のガラスに大きなヒビが入り

  アパート側に連絡すると担当者が来て、『これはオタク様の責任で、交換するのに百万円必要です!』・・・と言われ、それこそ『ショック&熱』で

  我々は2日間ほど寝込む寸前であった。そんな不条理な!? 我々が何かをガラスにぶっつけて破損したならまだしも、理由のわからないことで

  三層のガラスの真ん中だけが割れた・・・。それに責任を持て、と言われても? だったらガラス張りのアパートにするなよ。・・・

  というようなことで、相方が根気よく保険会社に交渉した結果、保険で支払われることになった。 しかし、交換実行するのに2年半かかったのだ。

 

  アパート周辺の道路をぐるりとフェンスで取り囲み、大型クレーンを配してのガラス交換作業はかなり大掛かり、3日間の日程で行われた。

  それはそうだ、ガラスに問題があったのは我々の家だけではなかったのだから。

 

             バルコニーの物を全部キッチン部に移動、居間のソファも移動。

 

  5人の作業員が来て、入口からガラス前の居間を養生し、トランシーバーでクレーン運転者と連絡を取りながら4階のアパートに誘導、搬出、搬入

  一枚250kgのガラスを手際よく交換してくれた。 彼等はあまり聞いたことのない言葉で会話をしていたので、そのうちの一人に聞いてみると

  彼自身は南米出身、その他スペイン人、フランス人、ポルトガル人のメンバーということは、わかったが言葉が何だったのか聞けなかった。

 

  私達は、ガラスのヒビについては室内温度にとくに影響もないので、べつにこのままでも問題なかったが、まぁ新しくなるのであれば気分もいい。

  それに、私が気にしていた相方が倒れた際の救急車代、腰が痛くて使えなかった車椅子でのエレベーター降下が不可で、4階から担架で降りる際に

  追加要請した消防隊員4名(!)の費用のことを考えると、貧乏性の私は落ち着かなかったが、約80%は保険が効くという事が最近明らかになり

  それも一件落着・・・と、なんだかんだのゴタゴタが、春の三寒四温のように徐々に徐々に緩和されようとしている今日此頃である。

  (目下の問題は花粉症で、来月まで予断を許さない状況ではあるが・・・。)

  

 

  

  

  


  睡魔の春

2024年04月15日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  今年2024年、ヨーロッパは暖冬で(体感的に)、いつもより一ヶ月早く春の花が咲いたようだ。

 

  2月下旬の相方の入院にともなって、私も風邪で3週間以上体調をくずし、ようやっと4週目で週一のバトミントンに復帰したが

  復帰2週目のバトミントンの後、咳が出、特に就寝時の咳が止まらず昨年花粉症による喘息とまったく同じ症状であることから

  風邪をぶり返したのではなく、いつもより一ヶ月早い花粉症による喘息であることがわかった。

 

  医者の処方した喘息の薬のおかげで、咳は止まったが、6月初旬頃まで続く花粉の為、抗ヒスタミン系の薬を摂取するせいか

  普段からボーッとしている所に、薬の副作用で脳の活動にブレーキがかかり、睡魔がより一層深まっているようなのだ。

  『春眠暁を覚えず・・・』というが、私の場合一週間以上、夜の喘息で熟睡できなかったこともあり昼間に眠気を覚えたが

  今は春の陽気に副作用が加わって睡魔に襲われ続けている感じだが、もしかしたら『加齢』ということも、『老衰』による『永眠』を導く

  一つの要因ではないだろうか・・・と私は信じ始めていて、事実であれば朗報であろうか。(あまりにも眠たくて何もかも面倒になり、永眠にいたる)

 

  そんな昨日、数少ない友人の一人、地元青い目の禅僧、『道海』さんに招かれて彼のアパートのテラスで夕食をごちそうになった。

 

           

  彼のアパートのテラスから見える風景は13世紀のカテドラルの塔(右側)、現在、州庁として機能するChâteau St-Maire(左)があって

  いかにも西欧っていう趣。写真の右側にはアルプスやレマン湖が広がって美しい景色がみえる。

 

