40年前、私は禅修行である『坐禅』という『古池』に蛙のように飛び込んだ者である・・から、
今流行の『マインドフルネス』や『瞑想』・・・という行法について何も知らないので、『瞑想』と『坐禅』の『違い』について語る資格がないのではあるが
『東洋自分なり研究所』の所長を名乗っている以上、『自分なり』の考察というものがあってもいいかなぁ〜・・・と、思い直し、考察してみた。
『坐禅』の『坐』=『瞑想』で、
それが『禅』という『単的に示す』ものを観る為の行法であり、観た者はそれを、日常生活に活用する生き方・・・が、『坐禅』。
であるから馬骨論としては、釈尊の『坐法』という行法は、『悟り』以前を『瞑想』、『悟り』以後を『坐禅』・・・という風に考察。
『坐』の字については こちらを参考 2023年10月2日のブログ記事〜『坐』の字
とすると『瞑想』とは、『悟りの境地』を必ずしも求めない坐法・・・ということになる、かも。
しかし『瞑想』の『瞑』という字を見ると、『眼・耳・鼻・舌・身・意』の六感覚を封じ込め、その自己を外から『目』で観ている状態を表す『瞑』・・・(馬骨流解字)
ということで、『瞑想』も正しく徹底してやれば『悟り』にいたる(釈迦の如く)行法ではある。
スイスでも時折、瞑想をしている人を見かける・・・