  年に数回、禅尼僧の映愁さんも加わり、我々と4人で持ち回りで食事会をするが、何の屈託もない彼等との世間話は楽しい。

 

           

  長年、フランス郊外にある禅寺で典座として鍛えてきた道海さんの料理の腕前を発揮した料理に舌鼓を打ち、

  新緑をやどした木々の間を美しい鳥が行き交うさまを眺めつつ・・・春を満喫。 

  そこで一句   『 花粉舞う 意識飛び散る 春が来て 睡魔の中の 一服美味し 』 馬骨


  年金動画の『爺・婆婆』たち

2024年03月26日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  最近どっぷりハマっているYoutube動画・・・『年金トーク』をはじめ何人かのYoutuberによる年金受給者へのインタビュー動画である。

 

  年金受給者を対象にしているので、60歳〜90歳代まで、街頭での短時間のインタビューは、私の言うところの『人生の還暦スキャン』で

  様々な生き様を垣間見ることが出来る、非常に興味深い動画だ。

  特に私のように人生の半分を海外在住だと、同胞の同世代の人々がどのような人生を送ってきたのか、知る機会が無かった・・・という点からして

  同じ昭和という時代を、私とはまた別な生き方で生きてきた人々の証言は、自分が生きてきた時代をより立体的に検証する機会ともなる気がする。

 

  質問内容はどのYoutuberもほぼ同じで、年齢・年金受給開始時期・受給額・持ち家かどうか・家族構成・人生で一番辛かったこと、嬉しかった事

  職業は何をしていたか・政治に関して一言・若者へのメッセージ・・・等となっている。

 

  さすが人生の荒波を生き延びた爺・婆婆たち、静かな佇(たたず)まいの中に、個性を”きらり”と時折みせながら、日本人の特性である謙虚さは忘れていない。

  七十、八十を越えてもいまだ現役で働いているという兵(つわもの)も何人かいたが、大半は年金受給して十何年か経ている老人達は現役を退いたゆえの

  余裕・・・(現役時代の様々なしがらみから開放された)を感じさせる。なかには生活保護を受けている人もいたがそれなりに幸福そうに見えたが、

  楽観的な人生観を培ってきたその老人の生き様であったか。

 

  インタビューに答た人々の2/3が『持ち家』であったことに、私は驚いたが、思えば我々の世代の『男の夢』、といえば『一国一城の主』になること

  つまり、家を持つことであっで、その為に必死で働く昭和の人々であったように思う。私のように『持ち家』に無関心であるほうが、当時としては異端であっただろうか。

  それともう一つ驚いたことには、それまで謙虚な感じでブツブツインタビューに答えていた爺さん等が、『政治に一言』を問われると、声の調子を一段上げて

  現政権を糾弾する気骨を見せたことだ。中には『安倍』という名を何度も呼び上げて『ひどかった・・・』とインタビューに答たのには、私の溜飲を下げてくれた。

  また、『若者へのメッセージ』ということで、『政治にもっと関心をもって選挙に行ってほしい・・・』と、若者へのエールとして訴えていた爺・婆婆の姿にも感動。

 

  年金受給者に対してインタビューするというYoutubeは、なかなか良い発想。 時間に余裕があって、話を聞いてもらえる喜びを得る機会を与える

  一石二鳥のこの企画は、観る者もいろいろ勉強になる。 私のお気に入りインタビュアーは、人情があって気の利く『年金トーク』の梅子さん。

 

               

  写真は、私が65歳で退職した翌年2018年、Facebookやインスタグラムで地元ローザンヌの老若男女にインタビュー記事をアップ

  する『Humans of My Lausanne』のインタビュアーの女性にインタビューされた時のもの。娑婆(しゃば)のしがらみから開放された馬骨の図


  サギが飛び交うネットワールド

2024年03月19日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  よく考えてみると、よくもまあそれなりにコンピューターを使いこなしている(?)ものだ・・・と思う今日此の頃。

 

  私より3歳上の75歳の友人(日本人)は、暇な時間を確保できる晩年を送っていたせいか、爺にしては比較的PCに強く

  もう10年以上前になるだろうか? 私に『VPN』なるものを勧めてくれ、そのおかげもあってAmazonプライムやら楽天マガジンを購読する

  ことが出来ている。 でなければ、『あなたのお住いになっている地域ではご利用出来ません』・・・と表示され、スイス在住の私は日本発信の

  ネットワークを利用できないことになる。

 

  この『VPN』に接続するためにはインターリンク社のサイトから有料の申し込み手続きをするわけだが、コンピューターに関する知識ゼロの

  私にとっては案外その手続そのものが、非常にストレスのかかる事であったが、まぁなんとかなった。

  

  そもそも私の場合、写真現像を液体の銀塩プリントからデジタルに移行した、つまりPhotoshopを利用せざるをえなかった=コンピューター・・・となった。

 

  それにしても、PCの知識ゼロ、指導者ゼロ・・・の状態からそれこそセルフラーニングということであるが、途中で相方ニコルが仕事で使うことが多くなり

  一時失業した際に、コンピューター教室を無料で受講することができたりして、私より少しはPCに強くなったという事情も功を奏したかもしれない。

  それと、私のバトミントンコーチだったマレーシア人C君の存在は我々の『IT開拓』の面で多大なる貢献をし、刺激し続けてくれたことも特記すべきであろう。

 

  まぁ、そんなこんなで、なんとかブログを書くくらいのレベルでPCは使いこなしている状態ということなのだが、

  先日、例のPCに強い先輩爺が、『俺達、VPNを使用しているから、日本のTV番組がただで見ることができるアプリ(TVer)を利用したら・・・』という

  甘いささやきで、誘うものだから、私もすっかり妄想に囚われ、早速タブレットで『TVer』なるアプリを探していると、それらしきサイトが出現して

  『クレジットカードによる手続きをして下さい、ただし料金はかかりません・・・』的な表示がされていたので、まぁ信用を示す意味でクレジットカードの

  手続きが必要なのであろう・・・と番号やら記入して手続き完了してみると、どうも『TVer』とは関係ないホームページでそこで提示されている映画などは

  古臭い三流映画ばかりの案内で、おかしいなぁ・・・と、よく案内を読むと、『5日間の無料お試しが済むと、月額7450円が自動的にクレジットから引落されます』

  と書いてあった。 ・・・今や遅し、『騙された!』のだ。

 

  その名も『Streamyas』というサイト、画面のどこをみても連絡先が表示されていなく、頭真っ白な状態で途方に暮れた・・・。

  焦ってしまい、クレジットカードの即時停止手続きをしようか…と考えたが、まぁちょっとこの名前『Streamyas』でググってみだらどうか・・・と

  試してみると、『詐欺』という文字が踊り、脱会、退会の仕方なる項目を発見してその中からさらに参考になりそうなURLをクリックすると

  より具体的なアドバイスが提示されていた。手続きは英語対応なので、コピーとペーストを繰り返してなんとかそれらしい退会願いなる形式が出来上がり

  メールで発送、(夜中0時近く)・・・翌朝受信メールに退会完了のメールが届いていた!!!

  爺をこのようにおとしめる詐欺サイトに、怒り心頭となり、これはブログに書かなくては・・・と思った次第。

  なんとかかんとか対応が出来たからよかったものの、私よりPCに弱い爺婆婆であれば、であればどうなったであろうかと老婆心が起こったのだ。

  以後、安易にクレジットカード番号を求めてくるサイトには十分気をつけることにし、皆さんも気を付けて下さい・・・の巻

 

            

               これは、だいぶ以前『飛ぶ鷺』を短歌で詠ったもの・・・

  今回の一件をちょっと詠んでみた・・・ 『 詐欺サイト ハマってもがく 夜が明けて 今朝の湖畔の 鷺の静けさ 』 一撮

 


  鎮魂の一票

2024年03月12日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  昨日、3月11日は東北大震災13年目を迎えた。

  大震災と大津波を起こした2011年という年は、海外在住の私にとって感慨深いものがあり、その思いは時間の経過に伴い先鋭化する。

 

  2011年6月に私は最初のスマートフォンを手にしたが、そこから絶えず入手する日本の情報の量と質だけをみても、それ以前とは雲泥の差があり

  以前であれば、震災の程度もその後の復興具合も知る手立てがなく、原発が如何に危険な発電方法であるか…などといった事も知らずに済ましていただろう。

 

  地震大国の日本に2011年の時点で原子力発電所が54基が稼働していた・・・などという事実も徐々に知ることとなり、裏で企業と政治家の原発利権か絡んでいる事も知った。

  何より原発事故の恐ろしさなど、原発の専門家やそれを専門とする大学教授等の話もインターネットを通して学ぶにつれ、政治に対する不信感を新たにし

  それまでノンポリ(政治無関心)を自認して一度たりとも選挙に投票しなかった私が、60歳にして、初めて投票(在外投票)することになったのだ。

 

  情報通信技術が著しく発展したからと言って、海外在住者による(在外)投票率が著しく高まったかどうか? 私はしらないが、

  知人や友人が投票に行かない・・・という話を聞くにつけ、私の落胆は大きい。

  日本の政治の腐敗はもう隠しようのないところまで来ている事は明らかで、それによって苦しい生活を強いられている大勢の同胞を救うことが出来る

  かもしれない可能性に、私のたかが一票、されど一票・・・。

  これまでそういった思いに到らず、ただ政治家等の金で薄汚れたような世界に関わりたくない、という利己的で幼稚な判断から投票しなかった自己を反省。

  60歳になるまで、ノンポリだったお前のどの口が言うか・・・という批判は真摯に受け止めるのみ。

 

  3・11の大震災、大津波は沢山の犠牲者を出した。 同時に日本の政治・経済のメッキがこれまた鮮やかに剥がれた象徴的出来事でもあったと思う。

  犠牲者の『鎮魂』を思うとき、日本の真の再生の為になすべきは、私達の一票を投じる行いなのではないだろうか。

 

                

                     龍翔する雲の向こうに、白山(モンブラン)が控えている図

  


  風邪と共に去りぬ・・・

2024年03月07日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  あれは相方の緊急入院の、2週間ほど前の事であったろうか・・・

  長年、旅行というと『パリ』しか思い浮かばない、相方の保守的というか、いつも『同じ行き先』ばかり選択する人間が、どういう風の吹き回しか

  今年は奇跡的に、私が長年夢に描いていた『ロンドン行』に賛成して、3月中旬に4泊5日の旅程を組み航空券を手に入れたところであった。

 

  相方は早速、ホテルはもちろんミュージカルの切符を手配、私は連日Googlemapをにらんで、大英博物館やら近くの公園やらの散歩道

  そして、日本人友人等(スイス在)の間で評判の、安くて美味い日本食レストランなどを重点的にチェックしては、英語で話せる国の旅を

  夢見るのであった・・・。

  (しかし実際、言葉に関して言えば、30年以上英語を使ってなく、今ではフランス語のほうがまだ聞き慣れている。『英語ならばまだ大丈夫…』と

  思っていた時期はとっくの大昔に過ぎ去っているのに、その認識を忘れ、『英語ならば・・・』という幻想を未だ抱いている私・・・)

 

  フランス語圏スイスに在住した当初、たいして出来るわけでもないのに『英語』を耳にするとホッとしたもので、そういった理由から

  比較的近い、英国のロンドンにはだいぶ前から私は憧れていたのだ・・・。

 

  それが、今回の相方の救急入院の一件で・・・『風邪と共に・・・』去ってしまったというわけ。 諸行無常は無情・・・であった。

  実際私の風邪の具合もいまだもう一つであるし、相方の腰痛もまだまだ本調子でなく、本来であれば来週の木曜の『ロンドン行』は所詮無理であった。

  『5月には行きましょう』とは、言っているが、私はこの相方の言葉に疑心暗鬼で、何がおこるか解らない昨今、極力期待しないことにした。

 

                     

  『風邪』といえば、今回の入院、相方は自らの『風邪』のおかげ(?)で、本来ならば相部屋であるはずが隔離部屋ということで、個室をあたえられ

  10日間の入院生活を(比較的)快適に過ごすことができたが、どこまでもそれなりにシブトイ相方である。

  (相方の友人が先日、ローザンヌの州立病院に救急車で行ったが、空き室がなく帰宅した・・・という話を聞くにつけ)

 

  今回の件で改めて思ったことは、相方の辞書に『忍耐』はなく、『即他力』を頼るところは、それなりにアッパレともいえる。

  病院から帰宅してからも体調不良であれば電話活用は120%で(医者への相談など)、なんらかの着地点を見出すまで諦めない・・・その点は『自力』か?、

  とにかく私とは正反対の質であることは間違いなく、勉強になると言うか・・・。

 

            


  アメリカン・ドリームは終わらない

2024年01月31日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  昨夜、Netflixでドキュメンタリー映画、『The Greatest Night in Pop』を観て、その感動が未だにおさまりそうにない・・・。 

  この映画タイトルだけだと何のことか解らないが、『We are the world ♫』といえば、『ああ!』と気づく人も多いだろう。

 

                 

 

  アメリカの黒人歌手ハリー・ベラフォンテは、アフリカ1984年(エチオピア)の深刻な『食料危機問題』に心をいため、歌手の仲間たちを集めて何か救済活動を

  できないだろうか・・・という思いが発端となり、著名なマネージャーでありプロデューサーであったケン・クレーゲンに相談したところ、たちまち

  ライオネル・リッチー、マイケル・ジャクソン、クイーシー・ジョーンズ等がイベントの中心核となり、最終的に40人を超える当時のスーパースター等を招集、

  出来上がったレコード『We are the world ♫』の売上金、約72億円を救済金として寄付したという。

 

  映画『The Greatest Night in Pop』は、ライオネル、マイケル、クイーㇱーによる作曲の経緯から始まり、メンバーの選択、招集手配・・・そして

  1985年1月28日の夜、招集した40名の歌手と、制作担当者等によるレコーディング風景のドキュメンタリーであった。

 

  集まったスター達が歌う様子は、これまでYoutubeなどで何度も観てきたが、そこに至るまでの経緯や逸話などを知ることで、感動を新たにした・・・。

  特に印象的だったのが、ボブ・ディランが歌うパートになり、どう歌っていいのか戸惑ったディランは、10歳年下のスティービーワンダーに相談すると、

  ディランの物真似でアドバイスを受け、ディランはディランらしい歌い方でレコーディングでき、皆一緒に喜ぶ場面がなんとも微笑ましかった。

  

                                                                                                        USA For Africa - We Are The World (HQ official Video) 

  問題は、1985年1月の一夜のドキュメンタリーがなんで、きっかり39年後の今年2024年1月の公開なのか?・・・ということなのだ。

 

  じつは、1985年の夏、私は2ヶ月間休暇を取って、ニューヨークに下見見聞滞在し、翌86年にアメリカン・ドリームを夢見て永住の覚悟で渡米したのであった。

  が、結局はその半年後、『アメリカン・ドリーム』の終焉を強く感じ、失意の心持ちでヨーロッパ経由で日本に帰国して再び禅修行に入った。

  (その辺の経緯は私の写真作品『Good-bye New York 1985』によく表現されている・・・と思う。このブログのどこかで発表したと思うが…)

 

  それはともかく、どんなにスーパースターでも、この一夜に起きた出来事(企画)は、彼等にとっても、なかなか観ることのできない『アメリカン・ドリーム』

  そのものであった・・・ということなのだ。

  この映画の中で、何人かの参加者達が39年前のこの一夜を回想するシーンがあり、皆一様に言う事が『参加できて光栄だった!』・・・である。

 

  検索すると、アフリカの食料危機は、2024年になっても未だ解決に至らず、二つの戦争も深刻化するばかり・・・などなど

  こんな危機感迫る2024年だからこそ、『慈愛』以外の何ものでもない企画『アメリカン・ドリーム』の在ったことを

  未だ知らない若者達へ、そんな出来事もすっかり忘れてしまったジジイ、ババア等に!

  良きメッセージとして、この映画『The Greatest Night in Pop』が、今年2024年に公開されたのではないか・・・。(この映画必見ですNetflixで)


   死神氏の来宅

2024年01月19日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  ちょうど先週の金曜に『死神』氏の来宅があった。

  『死神』とはじつに失礼な言いようであるとは思いながら、190cmはあるであろう体躯を黒のスーツに黒のコートをまとった彼を

  玄関に迎い入れた時、『死神』以外にはほかに形容できない趣で佇んでいたのである。

 

  彼は、ここヴォー州では知らない人はいない…というぐらい有名な、60人の従業員を従える葬儀屋の社長で

  去年、義母が亡くなった時に葬儀の一切を取り仕切った人であった。

  今は禿げ上がっているようであるが、それまではオールバックであったに違いない風貌と、長年の葬儀屋稼業が身に染み付いているのだろう

  佇まいのすべてが、『厳(おごそ)か』であり、発言の最後に必ず、『ムッシュ』とか『マダム』を付けて、非日常感を出すのだ。

  葬儀場ではじめて彼に会った時、私は映画マトリックスの誰かを連想・・・してしまった。

 

  そんな彼が何故、我が家に来たかというと、相方ニコルの終活のエンディングノートの葬儀一切について取り決める為であった。

  我が相方は、昔から『せっかち姉〜や』で、なんでも気が早く、去年葬儀屋の彼と知り合った事と、母の葬儀、墓場の手配をした経験もあって

  棺桶から墓場までの一切を取り決め、この日契約を交わしたのだ・・・。 『じゃ、俺はどうする??』・・・と後で私は思ったが、、、

 

  この死神氏、けっこう喋り好きで、相方と2時間近く取り決め以外にも、『死』にまつわる世間話をしてくれたそうだ。

  悲しい『自殺』が案外に多いことや、スイスでは合法で、増える傾向にある『安楽死』には、疑問視を抱いている・・・事など、など。

 

  いわゆる『終活』というのを全くしてこなかった相方の両親を反面教師として学んだ結果のうえでの今回の出来事であったかと思うが

  そうであれば、私がやった『禅修行』というのは、まぎれもない究極の『終活』ではなかったかと・・・と改めて思った次第。

 

              

     私の大好きな『8つの間違い探し』・・・は、地元新聞『24時間』に毎回?掲載されていて、先日たまたま複写したのがこのテーマ

  そうそう、彼が帰った翌日、相方は一日中寝込んでしまったが、やはり、『塩』を撒くべきであったか!・・・と後悔した事を記しておく。

  

  


   ひ孫の瞳のメッセージ

2024年01月15日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  我々夫婦の間で、『シャトー』というと、昔お城であった建物が老人ホームになり、そこに昨年11月より義父が入居した施設のことを言う。

  昨日そのシャトーに義父を訪ねると、案外元気というか、いつもより言葉がなめらかにスラスラ出るようだった。

 

  おしゃべり好きな義父は、喋りたい事が次から次と頭に思い浮かぶ、が、いざ喋る段になると、その場所名だったり人名が口から出てこない…

  そんな自分に大いに失望するのだが、それでも諦めること無く『・・・』と間をおいては、話せる箇所を話し続ける状態だ。

  私なんかは、彼より20歳近く若いのに、日本語とフランス語の狭間で愚脳が、日常的に炎上し炎症しているのだろう、

  ことに、会話の最中に人名が出てこなくて、イライラする結果、亀頭を甲羅に引っ込める亀の如く、『引きこもり』を良しとする

  諦めの境地から観ると、義父の決して諦めない頑固さに、私は内心『あっぱれ!』・・・と思っているところだ。

 

  そんな義父であるから、思っていることを何でも口に出すのであるが、

  たった一人の孫娘が産んだ、男の子の赤ん坊の写真の(小さな額に入れて、彼が入居した部屋にいつも置いてある)

  大きな『瞳の視線』が、どうも気になる・・・というか、恐れているようなのだ。

 

  私はそんな義父の気持ちがよくわかる気がする。

  いつであったか電車の中で、見知らぬ赤ん坊にじっと見つめられて、私はたじろいでしまった事をよく覚えているからだ。

  赤ん坊の無垢な、大きな眼でじっと見られると、何もかも見透かされれいるようで、恐ろしい・・・気がするのは誰もが身に覚えがあるのではないか?

  いやいや、私のように自分の『汚れ』を心のどこかで自覚している人間のみが、『無垢な視線』にたじろぐのであろう。

 

  とにかく、義父は90年以上生きてきて、『初ひ孫』という生まれたての、赤ん坊を身近に観る機会を得て、そんな感想を抱いたのであろう。

  いつか彼の『恐れ』が鎮まって、『ひ孫の瞳』をあらためて観た時、それは素晴らしいメッセージであることに気づくのだと思う。

  

  

 

                    

                      三日前、湖畔を散歩している時に出会った『子雪だるま』・・・のメッセージ


  『 八ちゃ〜ん! ・・・ 』

2024年01月10日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  昨夜、SNSで八代亜紀さんが12月30日に亡くなった事を知った。

  私は特別彼女のファンではなかったつもりが、Youtubeで彼女の歌をいろいろ聞いている内に、

  自分にとってとても大切な女(ひと)が、逝ってしまった感がして、急に悲しくなってしまい、夜遅くまで彼女の歌を聞き込んでしまった。

  雑誌のアンケートではないが、『嫁にしたい演歌歌手』・・・な~んていうのがあったら、俺は絶対『八代亜紀だろ!』などと、すっかり妄想の中。

 

            

              昨夜は初雪で、今日レマン湖畔を散歩してみると湖も少し寂しげ・・・だった。

 

  最近、ほぼ同世代の著名人の死亡が多い気がするが、その中でも八代亜紀さんの死亡ニュースには、何故かショックを感じた。

  同じ昭和の戦後時代を生きてきた良き友人が亡くなった・・・、彼女の歌や演歌と向かい合う彼女の生き様などが、そういう事を感じさせるのだろう。

  彼女が『徹子の部屋』で言っていた『トラック野郎とか漁師さん等にファンが多いのですが、孤独と向き合うお仕事の中で、私の歌に癒やしを感じて

  頂けているのは嬉しいです・・・』的な事情が、私にも刺さっていたのだと思う。 

  この動画の八代亜紀ファンのように、感謝を込めて『八ちゃ〜ん』と、私も心の中で絶叫してみた。

 

                               八代亜紀 / 舟唄 (1981) 

 

            

             


  情けない奴等

2024年01月08日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  私は、『能登半島地震の被災状況』について、れいわ新選組の山本太郎氏の現地取材による『政府、石川県知事への提言』レポートを読むことで

  その深刻な状況というのが、はじめて認識することができたように思う。

 

  スイス在住なので、Youtubeなどからみるニュース映像だけでは、現地被災者の状況は分かりづらく、

  地震の規模としては2011年の東北大震災と比較して、津波もそれほど高くなかったようなので、まずは良かったなぁ〜ぐらいに思っていたが

  Youtubeによる映像レポートも時を経て少しずつ深刻化している様子が伝わり、なにより山本太郎氏の取材レポートで、被害状況の深刻さを知るにつけ、

  それに対する県や政府の危機感が欠如した対応のあまりの落差に、正直恐ろしさを感じざるを得ない。

 

        

                6与野党、能登視察を当面自粛決定の図

 

  本来であれば、岸田首相は率先して現地被災地を訪れ、被災状況を体感、被災者らの意見を聞いてこそ、

  的確な対応策を指示することができる立場であるのに、よりによって与野党党首ら6人は、この写真のように固まってしまっていては

  被災地の人々は『見捨てられた』ような気分になることぐらい・・・解らないのであろうか。

  山本太郎氏が現地で被災者と一緒にカレーを食べたことが、SNS上で炎上しているが、バカの極みで滑稽ですらあり悲しい。

  ( バカ=山本太郎を批判している愚か者のこと)

 

 

 『 災害時には国会議員にしかできない仕事(役割)がたくさんある。

  単なる「視察」ではなく、被災地でリアルタイムで起きている問題を自らが持つ権限と人脈で一つ一つ解決していく。

  そしてその合間には、今後の復旧・復興対策や、将来の防災・減災対策に活かすための提案を聞き集める。

  こういう活動は、一般のボランティアではできない。

  「足手まといになるから自粛しよう」などと考えること自体、国会議員が自らを「無能」であり、

  「パフォーマンスしかしていない」と認めているようなもので、恥ずかしい限りだ。』  れいわ新選組 高井幹事長(Xより)

 

 

  2024年、元旦に起こった『能登半島地震』・・・というのは本当にいろいろな事を考えさせられる出来事だ。

  これまで、特にYoutube上で『大災害』が起きるであろうと予言され『2025年7月』が大注目を浴びていたが、

  *これらの予言者の中に、『2024年元旦の能登半島地震』を予言した人は誰もいなかったのか?

  *日本は島国であるから能登半島のような『半島』が沢山あり、そこに続く道路が一旦土砂崩れで等で遮断されると現地に行く手段が限られてくる

   ・・・という現実(簡単に想定できる)に対して国や県は即対応する対策計画(海路、空路)すら出来ていなかったのだろうか。

  *日本国民は、特に災害時にあって迅速な対応をすることで、多くの人命を救済する立場にある首相や知事が無能なリーダーである

   現状を認識し、次期リーダーにはその職にふさわしい人物を選択することを心がける良いチャンス(それでは遅すぎるだろ!)

  

    被災地で支援を続ける国会議員、山本太郎参議院議員を非難する恥知らずと筋違い。誰も被災地を知らずして国会議員の責務が果たせるか。2024/01/08

 

  最後に、山本太郎氏の提言のほんの一部を掲載し、被災状況の深刻さを理解してほしい…と思う。

  山本太郎 現地レポートによる、政府、石川県に向けての提言

  【最悪の事態を想定しているか】

  政府は、この災害が最悪の場合、何を生み出すことになるか想像できているだろうか。
  先述のNPOの方々は、このままでは、「熊本地震以上の災害関連死を出す恐れがある」、と懸念している。の危機感が政府や永田町にあるだろうか。
  発災時期を考えて貰いたい。東北の大震災は3月。熊本地震は4月。春に向かって、もしくは春に起こった災害だ。
  能登半島地震は元旦。これから更に厳しい寒さへ向かう中で起きた災害だ。能登半島を含む石川県全域が豪雪地帯である。

  今日から雪は降り始め、明日には積雪予想20cmの市町村もある。
  降雪、積雪の中、道路の修復や復旧作業は困難。加えて、通常時、除雪作業は地元建設業者なども請け負うという。
  除雪作業と復旧作業の両輪を廻せると考えるのは現実を見ているとは言えない。
 (もちろん全国の建設業者を大々的に雇って行うならば可能だろう。その場合、当然万博は中止、徹底した積極財政で被災地も支える覚悟が必要だ。)

  道路だけの話ではない。報道にあった首長の話で、市内の9割全壊・半壊、という状態から考えれば、この時期からの復旧・復興作業は困難と言える。
  仮設住宅ができるのはいつになるだろう。
  避難世帯分の仮説住宅、その土地を賄うならば、少なくとも更地にしたあとになるのではないか。完成はGW?それよりも後だろうか。

  その間も避難所での生活を続けるのは無理だ。すでに衛生環境が良いとは言えず、ストレスを溜める方々も多く、避難所によってはインフルエンザが拡大していると聞いた。
  トイレ後に手を洗うこともできない避難所が多くを占める。